第一章「出会い、あおい寮」

 おにぎりをくれたばあさんに別れを告げて、俺は駅前に立っていた。


 看板には「夕凪駅」と書かれている。うん、見た事も聞いた事もない。そりゃそうか、初めて来たんだし。


 外の世界では、夏の役者達がそれぞれに季節を演出していた。それはそれは全力で、彼らは手加減というものを知らない。太陽は「もうそれぐらいで止めにしない?」と言ってしまいたくなるほどの光と熱気を放ち、セミ達は土の中にいた七年間の思いをここぞとばかりに地上で叫び続け、緩やかな風は海から託された潮の匂いを律儀にここまで運んでくる。色々な条件が揃わないと、この季節にはならない。そう考えると自然って凄いなぁ。と、何かを悟ったじいさんのように自然の壮大さを噛み締めながら、俺は駅の周りを見渡していた。近くにはバス停と駄菓子屋が一軒、少し離れた場所には海と山が見える。他にはこれといって何もない。俺が普段生活している環境とはえらい違いだ。


 これが田舎かぁ……今自分がいる場所がそうなのだと、改めて実感する。ネットやテレビでは何度も見た事があるが、こうやって実際に自分の目で見るのとは全然違うように思う。とまぁそんな事を考えながら、しばらくぼーっとその場に立ち尽くす。そして、見知らぬ地に辿り着いた記念すべき俺の第一声は、


「暑い……死ぬ」だった。


 当たり前だが電車の中より、外の方が暑い。思わず謝罪の言葉が浮かぶ。


「拝啓、扇風機君。さっきの電車で何か物足りないなんて言ってごめんなさい。俺はもう、君なしでは生きられない体になっています。山岡和希」


 電車での光景が走馬灯のように蘇る。嗚呼、あの頃は幸せだったなぁ。次第に意識が遠のいていく……。


 ………

 ……

 …


 おぉ、まずいまずい!! 今、ミイラになりかけるところだった!! こんなところで……こんなところで死ぬわけにはいかない!!


「緊急事態発生! 緊急事態発生!」


 その瞬間、脳内でけたたましくサイレンが鳴り響く。


 すぐさま俺の分身であり、様々な役割を担う脳内官僚達が慌ただしく集結し、緊急会議を始める。そしてコンマ二秒で話し合いは終了。多数決の結果、生命維持装置ならぬ『想像ボタン』を押すべきだという判決が下されていた。俺は迷わずその指示に従う。


 ポチ。


 ……爽やかなBGMとともに脳内劇場が幕を開けた。


 俺は自販機の前に立っていた。幸せに満ちた表情。視線を下せば、アスファルトに買ったばかりのペットボトル達が並べられている。


【……コーラ……ファンタ……サイダー……ポカリ……カルピス……】


 俺は一本ずつキャップを開けていく。そして順番など御構い無しに、


 ——飲む——飲む——飲む——浴びるように飲む——浴びるように飲む——浴びるように飲む——浴びるように……てかなんかもう浴びていた。頭から。


 体の汗が引いていく。ベトベトだが。体温が下がっていく。ベトベトだが。気持ちのいい爽快感が隅々にまで行きわたっていく。やはりベトベトだが。


 嗚呼、生き返る。明後日の方向をみつめながら、最後に俺は決めセリフを口にする。


「探し求めていたオアシスはここにあったのか」と……。


 BGMの盛り上がりが最高潮へと達したタイミングで『Fin』というテロップが浮かび上がる。


 大音量で鳴り響く拍手と歓声。


 しばらくして、その音がいつの間にか蝉の鳴き声へと変わっている事を認識した時には、俺は現実の世界へと舞い戻っていた。ここまでの所用時間はざっと三分。脳内で一通りのシュミレーションを終え、勝利を確信した俺は近くにある自販機の前へと駆け込んだ。期待と興奮を胸につり銭を入れる。さぁ、脳内劇場を完全再現してやろう。どれを飲もうか。俺は自販機をまじまじと見つめる。


 【……おしるこ……コーンポタージュ……ホットコーヒー……ココア……ぎとぎと味噌汁……】


 ——オアシスは一瞬にしてマグマへと変わった。


 「なんでじゃー!!」


 思わず叫んでしまう。その近くで犬を散歩しているじいさんが、こっちをちらちらと見ている。俺は愛想笑いを全開にして軽く会釈をした。


 落ち着こう、落ち着こう……そうだこれは蜃気楼だ。あまりの喉の渇きでありもしないものが見えているに違いない。


 俺は気を取り直して、もう一度商品を眺めてみることにした。


 【……おしるこ……コーンポタージュ……ホットコーヒー……ココア……ぎとぎと味噌汁……】


 無視、無視、蜃気楼なんかに負けてたまるか。俺は自分を震い立たせる。


 ……おっ! 一番端の方で、申し訳なさそうにしているコーラを発見!! そうだ、これを求めていたんだ。


 俺は周りには目もくれず、コーラに一点を集中させて人差し指を伸ばした。


 と、次の瞬間。


 俺がボタンを押すよりも先にピッと音が鳴る。ガタンと飲み物が落ちる。手を伸ばす。超絶熱い。商品を見る。


 ——ぎとぎと味噌汁


「なんでじゃー!!」


 思わず叫んでしまう。またしても犬を散歩しているじいさんが、こっちをちらちらと見ている。俺は愛想笑いパート2を全開にして軽く会釈した。


 疲れた……無駄な体力を消費していたらしい。 


「おい!」


 声が聞こえる。周りを見渡してみても誰もいない。遂に耳までおかしくなってしまったのか。何となく自分が心配になってくる。


「おい、どこ見てんだ!!」


 声は聞こえるが姿が見えないのが不思議だ。それにしても口が悪い。人を呼ぶ時はもっと丁寧に呼ぶのが礼儀だろう。


 などと思いながらもう一度周りを見渡すと相変わらず誰もいないので、試しに視線を下に向けてみる。


 ……いた。


 そいつは真っ直ぐに俺の顔を見て、変わらない口調で続ける。


 「やっと気づいたか、ぎとぎと野郎!」


 「だっ、誰がぎとぎと野郎だ! てかお前か! 勝手にボタンを押したのは!」


 「そうだ、お前がぎとぎと味噌汁を飲みたそうな顔をしていたからな」


 「どんな顔だよ! ってかくそ暑いのに、こんな味噌汁飲みたいわけあるか! 俺はコーラを飲みたかったんだよ、コーラ! ったくちびっこにはコーラもわかんないのか全く……」


 ちびっこ……俺のこの言葉は、表現の仕方として間違ってはいない。


 その象徴とも言える赤いランドセルを担ぎ、リコーダーが差してあったり、真っ白な給食袋がぶら下がっていたりする。短めで活発そうな髪型からも、まだ一度も毛染めというものを経験した事がない、綺麗な黒髪という印象を受ける。くりくりの大きな瞳をこちらに向けて、美少女と呼ばれる容姿である事はまず間違いない。思わず自分を見失いそうになる……………………が、決して俺はその道の人ではない。本当だ。


