第5話

 そんなある日、拓ちゃんは、座り込むことなく四つの障害をクリアする回数が増えていき、チームの職員から、座り込んだり、甘えることがなくなったとの報告を受け、アスレチックに慣れ親しむようになったことを確認して、私は、二つの提案をしてみた。

 一つは、これまでしていた、アスレチックの終了の合図にしていた手を上げ、指差しで示していたホールの出入り口を、アスレチックの終わり、転がるマットの前に数字を書いた用紙を置いてみる。彼の目に分かりやすく、マジックで大きく書いて示す。アスレチックを一度クリアするごとに数字を一枚裏返して見えなくする。用意する用紙は大きいもの、用意する枚数は、これまでクリアした最高回数の五枚とする。ただし回数は流動的なものとし、可能なら今後、増やしていく。 

 二つ目の提案は、アスレチックを終えた後、用具をホールの隅に職員と一緒に片付ける。

 すると、二つの提案に、不安を口にする職員も居た。

「いきなり二つも大丈夫ですか?一つづつ様子を見てはどうでしょうか」

 重みになって、拓ちゃんのストレスになりはしないかと、焦らずに一つずつ、というのが職員の意見だ。他の職員からも同様の意見が出された。

 そこで先ず、数字を書いた用紙を置いて、アスレチックを一度クリアするごとに職員が一枚裏返し、置いた枚数だけクリアしたらホールから出ようと合図で出入り口を指で差すことから始めることにした。

 拓ちゃんは、用意した用紙がすべて裏返ると、じっと職員を見た。手を上げ、指でホールの出入り口を指し示すと指に誘われホールから出て行った。 毎日、同じことが繰り返され、ある日のこと、ある思いに至った。

 指差し指示。言葉だけで「終わりだよ」あるいは、「寮に戻るよ」と言って、手振りをなくしたら、拓ちゃんは、きょとんとして職員を見ているだけだった。

(拓ちゃんが自分で用紙を裏返せないだろうか?)

 床に置いた用紙がすべて裏返ったらアスレチックは終わり、寮に戻ると理解を示さないか。

 障かいが重いとは言え、学習能力はゼロではないはずだ。

 そんな思いで、最初は、用紙を拓ちゃんと一緒に裏返してみることから職員に指示した。


 拓ちゃんは、職員の導くまま手を用紙に置いた。職員が、用紙を少し床から浮かせて指で掴みやすいようにして拓ちゃんに促すと、手を伸ばして用紙の端を指でつかんだ。これまでの拓ちゃんなら、すぐにグシャグシャにして丸め、下手をすると、破り、口に入れて食べていた。ところが、拓ちゃんはそうはしないで、職員の導く裏返しを受け入れて、一緒に裏返し、裏返した後も、用紙に対して何もしなかった。

 新たに取り入れた、用紙を裏返すという変化に、拓ちゃんは動揺を見せなかった。それだけでなく、置いた用紙の三枚すべてを一緒に裏返して、「終わりだよ」と職員が入り口を指し示すとホールを後にした。

 次の日、職員が変わっても同じ行動を取った。次の日も…と、ある日、チームの相原美智子からこんな話が夕礼でされた。

「拓ちゃん、並べた数字の用紙をバラバラにすることがないですね。丸めてしまうこともないし、口にすることも見られない。私、信じられなくて」

 この日は、月に一度の職員会議のあった日で、支援チームの内、四人が勤務していた。

「それ、報告でみんな知ってるよ」

 何を今さらそんな話を?

 他の職員が一様に怪訝な顔を向けると、

「違うよ、最初から今日まで、一度も見られないってどうして?と思ったのよ。そんな拓ちゃんが信じられなくて」

 そう思うでしょ?と、職員に目を巡らした。すると、

「自傷が減っているしね。正直、自由な時間があまり減っていない状況の中で、離れた場所で拓ちゃんを見守ることに不安があったんだ。支援を始める前は、自傷があまりに激しくて、舌を傷つけて出血していたからな。ここまで改善が図れるなんて思わなかった」 

 二年目の後藤直也が口にした。チーム以外の職員からも、

「以前なら、拓ちゃんがそばに居ると衣類を畳んでいても崩されはしないかとはらはらしながらだったけど、今は手を出してくることがなくて、逆に心配になります」

 職員皆が頷いていた。

 日課の散歩以外、これといった日課がなく、有り余る一日の自由時間を職員が張り付くように一緒に居たのだ。自傷に神経を尖らせ、拓ちゃんは、そんな職員にストレスを貯めて自傷が増え、激しさも増していったのだ。たくさんの自由時間がある中で、自傷を減らす目的を持って支援に当たっている時間はわずかなものだ。後は、少し離れた場所で拓ちゃんを見守る。見守る時間が圧倒的に多いのだった。後藤だけでなく、職員の誰もが不安を抱えながら見守っていたに違いない。

