第28話 戦う理由
灰色の何もない空間。壁も地面も空も大地も、何もない。ううん、見えないけれど、少なくとも立つことの出来る地面だけはある空間。
これはいつもの夢の世界。ここにいるということは、いつの間にか眠ってしまったらしい。
「お姉さん!」
「カイくん」
抱きついてきた男の子を、私は受け止める。カイくんは嬉しそうに私を見上げてから、心配そうに眉を寄せた。
「お姉さん、どうしたの? 辛いことがあった? 誰かに泣かされた?」
カイくんの細い指が、散々泣いて腫れた私の目元を撫でる。そんなところも夢の中に反映されちゃうらしい。
「何でもないよ」
首を横に振ると、カイくんは頬を膨らませた。
「お姉さん、ここは夢の中なんだからね。我慢しなくてもいいんだよ」
怒ったように言ってから、背伸びをして私の頭を撫でた。それはいつかの私の言葉で、私の行動だった。そして、今しがたシグルズが私に言ってくれた事で、してくれた事だ。
心から温かい何かが溢れてくる。あんなに泣いたのに、また泣きそうになって私は笑う。人がかけてくれる言葉と行動は、こんなにも温かくて嬉しいものなんだ。
「うん。そうだね。ありがとう、カイくん」
「どういたしまして」
感謝の気持ちを込めて、小さなカイくんの手を握ると、誇らしげにカイくんが胸を張った。それから握った私の手をじっと見つめる。
「……お姉さんの手、剣を握る手だね」
しばらくして、カイくんがぽつんと言葉を落とした。私は頷く。握った時に私も気づいていたから。カイくんの手も、タコが出来てすっかり硬くなった、剣を握る手だって。
「私、本当は剣なんて握りたくない。花屋のままでいたかった。カイくんの前では花屋のクロリスでいられたけど、もう終わり」
握ったままの手から視線を外し、カイくんが私を見上げる。
「戦うのは怖い。誰かを傷つけたくなんてない。でもそれじゃ駄目だから」
「どうして? お姉さんがやらなきゃいけないの?」
カイくんの眼差しは、どこかすがるようだった。心細そうに垂れさがっている赤い目に、私が映っている。その私が語りかけてくる。
――私じゃなくてもいいじゃない。こっそり逃げて、耳に蓋をして、閉じ籠って、その間に誰かが何とかしてくれるのを待てばいい。そうでしょ? って。
「そうだね。私もそう思ってた。私がやらなくても誰かがやってくれるって」
「それじゃ駄目なの? お姉さんよりも強い人はいっぱいいるでしょう?」
カイくんが泣きそうな顔をする。カイくんの瞳に映る私も、同じような顔をしている。
「今日ね、私が怖くてすくんじゃったせいで皆が危ない目にあったの。凄く悲しくて、情けなくて。でもそのお陰で分かったの」
情けなくて仕方ないあの時の私。肩に傷を負ったシグルズ。魔力切れで倒れたメイちゃん。囮になってくれたフィンさんは無事だろうか。
「私は戦うことよりも、大事な誰かが傷つくことの方がよっぽど怖い」
「……お姉さんは、強いね」
カイくんが握っている手を、さらにきゅっと強く握ってくる。
「違うよ。弱いから戦うの。弱い私に勝つために。弱い私の代わりに誰かが傷つかないように」
私も力をこめて小さな手を握り返した。
「嫌なの。目の前で誰かが傷つくの。私が剣を握って戦うよりも……誰かを殺すよりも、もっと嫌だ」
シグルズが怪我をした時、心臓が止まりそうだった。もうあんな思いは嫌だ。
「ふふふ、ちっとも大切な人の為なんかじゃないね。私は私の為に戦うんだ」
自分で言って、可笑しくなってきちゃった。誰かが傷つくのが嫌だから戦う。なんだ、全部自分の為じゃない。
「うん。そうだね」
カイくんが、静かに目を閉じた。もう一度目を開いた時、彼の顔は一変していた。迷いのない真っ直ぐな赤い瞳と、ぐっと引き結んだ口。まだ幼いけれど男の顔だ。
「僕も同じだ」
握り合っていた互いの手が自然と離れる。カイくんが拳を握り、私の前に差し出した。私も同じように拳を握って差し出す。
「私は私の為に」
「僕は僕の為に」
こつんと、拳をぶつけ合った。
「「戦おう」」
****
目を開くと見慣れた天井だった。僕は静かに起き上がって、手早く身支度を整えた。剣が自分を忘れるなという風に、鞘ごと僕の側へ飛んでくる。ぱしんと柄を空中で握り、背中へ差した。
足早に部屋を出る。僕をいつものように起こしに来た侍女が、驚いた顔をしていた。それが少し面白い。
向かうのは弟のサイの部屋だ。軽くノックすると、侍女が返事をした。扉を開けて中へ入る。サイは侍女に身支度を整えられ、椅子に座っていた。白い肌に黒髪、黒い瞳は硝子のようにただ周りの景色を映しているだけだった。
「おはよう、サイ」
僕はサイの前に膝を着いて手を握る。力の入っていないサイの手は、少しひんやりしていた。
「今日は人間と戦うんだ。本当の事を言うと怖い。でも、ある人に勇気を貰ったから」
サイは食事を摂るように言うとちゃんと食べる。手を引けば素直についてくる。前みたいに笑わないし、泣かないし、怒ったりもしないけれど、きっといつか戻ってくると信じている。
「必ず勝つよ、サイ」
反応のないサイの手を、最後にぎゅっと握ってから離し、立ち上がった。僕が手を離すとサイの手は、ぱたりと力なく滑り落ちる。その指先は黒く染まっていた。
必ず人間に勝つ。そして、闇化病の治療に協力してもらう。例えどんなに血を流しても。
僕は魔王なのだから。
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