 ……とにかく!! こんな奴の事を、ちびっこと呼ばずに何と呼ぶんだ。俺はそう自分に言い聞かせる。しかし、どうやらそれは禁句らしかった。


 「殺すぞ……」


 どこから出たんだ、そんな低い声? という疑問が頭に浮かぶのと同時に、俺は奴の強力な右ストレートを股間に受ける事となった。効果は抜群だ。もはや悶絶するしかない。


 「こ……このガキ!」


 小学生は素早いもので、いつの間にかぴゅーっと俺から離れ、舌を出しあっかんべーをしている。けらけらと笑いながら、


 「バイビー」


 という捨て台詞を残して去って行った。一体、何だったんだ…… 


          ◆◆◆


 小学生に絡まれた後、俺はぎとぎと味噌汁を鞄の中に封印し、代わりに念願のコーラを飲んでいた。


 「くーっ、きくーっ!!」


 謎の奇声が駅前で木霊する。


 心なしかダメージを受けた股間の痛みも和らいでいくようだ。そして腰に片手を当てているその洗練されたスタイルはどこか神々しくもある。さしずめ俺は風呂上がりの一杯を楽しむただのおっさん。今は自分が高校生だという事は忘れる事にしよう。


 ……いや、待てよ。こんなにのんびりしていていいのだろうか? 何か大事な事を忘れているような……。


 「あ!?」


 まずい、バスの時間だ!! 俺はコーラをゴミ箱に突っ込み、大慌てでバス停に向かった。しかし、俺が辿り着くよりも一足早く、肝心のバスは煙を残しながら颯爽と走り去っていった。


 「まじか……」


 虚しく取り残される俺。


 あの殺人兵器のような自販機のせいだ……いや、あのちびっこのせいだ……いやいや、結局、時間を忘れてコーラに魅了されてしまった自分のせいか……不覚。とりあえず時刻表を確認しよう。次のバスはと…………三時間後。


 絶望的な数字がそこには書かれていた。


 ため息と一緒に魂まで抜けてしまいそうだった俺は、何気なく目線を横に向ける。


 ——時間が一瞬、止まった気がした。


 木でできたトタン屋根のバス停。さっきまで全く気づかなかったが、そこに女の子がいた。


 ベンチに腰掛けラムネを飲んでいる。黒のワンピースに麦わら帽子をかぶり、遠くの海を眺めている姿は、どこか儚げな印象を受ける。


 まるで景色と一体化しているような、最初から当たり前のようにそこに存在しているような。


 まさに「絵になる」という言葉は、こういう時に使うのかもしれない。そして俺の頭の中で、幾つかの疑問が浮かんだ。 どうしてバスに乗らなかったんだろう? このまま三時間も待つつもりなのか? まぁ、そんな事を考えたところで俺には関係ないか。とにかく三時間も待ってられないし、歩くしかない。


 俺はスマホのナビに住所を入力し、目的地に向かう事にした。海を眺めている女の子を残して。


          ◆◆◆


 三十分は歩いただろうか。


 額から汗が滴り落ちていく。肌にTシャツが張りつく。そんな状態も最初は嫌だったが、いつの間にか大して気にならなくなっている自分がいた。


 辺りには太陽の光を浴びて、緑一面の田園風景が広がっていた。時折風が吹くと、稲の葉がサラサラと揺れる。その様子はどこか波みたいで、あぁ陸にも海があるんだなぁと柄にもない事を思った。急にずっと握り締めている自分のスマホが、この景色と不釣り合いに思えて、特に誰にというわけでもないが申し訳ない気分になる。


 とはいうものの、地図がある訳でもなければ、仮にあったとしても俺にはまともに読めやしない。


「この先、直進です」


 スマホから親切なお姉さんの声が聞こえる。うん、科学の進歩最高。現代人万歳。

 五秒で申し訳ない気分を忘れ去った俺は、目の前に見えてきた石段を上っていく。周りには木々が立ち並び、まるでトンネルのように続いてく。木漏れ日がキラキラと輝いていた。この石段を上りきれば目的地に辿り着く。あともう少しだ。


 今日は七月二十五日。


 世間では当たり前のように夏休みが始まっていて、それは高校三年の俺にも例外なく当てはまる。


 他の学生たちは、今頃色々な事をしているだろう。ツレや彼女と遊んだり、家族と過ごしたり、部活に明け暮れたり、受験勉強に明け暮れたり。俺みたいに一人でよくわからない田舎に行くような物好きなんて、まぁいないと思う。


 そもそもどうしてこんな状況になったのかというと、まさにノリと勢いだった。部活もしてない、彼女もいない、これといってツレも多い方でもない。一人は好きだが、さすがに一ヶ月以上も休めと言われると何をしたらいいのかわからない(夏休みの宿題は誰かに見せてもらい丸写しorやらないスタイル)


 そこで、俺はどこでどう血迷ったのか、ネットでこんなワードを検索していた。


「住み込み バイト」


 検索の結果、色々な案件が溢れ出してきた。その中からどれにしようかと悩んでいたのだが、どうせなら旅行感覚でバイトをしようと思い、約三時間かけてここまでたどり着いたという訳だ。


 ただ、一つだけ気になることがある。それは仕事内容。ネットの記事には「手伝い」としか書かれておらず、あのざっくりとした感じが少し気になる。さすがにこんな田舎で詐欺にあうような事はないと思うが……まぁ、初めてのバイトだし給料はもらえる訳だから、多少の事は我慢するか。細かい事は向こうで聞けば何とかなるだろう。そんな事を考えている内に、俺は最後の石段を上りきっていた。


 「目的地に到着しました。お疲れ様でした」


 スマホから再び親切なお姉さんの声が聞こえる。そして乱れた息を整えながらも、最後の力を振り絞り、その場所の前まで移動する。


 ——木造の建物。


 それは一瞬にして俺の視界に飛び込み、強烈な存在感を放っていた。


 俺の目的の場所。


 今日から約一ヶ月間生活する場所。


 やっと到着した。


 「これがあおい寮か……」


 期待と不安を胸に俺は、古びた引き戸をガラガラと開けて中に入っていった。


 「ごめんくださーい!」


 「…………」


 「山岡です! 住み込みのバイトで来ました!」


 「…………」


 俺は玄関から声をかけるが、全くもって返事がない。あれ、ここであってるよな? 急に不安になってきたので、スマホにメモした住所と時間を確認する。住所もあっている。時間も15時で間違いない。さて、どうしよう。ここでずっと待っている訳にもいかないし、先に上がらせてもらうか。


