…私はこの日の事をよく覚えている。

理由は2つある。その日は春には珍しく、激しい雨が降っていたから。

そして…残りは、私の話を聞いてれば、おいおいわかるでしょう。





その日、私はパジャマのままあの空き地で泣いていた。多分、何かで母親に怒られて頬を叩かれ、バーから飛び出して来たのだ。

私の頭や肩を勢いのある雨が叩きつけ、靴の中にまで雨が侵食して足先がかじかんで、雨で服と皮膚がべったりとくっつき、けれども怖くて家に帰れず、ただ雨と混じる涙を流していた時の事。



「…あ、れ、きみ、どうしたの?」

初めてあった時と同じ、男は私の背後から声をかけた。

男は様子のおかしい私に気づいてかけより、私の上に骨が一本壊れているビニール傘を差し出してくれた。


「な、な何かあったかしらないけど…風邪引くよ。お家に帰ろうよ。」

男が言う。

「帰らない!絶対に帰らないから!」

泣き叫ぶ私に男は戸惑いの表情を浮かべる。

傘を差し出した男の頭は、髪の先に雨が滴っていた。

暫く私がグズグズと啜り泣く声だけが響いた。考え込んでいた男はすくっと立ち上がり、

「僕、の家、此、処の近くだからタオルを貸すよ。つ、いてきて」

と言った。


男の家は本当に近くにあった。

父親の家というそれは、いかにも昭和に建てられた日本家屋という感じで、家全体から埃っぽい匂いがした。

けれど私が母と住んでいるバーの奥の空き部屋より遥かに広く、掃除の行き届いているように思えた。此処なら私が10人は住めそうだ!と、当時の私は思った。


玄関で待っていろと言われたが、私はタオルを探しに行った男の後を親鳥を追うひよこの様にとてとてと付いて行った。木の廊下に、靴下に染み込んだ雨で私の足跡が出来る。


洗面所で頭や体を拭いていると、甘い良い香りがしてきた。

台所で、男が湯気の出るポットを持っていた。

渡されたコップには、ココアが入っていた。

広い家で、怒られなくて、あったかいココアも飲ませてくれる。こんな良い日はなかなか無い。

「ど、うしてあんなところにいたの。雨の日に傘ももたず…。」

男が聞いた。

私は考えた。

前に、近所の人になぜ子供が昼間歩いてるのか、そんなに痩せてご飯を食べているのかとしつこく聞かれた事があった。

母がなんとか誤魔化したが、それから母は私に、身の上や母親の職業に対して人に話してはならないときつく言われている。

でも、この男は優しい。私はこの人を多分、信じていいし、ココアを貰った恩もあるし、本当の事を話すべきだ。


私は男に母親が小さなバーを経営しており、稼ぎがほぼバーの酒代に溶けていている事。

その為学校にも通えてないし、食事も雀の涙程である事を前とは違い、なるべく客観的に話した。

「そ、うなんだ…辛いね。

…………なにか力になれる事はある?」と男は言った。私は「分からない。」と答えた。


3杯目のココアが空になり、外は眩しいほど晴れ上がっていた。

玄関で男は、私の名前を聞いた。

「まちこだよ。春雨まちこ。」

「春雨か。今日みたいな天気の事だね。」そう言って男が微笑した時、私はある事を思いついた。





急いで帰った。


母はカウンターに突っ伏してぐうぐういびきをかいて寝ていたが、そんな事どうでも良かった。

寝室の荷物の中から、母のお下がりのピンク色のリュックサックを取り出した。その中に綾鷹のペットボトル1本といつか食べようと思っていた包み紙に入ったチョコレート3個を入れた。

私はせんべいの灰色の缶に、道に落ちてた表面がぷくぷくしているヘアピンや、綺麗なビーズ(光に反射させると宝石みたいにキラキラになる!)を入れて、『宝箱』と呼んで大事にしていた。リュックサックに入れようと奮闘したが、角張ったそれは入らなかった。なので渋々置いていく事にした。


リュックサックをからい、私はバーを飛び出してあの男のひとが住む家に全力疾走した。両の肺がじんじん痛むほど走った。生まれてからあんなに走ったのは初めてかもしれない。


インターホンを押す。

扉を開けた男は最初、目の前に誰もいない事に驚き、目線を下げて背丈の小さい私に気づいて、声をかけた。


「どう、したの。」

「亮さん、さっき僕に力になれる事はあるかって私に聞いたよね!?」

「う、うん…。して欲しいこと、何か見つかった?」

私は男の顔を見つめた。瞳に嬉しそうで興奮している表情の私が映っているのが見えた。


「うん。私、 

 此処に住むよ。」







……理由の2つ目は、私が此処に住みだした…皆っていうか、世間からしたら私が誘拐された日?、だから。

でも、私は誘拐されたんじゃない。

孤独で憐れな深町亮太の優しさに漬け込んで、彼に私を誘拐させたんだよ。






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