 私も同様だった。

 自閉症の知識を山のように積み、私のわがままでアメリカにも視察に行かせてもらった。そうであっても、実際に試みるのは初めてのことだ。果たして自傷を軽減できるのか、不安だらけの支援スタートだった。

 それが今は、不安を一掃するように拓ちゃんは自傷が減っていた。

「それでね、積み木の片付けを試していいんじゃないかなと思うの」

 相原が口にした。すると、

「僕も賛成だ。相原の言うことは僕も感じた。ストレスが拓ちゃんからあまり感じられなくなった」

 美山園で八年目の染谷恭一から合いの手が入った。彼には、チームの外側にいる職員をまとめてもらっている。支援に反発があったとき、私に直接に意見が来なかったのは彼のおかげだ。私のやり方に反感を持つ職員の意見をすべて聞き、寮長と二人で一人一人と話し、気持ちを納めてくれていたのだ。

 頭が下がる思いだ。

 と、後藤が何か言いたそうにしていた。

「後藤、意見があれば遠慮なく言っていいんだよ」

 私が言うと、

「僕は、もう少し様子を見てからでもいいんじゃないかと思います。確かに、ホールで見る拓ちゃんは、相原さんの言うように落ち着いています。だけど、取り組んでまだ日が浅いと思うので、もう少しだけ数字を裏返すことを様子を見て、拓ちゃんが自分から裏返すようになるかわからないけど、それから片付けを試してみるでいいと思うんです。焦る必要はないんじゃ…」ベ

 苛立った相原の声が割り込んだ。

「別に、焦ってはいないわよ。拓ちゃんを見て、感じるものがあるから言うの。拓ちゃん、きっと数字を自分から裏返す。慎重になるのは分かるけど大丈夫だよ、やれるよ」

 相原は、少しムッとしていた。

「…」

 気圧されたのか、後藤は、言い返さなかった。

「どうですか?宮田さん。片付けを試して見ませんか?やれる気がするんです」

 私は、相原を見て、やってみようという気になった。と言うのも、これまで、拓ちゃんの支援を始めてから、私から指示を待ち、指示が出ると行動に移すという職員の受け止めかただった。それが、チームの相原から積極的な意見が出された。

「後藤、どう思う?」

 黙ってしまった彼に訊いた。

「僕は…宮田さんの支持に従います」

 消極的な意見に、

「思っていることを言っていいんだよ。皆、不安の中で拓ちゃんの支援を続けているんだ。今の拓ちゃんを見て、感じるものがそれぞれにあると思う。更に自傷を軽減できるように、いろいろな意見を訊かせてほしいんだ。職員がみんなで拓ちゃんの自傷を軽くしていくんだ」

 私は、職員に目を巡らし、そして口にした。

「相原の意見、みんなはどう思う?」

 職員の意見を待った。最初、皆、下を向き、考えるようにしていた。沈黙し、静かな空気が夕礼のスタッフルームに流れた。

「いいと思います」

 しばらくして、後藤の声が静かな空気に流れ込んだ。それを聞いて、他の職員が後藤に目を向け、こくりと頷いた。

 誰も、相原の意見に賛成の意を示して、異なる意見を口にする職員は居なかった。

"アスレチックを終えた後、職員と一緒に用具を片付ける"

 実行することで意見が一致した。


 二人で四角く大きな積み木を一つずつ運び、積み上げていく。最初、キョトンとした顔で立っていたが、促すと、積み木の端を職員と同じように持った。そのまま一緒に移動し、ホールの隅まで運び床に置いた。積み木まで戻って職員が積み木の端を身を屈めて持つと、拓ちゃんも身を屈めて積み木の端を持った。再び一緒に隅まで運び積み上げる。

 拓ちゃんは、物を片付けることが苦手で、できない。きちんと整理して置いた物を崩し、畳んだ目の前の衣類をぐしゃぐしゃに崩してしまう。何でも崩し、また、壊すことを繰り返した。その逆の行為ができない。"壊し屋"と、呼ばれることもあった。

 そんな拓ちゃんが、積み木をすべて運び、積み上げた。それだけでなく、アスレチックに使用した用具をすべて、最後まで苛立つことなく片付け終えた。

(すごい) 

 すっかり片付いて、ホールの中央に物がなくなった。これでアスレチックは終了。彼が目にしてその事を理解し、寮に戻ることが次の目標になった。

 すごい!