 「……失礼しまーす」


 下駄箱に自分の靴を入れ、中に入っていたスリッパに履き替える。俺は不審者のようにキョロキョロと辺りを見渡していた。少し歩くと床がぎーっと音を鳴らす。当たり前だが、本当に全てのものが木で出来ている。その証拠にさっきから微かに木の香りがしている。うん、嫌いじゃない。


 ふと思った。


 ……あれ? 俺ここに来るの初めてだよな? 今までこんな場所には来た事がない。来た事がないはずなのに、どこか懐かしい気持ちになるのは一体何故なのだろう。


 そんな不思議な感覚を抱きながらも俺は、玄関の棚の上に置かれているあるものに目を奪われる。


 黒電話だ。


 凄い、本当に存在するとは。現代人、都会育ちの俺にとって、もはやそれは架空の世界の一品だった。……人の気配はない。よし、記念に写真を撮らせてもらおう。


 俺は再びスマホを取り出し、電話で電話を撮るという、かなりシュールな行動に出ていた。


 パシャ、パシャ。いい感じ。次はアングルを変えて。


 パシャ、パシャ。おぉ、さすが黒電話。絵になるねぇ。


 パシャ、パシャ。おいおい、そんなに恥ずかしがらなくてもいいんだぞ。


 パシャ、パシャ。大丈夫、後でじっくりと加工してやるからな。ぐへへ。


 シャッターを押しているうちに、脳内がおかしくなってきた。もはや、カメラマンっていうよりただの変態だ。こんなところ、誰にも見られたくない——。


 「何してんの?」


 俺の希望は一瞬にして砕け散る。


 声が聞こえる方を振り返ると、そこにはエプロン姿の女の人が立っていた。その呆気にとられた表情からして、今の一部始終を見られていたらしい。


 最悪だ……もう一度言おう、最悪だ。


 穴があったらすぐさま入って、さらに深く深く掘り続けて、地球の裏側で一生身を隠したい。


 「…………」


 「…………」


 気まずい、物凄く気まずい……何か答えないと。


 ただ、初対面の人にはとにかく第一印象が大事だ。今以上に変な印象を与えてはいけない。挽回あるのみ。そして、今この状況に必要なのは動じない心。つまり余裕だ。そこで俺は、余裕のある大人の男を演じてみる事にした。少し声のキーを低くして、言い回しをゆっくりと色っぽくかつあたかもこれがごく当然の事のように、


 「えっと、何をしていたかというと……」


 前髪を掻き上げる仕草も追加してみる。しかし、俺は超短髪なので掻き上げるほどの前髪はない。右手が虚しく空を切った。


 「会話をしていました」


 「会話?」


 「はい」


 「黒電話と?」


 「はい」


 爽やかな笑顔を全開にしてそう答える。


 完璧だ。これでこの危機的状況から抜け出せたに違いない。


 「ふーん、物と会話できる人なんて初めて見たわ。君、変な子ね」


 ——変な印象を与えてしまった。


 「いや、あの、それは、物のたとえって言うか……」


 余裕のある大人の男から、油が刺されていないロボットへとメタモルフォーゼを遂げた俺は、実にわかりやすくテンパっていた。 


 「じゃあ、他の人達にも今の状況を事細かく伝えておくわね。その場合、今日から君のあだ名は、猛獣使いならぬ黒電話使いになる訳だけど……」       


 「あーっ、それだけはやめてください!!」


 終わった、何もかも。


 「やーい、黒電話使いー」とか言われている状況を想像する。いや、そもそも黒電話使いって何だよという突っ込みを入れる余裕すら既になく、俺はすっかり死んだ魚のような目になっていた。そんな俺をよそに、女の人はクスクスと笑う。


 「冗談、冗談。からかってごめんなさい」


 「へ?」 


 冗談かよ。てか簡単に騙される俺って……。


 「ようこそ、あおい寮へ。寮長の篠宮杏子です。君は山岡君だよね?」


 「あ、はい」


 「今回は応募してくれてありがとう。私の事は杏子でいいから。これからよろしくね」


 「こちらこそ、よろしくお願いします!」


 「うん。じゃあこっち来て」


 「あ、その前に確認なんですけど!」


 「どうしたの?」


 「冗談って事は……今の事、他の人には言わないですよね?」


 「それは……わかんない」


 「え、わかんないんですか!?」


 「まぁまぁ。いつまでも細かい事は気にしない。ほらっ、さっさと行くわよ」 


 「あ、ちょっと——」


来て早々、出鼻をくじかれた俺は、とりあえずその杏子さんという女の人の後に付いていった。かなり振り回されてしまったが悪い人ではないだろう。そして何よりこれだけは言える。美人だ。


          ◆◆◆

      

 クーラーの風が汗をかいていたTシャツの隙間を通り過ぎていく。さっきまでうるさかった蝉の声も、この建物の中では丁度いい音量だ。俺は目の前にあるグラスの氷をカランと鳴らし、さっき杏子さんに入れてもらった、キンキンに冷えたカルピスを飲んでいた。


 生き返る。探し求めていたオアシスはここにあったのか。


 ——あおい寮のリビング。


 部屋の中心には白のクロスがかかっている長テーブルがあり、キッチン、冷蔵庫、食器棚、テレビと生活に必要な物が揃っている。杏子さんは向かいの席で、俺が持ってきた履歴書に目を通していた。キリリとして吸い込まれそうな瞳。どこをどう見ても端整な顔立ち。栗色でふわふわとしたセミロングの髪の毛は、窓から差し込む光も相まって神秘的だ。


……杏子さんっていくつぐらいだろう? 二十代後半ってとこかな?  


「ん? どうしたの?」


 いつの間にか見とれてしまっていた俺は、慌てて目を逸らす。


「いや、何でも」


「あ、綺麗な人だなーって思ったんでしょ?」


 杏子さんは意地悪そうな表情で、俺の顔を覗き込む。


「思ってないです! てかそれ自分で言います?」


「ふふっ」


 図星だったのがどうも癪だったので、俺は思わず嘘を付いた。てか、子供みたいな笑い方をする人だな。杏子さんは履歴書を封筒に戻しながら、 


「履歴書ありがとう。ここまで遠かったでしょう?」


「まぁ」


「どう? この町の感想は?」


「何もないですね」


「そうねー、確かに何もない」


「でも、新鮮っていうか。俺嫌いじゃないです」


 建前などではなく、率直な感想だった。


「それは良かった。後はこのあおい寮の事も、気に入ってもらえたらいいんだけどね」


「はい。思ったんですけどここって寮っていうより、何か学校って感じですよね」


 俺は辺りを見渡しながら言った。


「元々学校なのよ」


「そうなんですか?」


「うん」


 なるほど、俺が来た時に懐かしいと感じたのはそれでかもしれない。


「十年ほど前、近くに新校舎が出来てこの町の学生はみんなそこに通ってるの。当時は色々な事情で家から通えない生徒がいたから、そんな生徒の為に使わなくなった学校を改装して、このあおい寮が出来たって訳」


「なるほど。今、寮生って何人ぐらいいるんですか?」


「誰もいないよ」


「え?」


「この場所はね、もう学校としての役目も学生寮としての役目も終えてるの」


「そうなんですね」


「だから最近では、毎年君みたいに住み込みのバイトで来てくれる人達の為の、宿泊施設みたいな感じかな」


 そう言って、杏子さんはどこか遠くの方を眺めていた。


「あ、それより本当に大丈夫? 一応八月末までって事だし、学生なら夏休み最後までここで過ごす事になるけど」  


「大丈夫です、別に他にやる事もないんで」


「そう、なら良かった」


「てか仕事って何したらいいんですか? ネットには手伝いってしか書いてなくて」


「あぁ、あれね。そのままの意味」


「いや、それがよくわかんないんですけど……」


 杏子さんはふふっと笑いながら、


「まぁまぁ、仕事は明日からだし複雑な事でもないからその時に説明するわ。今日は疲れたでしょ? 夕飯までゆっくり休んで頂戴」


 と言われつつ、結局、何の仕事をするのかもわからないままだった。手伝いって一体…… 


          ◆◆◆


 杏子さんからトイレや風呂場、洗濯機の位置など、一通りあおい寮を案内してもらった俺は自分の部屋に大きな鞄をドサッと下ろした。


 よし準備オッケー。この後にやる事はもう決まっている。クーラーの電源をつけて、布団を敷いて、そして……


「疲れたー!!」


 俺は思いっきり布団に大の字で寝転がった。


 …………見知らぬ天井。


 …………見知らぬ壁。


 …………見知らぬ場所。


 杏子さんから「自分の部屋なんだから遠慮せずに使って」と言われたのが、頭の中でリピート再生される。 

 ——俺の部屋か。


 今日から約一ヶ月間、この場所で生活が始まる。何だか実感が湧かない。昨日まで両親に色々と口うるさく言われながら実家にいたのが嘘みたいだ。


 不安はある。


 ただここに来てから少しだけ心境に変化があった。これから何が起きるんだろうかって考えると、どこかで楽しみな部分もあって、俺は自分でもよくわからない高揚感のようなものに包まれていた。


 むくっと布団から立ち上がり、周りを見渡す。部屋の大きさは六畳程度。家具はテレビと服ダンスぐらいでそれ以外は何もない。まぁこれから生活していく中で、部屋の模様も変わっていくだろう。俺は窓を開けて、外を眺める。


 ……何ともまぁ、抜群のロケーションだ。


 俺の部屋は二階。この寮が高台に位置する事もあり、窓からの眺めはこの町を一望できるものだった。


 遠くには真っ青な空と海が広がり、そこにアクセントをつけるかのように入道雲が存在感を醸し出す。まるで、画用紙に描かれた絵のような景色。眼下には民家が立ち並び、さっきまで俺が歩いてきた道、田園地帯、そしてすっかりレゴブロックみたいなサイズに変換されている駅を発見した。こうやって見ると、自分が今かなり高いところにいる事がわかる。どうりで坂道ばっかだったし、足が悲鳴を上げているわけだ。共に修羅場を乗り越えてきた戦友(足)によく頑張ったで賞を贈呈したい。


 という事で、ゆっくりくつろぐ事にしよう。夕飯まで一眠りでもするか。


 杏子さんから18時になったらリビングに下りてくるように言われている。なんでも夕飯兼、今回のバイト仲間との顔合わせがあるらしいのだが、正直あまり気乗りがしない。杏子さんぐらい歳が離れた人に対しては大丈夫なのだが、それが同世代になると異様に人見知りを発動する上、初対面だと尚更だ。我ながら面倒な性格だと思う。さぁ、どうしたものか。


「うわーっ、すっげぇ! この部屋のクーラーめっちゃよく冷えてんじゃん!」


 うん、確かにこのクーラーは感心するほどよく冷える。絶望的な暑さの中で救世主のような存在。この先の夏も安心して過ごせる事間違いなしだ……………って……え!?


「うぃーっす!」


 ——知らない男がクーラーの前で気持ち良さそうな顔をして涼んでいた。


 ……ん、どういう事だ。幻覚でも見ているのか。俺はデパートで着たくもない服を着させられているマネキンのように固まりつつも、至極当然な疑問を口にした。


「…………誰?」


「俺」


「……何でこの部屋にいる?」


「ノリ」


「…………」


「…………」


 会話が成り立たない。


 駅前にいたちびっこ小学生の方が、よっぽどましだった気がする。何だこいつは……。


 俺が訝しげな表情を弾丸のように放ち続けていると、多少なりともそれを察知したのか、そいつは言葉だけが悪びれた風で実際には一ミリたりとも悪びれずに、


「あーごめん、ごめん! 鍵空いてたもんだからつい!」


 とか言い出した。


「つい」で他人の部屋に上がりこめるんだったら、日本の法律はこの夏の暑さでブレにブレまくっているに違いない。


「俺、隣の部屋の航。今日からよっろしくー」


 そいつはチャラいオーラを、まるでマーライオンのように垂れ流しにしながらそう言った。隣の部屋……まじか。こいつとこれから同じ屋根の下で暮らすのか……。


 金髪で長めの髪。黒のタンクトップにシルバーのネックレス。日に焼けた褐色の肌。こんなにも綺麗に「チャラ男」というフォーマットにあてはまる人物を、俺はこいつ以外知らない。しかし、むかつく事に容姿のランクにおいては、俺よりも一枚も二枚も上手だった。イケメン、細身、高身長という三種の神器を持ち合わせている。世の中不公平だ。神様とやらは、どうして人間のバロメーターの振り分けを、もっと公平にしなかったのだろう。


「ちょっと人の顔ばっかじろじろ見ないでよ、照れるからさー」


 別にお前を照れさす為に見ているわけじゃない。


「あ、とりあえず、自己紹介の続きな! えっと、好きなブランドはドルチェアンドガッパーナ、好きな言葉は適当、好きな女の子のタイプはギャル系、好きなAVは——」


 好きなものの羅列を最後まで聞かず、俺はそいつの肩をがっちりとホールドし、そのまま体を方向転換させた。


「え、ちょっと、何してんの?」


「それはこっちのセリフだ」


 そして、勢いよく扉の外へと押し出す。


「え、ちょっ、だから好きなAVは……」とか言う声を無視して力づくで押し出す、押し出す、押し出…………した。


 バタンと扉が閉まり、俺は光の速さで鍵を締める。


 ………

 ……

 …


 ——さて、今のは何だったのだろうか。


 やはり今日は疲れているらしい。こんなにもはっきりと幻覚が見えるのはさすがにやばい。やばすぎる。気分を切り替えなくてはその内、亡霊だの生霊だのが見え始め、霊媒師さんの協力を仰ぐ事になりかねない。さぁ、一刻も早く眠りにつくとしよう。