 夕礼で、職員皆が驚いた。

 この片付ける行為は、一度に終わらずに次の日も、またその次の日も続いた。それだけでなく、すべて片付け終えてホールの中央に物がなくなると、拓ちゃん自ら職員と手をつなぎ、ホール入り口へと移動し、寮に戻るようになたった。きっと、同じことを繰り返したことで拓ちゃんが理解して、行動に移せたのだ。

 更に拓ちゃんは、ドレミ…と、足で踏むと音を発するMパッドを、数字がなくてもドから順番に、間違えることなく踏めるようになっていた。褒めると笑顔になり喜んだ。

 拓ちゃんは、目に見える一つ事柄を繰り返すことで理解をしていった。数字などの補助的なものを取り去っても覚えていて戸惑うこともなく正確にクリアできた。

 支援に反発していた、拓ちゃんをよく知る勤務歴の長い職員までもが、この変化を喜んだ。 

 でも、最後のマット運動だけは、寝そべることはあっても転がらないとの報告が続いていた。拓ちゃんは、寝そべる行為を示し続けていて、私は、無理に転がる必要はないと見ていた。ところが、ある日、チームの職員から提案が出された。

牛嶋深雪、五年目の職員だ。

「マット運動は好まないようです。単に寝そべるだけなら、他の事を考えて見てはどうでしょうか」

「他の事?」

「はい。例えば、マッチングとか。同じ形、長さのものを重ねてみるのはどうかなと。アスレチックの用具を片付けられるなら、試してみてもいいかなと思うんです。畳み終えた衣類の中に居ても崩して回らないし」

「ストレスを溜める結果になりはしないか?」

 壊し屋のイメージが抜けない職員からの意見に牛嶋は、 

「大丈夫と思う。アスレチックの用具を片付けられる拓ちゃんなら、マッチングを受け入れられる。駄目なら、アスレチックを三つにしてもいいと思うの」

 三つにか。四つに拘っていた頭の硬い私の目を覚まさせてくれる意見だった。

 そんな牛嶋に、意見を返す職員はいなかった。

「やってみよう。今の拓ちゃんなら大丈夫だ」

 私に確信があったわけではなかった。牛嶋の熱気に背中を押されたのだった。

「マッチングに使うものは何にする?」

 問うと、牛嶋は、

「彼の衣類を使うのはどうですか?上着、ズボン、肌着、それぞれ畳んだものを籠に入れて重ねていくのはどうでしょうか」

 私は、驚いた。用具の中から選ぶと思っていたからだ。

 彼の衣類か…。

 牛嶋は、

「やってみましょうよ。崩さずに重ねられたら嬉しいじゃないですか。できると思います」

 どこまでも熱い。そんな牛嶋の意見に乗り、また、他に案が出ないこともあり、実行に移すことにした。

 目で見て同じ種類のものを揃えられるように、絵で示すようにした。

それを、衣装ケースの内側に貼り、絵と同じものをケースの中に入れていく。最初は数を少なく始めることとして衣類ケースをホールに四つ運んだ。絵を描いて、上着、ズボン、肌着、パンツと分けて衣類ケースの内側に貼った。

 それぞれの衣類三枚からスタートした。

 職員が畳み、それを一緒に衣類ケースに入れる。それを、毎日、毎日、衣類の順番を変えずに繰り返した。

 拓ちゃんは、牛嶋の読みの通り、畳んだ衣類を崩すことなく衣類ケースに入れ、すべて終えると、用紙を一枚裏返した。そこで注意する事柄が一つあった。

 用意した衣類は、衣類ケースに納めると、二度目のためにケースから出して崩すのだ。床に置いて、二度目、三度目と繰り返される。拓ちゃんが真似をしないように、衣類をケースから出すのを見られないようにしなければならない。拓ちゃんをアスレチックのスタートの前に座らせて待たせ、ケースから離し、職員は、背中で隠して取り出し崩す作業を行ってみた。

 拓ちゃんは、職員が渡す畳んだ状態の衣類を崩すことはなく、職員が指し示すそれぞれの衣装ケースに入れていくことを繰り返した。 

 二日目、三日目…一週間、変わりなく繰り返し、畳まれた衣類を衣装ケースに収めることができた。

 これは、実際の生活の中でもできるのではないか、そう思う職員が現れ、意見が出された。

「自傷がほとんど見られなくなっているし、ストレスはなくなっていると思うので、実際に生活の中で彼を観ていってもいいと感じます。アスレチックは彼の楽しみの一つなので続けるとしても、衣類をケースに片付けることは、寮でできるのではないかと思います」

 牛嶋深雪から出された意見に、誰もが首を縦に振った。 

 チーム職員が見守り、生活補助職員(パート職員)が担当することになった。

 生活補助職員は、利用者の衣類の洗濯、繕い、食事の配膳などの生活全般を担当する職員である。地域の人が積極的に採用されていて、家事のベテランが多い。

「できますか?不安だなあ」

 塚原美也子さんは、八年になる。その間、学齢年齢の拓ちゃんをそばで見てきていて、何度も寮を飛び出して、地域の家に無断で入り込んで食べ物を漁っていた、職員を困らせていた頃を知る職員だ。それだけに、支援後の拓ちゃんの変わり様を一番肌に感じている職員と言えよう。

「塚原さんにしかできないですよ、お願いします」

 不安ながら、塚原さんは承諾してくれた。

 

 


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