「追い出すとかひどくない?」


「うわっ!」


 振り返れば奴がいた。心臓に悪い。


「何でいるんだよ!」


「いやー窓開いてたからさー」


「は? 隣の窓から入ってきたのか?」


「そんな感じ」


 忍びの者か、お前は。


「あのさ、とりあえずこれだけは言わせて。俺の好きなAVは……」


「いや、聞きたくないから」


 断固としてお断りする。


「ん、どうして?」


「どうしてって言われても。別に興味ないし。てか、早く出て行って欲しいんだけど」


そいつはうーんっとしばらく考えた後、一休さんがチーンという効果音とともに何かを閃いた時の表情をして、


「……あぁ、そういう事!」


 と言った。そう、そういう事。やっと理解したか。じゃあさっさとお帰りください……って、おい!


「何かこの時間ってさーニュースばっかで、全然面白い番組やってないよねー」


 全く理解していなかった。何が「……あぁ、そういう事!」なのか教えて欲しい。そいつはテレビの電源を入れて、まるで自分の部屋のようにリモコンを操作している。


 一方、俺はというと内心穏やかではない。さすがに自分のテリトリーを荒らされまくっているお陰で、イライラポイントは貯まりに貯まるばかり。そろそろそのポイントで何かの豪華商品と交換してもらえそうな勢いだ。


 気がつくと俺はそいつからリモコンを勢いよく取り上げて、


「いい加減にしろよ」


 と言っていた。


「え?」


 俺の雰囲気が急に変わったので、そいつは目を丸くしてこっちを振り返った。ダメだ止まらない。


「てか何だよ、さっきから。勝手に部屋に入ってくるし、初対面で馴れ馴れしいにもほどがあるだろ」


 そいつは少しだけばつが悪そうに、


「いやーそれはさ、やっぱ仲良くなりたいって思ったから……」


「俺は仲良くなんてなりたくない」


「……マジ?」


「マジ。てか俺、お前みたいなタイプ嫌いなんだよ」


「…………」


「…………」


 沈黙。


 さっきまで嵐が到来していたような騒がしさが、突然何事もなかったかのように静まり返る。


 ……言ってしまった。


 いつもこうだ。俺は頭によぎる言葉をそのまま口に出しすぎる。軽く後悔している俺の視線の先で、そいつはしょぼんとした表情を浮かべ、元気を失ったひまわりのように項垂れていた。さすがに罪悪感を感じた俺は、そいつと同じ目線で座り、慌てて言葉を探す。


「あー、今のはちょっと言い過ぎた……ごめ——」


「って事は、好きって事じゃん!!」


 ん? うるさくて、聞き取れなかった。


「え、何って?」


「って事は、好きって事じゃん!!」


 二回聞いても謎だ。


「はい?」


「だってさ、嫌いってそれだけ相手の事を意識してる訳だし、つまりそれって一周すると…………やっぱ俺の事好きって事になるよね?」


「……」


 衝撃。


 どこをどう解釈すればそういう答えになるのか、俺にはさっぱり理解不能だった。ただ一つだけ分かった事がある。それは多少なりとも心配をしていた俺が馬鹿馬鹿しく思えるほど、そいつは超がつくポジティブ志向の持ち主だった。


「なぁなぁ、どうなんだよそこんとこー」


 絡みがうざい。ひまわりは元気を失った演技をしていたらしく、超高速で復活していく。


「いや、何ていうか……」


「うん」


 そいつは期待度純100パーセントの顔をこちらに向け、意外な攻撃によりすっかり戦力を失った俺は、


「まぁ……そういう事なのかな」


 と生返事をした。てか、こんな感じで言われたら他の言葉が思いつかない。恐らくどんな否定的な言葉もこいつには効かないだろうと野生の感が訴えかけていた。


「……よっしゃー!!」


 そいつは大袈裟にガッツポーズをして、


「て事は、俺達もう親友だなー」


「は? ちょっと待て! もう親友なのか?」


「当ったり前じゃん! お互いを好きな男同士なんだからー」


「……あのさ、何か気持ち悪いからその言い方やめてくれない?」


「あ、確かに!! ……俺も今自分で言ってて気持ち悪くなった」


「何だよそれ」


 俺がそう言うとそいつはプッと吹き出した。その笑いに思わず俺もつられてしまう。


 何だこいつは。どこまでもめちゃくちゃだ。けど、口では嫌いだと言ったものの、もしかしたら面白い奴なのかもしれない。それにこいつのメンタルが馬鹿だなぁと思う反面、どこかで羨ましいとも思う俺もいた。不思議な奴だ。


「じゃあ改めまして、谷川航と言います」


「お、おぅ」


 そいつはさっきと打って変わって、堅苦しく名乗った。最初からその感じだったらいいのに。いや、こいつの場合それはそれで気持ち悪いかも。


「で?」


「何が?」


「いや、何がじゃないでしょ。俺は自己紹介したんだからさー」 


 まぁ、普通そうなるよな。 


「俺は山岡和希」


 俺は今までの人生で幾度となく口にしてきたセリフを、当たり障りなく言葉にした。


「歳いくつ?」


「十八」


「おぉ、まじか同い年じゃん!」


 そいつはやたらとテンションを上げて驚く。なるほど、同い年でも色んなタイプの奴がいるんだな。


「そっかー和希、よろしくな」


「いきなり、呼び捨てかよ」


 相変わらず展開が早い。


「いいじゃん同い年だし、てか呼び方なんか堅苦しいよりも、フランクな方が距離が縮まるんだって」


「あぁ……そういうもんか」


「そういうもん」 


 航が言った事はふざけているようで、どこか的を得ている気もした。


「てか、この部屋のクーラーがよく冷えるって言ってたけど、その……」


「ん?」


「あーえっと……」


 俺は言葉に詰まる。うわーっ、初めて下の名前で呼ぶ瞬間ってどうしてこうも小っ恥ずかしいのだろう。


「航でいいって」


「おう……わ、わた………………」


 一旦深呼吸をして、冷静になろう。ふーっ……よし、準備オッケー。


「わたりどりの部屋はクーラー冷えないのか?」


「ちょっと待って!」


「何だ」


「わたりどりって……誰?」


 俺はそいつを指差す。


「いや、違うから!」


「違うのか?」


「当たり前でしょ! てかもはや人じゃないし!」


「そんな感じの名前だっただろ?」


「わ・た・る!」


「わ・た・り?」


「るだよ! る!」


「航の部屋はクーラー冷えないのか?」


 お、一通り肩慣らしをしたおかげですんなり言えた。自分の名前を認識してもらえた事もあって、航はずっと欲しかったゲームを親に買ってもらった少年のような表情を俺に向けた。実にわかりやすい奴だ。


「そう! そうなんだよね! 風は出てるんだけど、あんまり冷たくなんないんだよ」


「それはヤバイな」


「だから、暑くて死にそうになったら和希の部屋に遊びにくるから」


なるほど。暑くて死にそうな気持ちは、俺にも痛いほどわかる。ここに来るまでに色々と経験済みだ。


「まぁ、たまにだったらいいよ」


「マジで!? サンキュー! あ、てかさぁ、俺たち以外のバイトの人と会った?」


「いや、まだ会ってないけど」


「ちょっと挨拶しに行かない?」


「でも18時になったら、顔合わせするんだろ?」


「わかってないなー和希は。こういうのは第一印象が大事なんだって」


お前への第一印象はただの変質者だったけどな。あ、杏子さんからするとそれは俺も同じか……。


「まぁ、大丈夫大丈夫。俺がリードしてあげるから、とりあえず行こうぜ」


「…………まじ?」


 せめて、次はまともな日本語で会話してくれよと、勢いよく部屋の扉を開けて出て行く航の背中に訴えかけながら、俺もしぶしぶ部屋を出る事にした。


          ◆◆◆


 廊下には誰もいない。ひっそりとして静まり返っている。本当に俺たち以外に人がいるのだろうか? ちなみに俺の部屋は一階から階段を上がりすぐ左側、その隣が航の部屋。俺は一通り廊下を見渡してみる。なるほど。恐らく残されているのは航の部屋のさらにその奥にある一部屋、そして階段を挟み、俺たちの部屋とは反対側にある三部屋という事になる。


 俺はふと疑問に思ったので航に聞いてみた。


「お前の隣の部屋には挨拶したのか?」


「いやー、それがさぁ全く返事がないんだよねー」


「返事がないって?」


「何回もドアを叩いたり、声をかけても全然ダメ。その上、しっかりと鍵はかかってる」


「そりゃ、警戒する人もいるだろうしな。それか何かに集中してるとか」


「でもさぁ、ドアぐらい開けてくれてもよくない?」


「まぁ色々あるんだろ。その人に挨拶は厳しいとして……て事は、反対側の部屋か」


「そうなるね」


 俺たちは階段を超えて、一番手前側の部屋の前に立つ。そして、航が扉に手をかける。


 ……開かない。


 そりゃそうだ、普通の人なら部屋に入ればまず鍵をかける。そう考えると、鍵をかけ忘れ、易々と航の侵入を許してしまった俺はかなり油断していたらしい。一生の不覚だ。俺は腕を組みうーんと何かを考えている航に声をかけた。


「鍵かかってるし、直接声かけてみるか?」


「いや、ちょっと待って」


 真剣なトーンで答える航。何か考えがあるらしい。航はポケットからゴソゴソと十円玉を取り出し、ドヤ顔で俺の前に差し出す。


「何?」


「これでドアを開けよう」


「は?」


 何を言い出すんだこいつは。


「いや、さすがにそれはまずいだろ!」


「心配しなくても大丈夫だって。この鍵穴からして、十円玉でも開ける事が出来ると俺は判断したね」


「そっちの心配をしてるんじゃない」


「ん? じゃあ、どっち?」


「勝手に開けるのがまずいって言ってるんだよ」


「別に泥棒に入る訳じゃないんだし、何とかなるでしょー」


 勝手に鍵を開けるという事が、泥棒と同じ事をしているという考えには至らないらしい。そして、航は見ていてムカつく整った顔をニヤリとさせて、


「鍵を開けてサプライズ、そして初めましての挨拶! どう、この組み合わせ?」


「いや、どうって言われても……っておい!」


 航は俺の返事を聞く前に、10円玉を使って鍵穴と格闘していた。さっきのニヤけ面とは違い、その表情は真剣そのもの。てかこいつの無駄な行動力は一体どこから来るのだろう。理解に苦しむ。いやーしかし、航さん。妙に手慣れているように思うのは、俺の気のせいかな? などと、航の過去の行いについて何となく想像の翼を広げていると、


 カチャ


 と、難攻不落の鍵が、航のピッキングテクに敗れ去った音が聞こえた。


 航は複雑な迷路を自分だけの力でクリアした小学生のような笑顔をこちらに向けている。うん、色んな意味ですごいよお前は。そして、獲物を狙って一直線に突き進むイノシシのごとく扉を開けた。俺も後に続く。


「どーも、俺たち今日からここで——」


次の瞬間、航の言葉が途中で止まった。


「……」


「……」


「……」


 ——そこには女の子が立っていた。下着姿で。


 蝉の鳴き声が、いつもの三倍増しに聞こえる。


「……」


「……」


「……」


「きゃあああああああっ!?」


「「うわああああああああ!!」」


 叫び声による三重奏があおい寮に響き渡った。


 それが短距離走のスタートであるかのように、航は俺を突き飛ばしフライング気味に退散する。痛ってぇな! てか何て逃げ足の早さだ。俺も遅れをとるまいと続いて退散。


 廊下にて困惑の表情を浮かべる野郎二人。


 俺の頭の中でも情報を処理する為にかなりのカロリーを使いショート寸前だった。何だこの状況は? ラブコメでは鉄板の冒頭シーン? それが現実で起きてしまった? オーアンビリーバボー。 


 バタン。


 目の前のドアから、さっきの下着女子が勢いよく飛び出してくる。今回はちゃんと服を着ているな。よし、お父さんは安心だ。ってそんな場合じゃない! 女の子は俺と航をまるで逃げ出したゴキブリを見るような目で、      


「泥棒、変態、強姦魔———!!」


 と叫んだ。強姦魔って……


「いやいや、ちょっと待って! これは誤解なんだよ!」


 俺も何が誤解なのかはよくわからないが、とりあえず目の前の女の子をなだめる事に専念する。


「何が誤解なのよ! 勝手に人の部屋に入っといて。しかも、私の……着替えを……」


 女の子は恥じらいながらも視線を泳がし、言葉に詰まる。ダメだーここは空気を読まないと。


「いやーそれが何も見てないんだよ。俺もこいつも咄嗟に目を閉じたから。なぁ?」


 俺は航にリレーのバトンを手渡す。そして天に祈った。頼む航、上手く繋いでくれと。航は俺に目で合図をしている。おぁ、どうやら俺の意図が伝わったらしい。そして、自信満々の表情で女の子に、


「あーそうそう! なんつーか、まじで可愛い下着だったし、俺としても超ラッキーっていうかー、だから……そう! 全然問題ナッシング! オールオッケーって感じ!!」


 ——航は受け取ったバトンを遥か空の彼方に放り投げていた。


 場外ホームラン。うん、競技を勘違いしていたのかな。詰まるところ、俺と航のチームワークは最悪だった。どうやら俺たちは燃え盛る炎の上から、ドボドボと油を注ぎまくっていたらしい。


「やっぱり見てんじゃないのよ! この強姦魔!!」


 結果、現場は炎の海と化していた。


「だから、強姦魔は言い過ぎ——」


 バタン。


 隣の部屋のドアから、ツインテールのちっこい女の子が勢いよく飛び出してくる。


「何、何、何、何の騒ぎ、何の騒ぎ!!」


 マシンガンのような質問。


「いや、これは——」


 バタン。


 反対側の部屋のドアから、これでもかとシルバーフレームのメガネを光り輝かせながら、インテリ風の男が飛び出してくる。


「さっきからうるさいんだよ! 全然、作業に集中できないじゃないか!」


 ショットガンのようなクレーム。


「いや、これは……その……」


 その…………何だ? 説明しようにも俺にもよくわからない。誰かこの状況をわかる人がいれば、事細かく説明してほしい。


 いや……一つだけあった。俺と航はただただ階段の前で見知らぬ三人に追い詰められており、その布陣は実に美しく完璧だという事は疑う余地もない。


 西軍 俺、航。

 東軍 下着女子、ツインテール女子、インテリ男

 両軍、沈黙。


 ……そして長きにわたる沈黙の末、西軍指揮官である航は、遂に閉ざされていた口を開いた。


 当初の目的、挨拶の言葉だ。


 「あ、うぃーっす……」


 これが、かの有名な「あおい寮、顔合わせの陣」である。


          ◆◆◆


 18時。あおい寮リビング。


 カチカチと時計の針を刻む音が、死刑宣告を受けるまでのカウントダウンのように聞こえる。嗚呼、こんなはずじゃなかった……もう一度言おう。こんなはずじゃなかった……。


 本来ならば、18時から今回のバイト仲間との顔合わせ兼、楽しい楽しい食事が行われるはずだ。はずなのだが……楽しい楽しい食事は一旦後回しにされ、気まずい気まずい緊急あおい寮会議、っていうかもはや裁判だなこれは。まぁ、そんな名目で一同はリビングに集結し、重苦しい空気と格闘していた。


 中央のテーブルを挟み入り口側。インテリ男、俺、航の順番に座り、その向かいにはツインテール女子、杏子さん、下着女子が座っていた。


 杏子さんは呆れて物も言えないといった表情で、ゆっくりと口を開く。


「……つまり、二人は彼女の着替えを覗こうとしたって事ね」


「異議あり」


 間髪入れずに、航は勢いよく挙手する。


「はい、どうぞ」


「俺たちは挨拶がしたかっただけで、この子が着替えていたのは不慮の事故っていうかー」 


「ちょっと! 勝手に鍵開けて部屋に入ってくる挨拶がどこにあんのよ! あんた脳みそ空っぽなんじゃないの?」


 すかさず下着女子が毒舌で応戦。


「脳みそはちゃんと入ってますー!」


「入ってませんー!」


「はぁ?」


「何よ!」


 ……何だこれ。


 杏子さんは小学生の喧嘩の仲裁に入るベテラン教師のように、


「はいはい、ストップ」


 と二人を制した。ため息を一回長めについてから。


「もう、どうして初日からこんな感じになるのかしらね」


 そうだよな、俺も本当にそう思う。


「とにかく、これから一ヶ月はこのあおい寮で暮らす仲間なんだから、みんな仲良くする事。いいわね」


 それぞれに思う事があるのだろうか、目を伏せ誰も返事をしない。その瞬間、


 ドンッ


 と音が鳴り、一同の視線が一気に集まる。


 杏子さんがテーブルを手で叩いていた。そして、


「……いいわね?」


 と、ドスの利いた声で言った。


 あーこの人を怒らすと怖いんだろうな。ちょっと笑顔なのが余計にやばい。俺たちはライオンに威嚇された草食動物のように本能で恐怖を察知し、すぐさま首を縦に振っていた。


「よろしい、じゃあ気分を変えてまずは自己紹介をしましょう」


「……自己紹介ですか?」


 と怪訝そうな表情でつぶやくインテリ男。


「そうよ。だって、みんなお互いの名前も知らないでしょ」


「あ、確かに確かに!」


 ツインテール女子は明瞭快活な声で答える。


「名前、歳、あとは趣味とか。じゃあ最初は君から」


「え、俺からっすか?」


「そう」


 急に杏子さんから話を振られた航は、一瞬戸惑いつつもコホンと大げさに咳払いをして話し始めた。 


 自分の名前と年齢の後に、俺の時と変わらぬクオリティで好きなものの羅列を披露、好きなAVにさしかかったところで杏子さんに中断され、二番手である俺はというと、いつもどおりの無難な紹介を言い終わると同時にツインテール女子から「ねぇねぇ。結構、肩幅とかがっしりしてるけど何か部活とかやってんの?」と質問されたので「別に、何もしてない」と答えた。


 そんなに体育会系に見えるのだろうか。まぁ、背はそこまで高くはないがガリガリって訳でもないしな。


 すっかり合コンの幹事(合コンには参加した事はないが)みたいなポジションになっていた杏子さんは、結局全員に自己紹介をさせ、俺たちは待ちに待った夕飯にありついていた。


 えー突然だが俺は不確かなものは信用しない。幽霊、宇宙人、超能力者、ましてや奇跡だとか運命だとか、そういうスピリチュアルなものは、人間が自分たちの都合の良いように考えた迷信だとずっと思っていた。しかし、俺は今ここで宣言する。


 ちょっとはそんなものを信じてもいいかもしれない。


 何がどうなってその事象を生み出したのかはわからない。俺のちっぽけな今までの善行を神様とやらがこっそり見ていて、ふとした気まぐれで超絶ミラクルを起こしてくれたのかもしれない。


 あおい寮初日。


 夕飯のメニューは…………カツカレーだった。


「いただきまーす!!」


 俺は大好物を目の前に「おあずけ」と指示を出され、待てども暮らせども指示が解除されず、もう半ば諦めかけた時に「あおがり」と言われた犬のような表情で、目の前の神聖な食べ物を口に運んだ。      


「みんなどうぞ、召し上がれ! うん、和希は少し落ち着こうか」


「はい!」


 全然、落ち着いていられなかった。てか、杏子さんのカツカレーが美味いのなんのって。米&ルー、カツ、麦茶、米&ルー、カツ、麦茶という一連の流れを繰り返し、俺はあっという間に完食。幸せすぎて、このまま死ぬんじゃないかと思うほどの余韻に包まれていた。


 けど……ふと冷静になる。杏子さんには悪いけど、やっぱりあの味が一番だなぁと心の中で思う俺がいた。


 俺が一番最初に食べ終わり、続いて航、インテリ男。女性陣は楽しそうに話をしながら、まだ食べていた。和やかだなぁとその光景を眺めながら、何となくさっきの自己紹介を思い出す。


 俺の隣で眼鏡のフチをくいっと上げているインテリ男は松本康也。歳は俺と同い。なんでもここに来たのは、創作活動の一環とやらで小説を書いているとの事。バイト以外は部屋で執筆をするつもりだから、今回みたいにうるさくされると困るという。てか後半からは紹介っていうかただのクレームだったな。何だか気難しそうなタイプだ。


 そして誰よりも声が高く、誰よりもアップテンポで話す、ツインテールの髪型が印象的な元気印の女の子。彼女は藤田夏美。歳は一つ下の十七。俺が今まで聞いてきた自己紹介の中で、文字数がダントツに多く、尚且つ超早口で話していたので、聞き取るのにかなりの集中力を要したが、残念ながらその中身はというとほとんど覚えていない。しかし、その人懐っこい性格と、持ち前のポジティブさから、誰からも好かれる存在である事は間違いないだろう。


 最後に今回の会議の中心人物、そして被害者である彼女は東城沙織。歳は同い。容姿端麗。そのスタイルの良さは、俺と航がしっかりと実証済みだ。いわゆるアニメやギャルゲーでいうところのツンデレキャラである。ただし、今のところツンの状態しかお目にかかっておらず、いつデレが発動するのかはさっぱりわからない。もしかするとそんな日は一生来る事はないのかもしれないが。


 と、まぁ一通りバイトメンバーの事を頭の中で考えていると、杏子さんが再び話し始めた。


「あ、みんなちょっといいかな? 実はね、今回のメンバーこれで全員じゃないんだ」


「え!? そうなんですか? そうなんですか?」


「まじかー俺、これで全員だと思ってたんっすけどー」


 夏実と航が残りのメンバーの気持ちを代弁するように、素直にリアクションをとる。ちなみに親密度を高めていくために、これからはそれぞれ下の名前で呼ぼうということが決定されていた。


「ここにいるみんな以外にもう一人いるの」


 と、杏子さん。


「じゃあ、どうしてここに来てないんですか?」


「もしかして、来る途中で何かあったとか?」


 続けて、康也と沙織がそれぞれに質問をする。


「まぁ、実際色々あって……あぁ、トラブルに巻き込まれたとか事故にあったとかじゃないのよ! というかその子、私の妹なんだけど」


「杏子さんの妹?」


 まじか。今度は俺が素朴な疑問を口にした。


「うん。みんなはネットを見て応募して来てくれてるけど、その子は個人的に私から声をかけたの。まぁ、無理やり連れてきたに等しいんだけど」


「へーそうなんだ! どんな子なんですか?」


 夏美が好奇心全開の瞳を、キラキラと輝かせて尋ねる。


「ちょっと変わってる子かな。みんなとも早く仲良くなって欲しいし、夕飯には来るように声かけたんだけどダメだったみたい。まぁ、もう一人いるって事は覚えておいて。また改めて紹介するから」


 と言って、杏子さんはどこか複雑そうな表情で俺たちに言った。何か色々な理由があるのだろうか。杏子さんの妹で変わってる子。さて、どんな人物だろう。

 その後、俺たちはなんだかんだくだらない話をしながらも後片付けをし、明日の朝10時にここに集合という事を杏子さんから聞いて解散した。


          ◆◆◆

    

 俺は風呂に入り、自分の部屋に戻ると気絶するように眠っていたのだが、鈴虫の鳴き声をアラーム代わりにふと目覚めることとなった。熟睡できずに目覚める事は、今までからよくある。慣れない環境だから余計にそうなってしまったのかもしれない。俺は眠けまなこを手で擦りながら、スマホの画面を確認する。


 0時30分。 


 中途半端な時間だなと思いながら、俺は窓際へと移動しカーテンを勢い良く開けた。昼までの景色が嘘みたいに、太陽は沈み夜の世界が広がっていた。


「あ、そうだ」


 と、急にある事を思いつき、俺は扉を開けて廊下へと出て行った。


 廊下はすっかり真っ暗で、昼にも増して静かだった。歩くたびにぎーっと鳴っていた床の音が、さらに目立って聞こえる。確かこっちって言ってたよな。一階へと続く階段を越え、沙織と夏美の部屋を右手に見ながら、俺は歩いていく。電気は消えているので、二人とももう眠っているらしい。このタイミングで誰かに見られたら、またしても強姦魔と勘違いされそうなので、一応警戒しながら女子の部屋を通り過ぎていった。


 確かここに階段が……あった。


 今日来た時に杏子さんから教えてもらった、屋上へと続く階段。正確にいうと、屋上っていうより屋根の上に取り付けられた小さなスペースらしい。


 俺はその階段を登り外へと続く扉を開けた。


 昼間の暑さが嘘だったのかと思うほど、心地の良い風が俺を迎え入れてくれた。そのまま上へと登っていく。ふと立ち止まり視線を空へと向けた。


 ……俺は言葉を失った。


 息を飲むほどの満天の星。


 宝石箱を散りばめたように数多くの星が光り輝いている。空気が澄んでいるから、こんなにもはっきりと見ることができるのだろう。俺の地元ではこうはいかない。大げさかもしれないが、まるで自分が宇宙にいるようなそんな気分だった。


 その瞬間。


 旋律が俺の耳に飛び込んできた。これは……バイオリン?


 音は上から聞こえている。俺は止まっていた歩みを再会し、一気に階段を登っていく。そして、辿り着いた。


 杏子さんが言っていた、屋根の上にある小さなスペース。その周りには柵が取り付けられていて、一番隅の方で誰かが立っていた。後ろ姿で顔を確認できないが、紛れもなくこの旋律を奏でている張本人である事は間違いない。


 あおい寮の屋根の上。


 空には数え切れないほどの星、眼下にはこの町と海が広がり、後ろには大きな山が見える。そこに印象的な旋律が重なり、この空間を非現実な世界へと創り上げていく。


 俺は演奏をしているどこの誰とも知らない人物の後ろ姿を、ただただじっと眺めていた。そして、


 演奏が止まった。

 

 ……どうしたのだろうか? 突然、その旋律はプツンと途切れてしまう。その誰かは持っていたバイオリンを力無く下ろし、肩を震わせる。そしてゆっくりとこちらを振り返った。


 目が合う。


「え……」


 緩やかな風が二人の間を通り過ぎていく。

 

 知っている。


 俺は彼女を知っている。


 とても印象的で、


 けど、どこか儚げで、


 景色の一部としてそこにいるような……そんな「絵になる」人物。

 

 

 満天の星の下、俺はバス停にいた女の子と再会した。

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