第8話  花嫁衣装

「あーっ!」と、隣の部屋から悲鳴が聞こえた。

寝転んでマンガ雑誌を読んでいた麻美(まみ)は、跳ね起きた。

「お母さん」

仕事中は部屋に入ることを禁じられていたのだが、一気に襖を引き開けた。

母の手元に広がる純白の花嫁衣裳。

完成間際の白無垢の着物に小さな赤いしみがついていた。

母は針で指を突いたのだろう。左手の中指の先を口に含んでいた。

声もなく立ち尽くす麻美に、母はきつい視線を飛ばしてきた。

どんな時にも声を荒げた事のない物静かな母の激しい目つき。

見てはいけなかったのだ。

麻美は凍り付いたように立ち尽くしていた。


 その日から三日間、麻美は伯母の家に預けられた。

母は、新しい反物を買い、着物を縫いなおさなければならない。家事をする時間などなかったのだ。


「お母さんが着物を縫いなおしたことは、だれにも言っちゃだめ、秘密なんだから」と、麻美は伯母から釘を刺された。

花嫁衣装は、決して汚してはならない。縫い直すなどという言葉も禁句である。

いつもは優しい伯母の、厳しい言葉に、小学五年生の麻美は震えあがった。

「お母さんは、針仕事だけが楽しみなんだからね」と、重ねて念をおす伯母の真剣な顔を見上げて、麻美は深く頷いた。


白無垢の着物に滴った母の血、あの鮮やかな赤色のことは、忘れなければならない。


麻美の母親が縫う着物は、体になじみ、動きやすく、着崩れしない、ということで、評判が良かった。

華道、茶道、日本舞踊などの師匠や、料亭や旅館の女将など、和服で仕事をする人たちから仕事の依頼が来ていた。

特に晴れがましいのは、花嫁衣装を縫うことである。

麻美の母親は寡黙で、仕事に打ち込む人だった。

 

 伯母は麻美の母より三歳年上で、心臓が弱く、青白くむくんだ顔で、くちびるは紫がかっていた。

声も小さく動作もゆっくりだったけれど、ふわーっと溶けるような笑顔で、周囲をなごませる人だった。

伯母の家は、麻美の家から電車で七つ目の、海辺にあり、庭の向こうの松の防砂林を透かして、白い砂浜が見える。

内海なので波も静かで、春は潮干狩り、夏は海水浴でにぎわう。

砂浜で、まだ若かった義伯父に抱かれていて、『うちの子になるか?』とささやかれたこと。これが、自分の一番古い記憶だと、麻美は思っている。

伯母のからだは、妊娠、出産には耐えられないだろうと、医師から言われていた。

子どもがなくても、伯母が病弱でも、伯母夫婦は仲がいいということは、幼い麻美にも伝わっていた。

それでも、やはり、義伯父はさびしかったのだろうか。


 麻美の父親は、事務所は持たず、クルマと電話を使って、一人で不動産売買の商売をしていた。

土日も、夜間も、お客さんがあれば出かけるし、遠方の仕事の時は何日も外泊することもあった。

気分にむらがあり、ささいなことで怒鳴るため、麻美は父親が怖かった。

麻美の母親は夫には逆らわず、夫の機嫌がなおるまでの間、沈黙している。

そのため、麻美が夫婦の間の通訳替わりをしていた。

「今日は、晩御飯はいらないって、お父さんが」

「昼過ぎに、銀行から電話があったって、お母さんが」

という具合に。

父親は、いつ機嫌が悪くなるかわからない。

気が小さい麻美は、家の空気が息苦しく感じられて、マンガ雑誌の世界に逃げこんでいた。


 麻美は、自分の家の空気が冷たく固いと感じていた。

伯母の家にいくと胸が広々とふくらむ。喘息にもならないし、雑誌もいらない。

浜辺で、気に入った貝殻や小石を集めるのが楽しかった。

幼稚園の頃からずっといっしょで、麻美を守ってくれる、同級生の田中野枝(たなか のえ)にプレゼントするのだ。

手先の器用な義伯父が、小さな、蓋つきの木箱を作ってくれた。

麻美は、その箱を浜辺で拾った宝物で飾る。中には、手作りのアクセサリーも詰め込んだ。

野枝の笑顔が目に浮かぶ。


 小児喘息の持病がある麻美は、近所の田中クリニックで世話になっている。野枝は院長の娘である。

田中医師は、麻美の喘息は心因性のものではないかという疑いをもっていた。

麻美の神経質な性格や、家庭環境が病気の遠因ではないだろうかと。

そのため、娘の野枝に、いつも、「麻美ちゃんを守るんだよ」と言い聞かせてきた。

麻美がひどいいじめに遭わなくてすんでいるのは、野枝のおかげだった。

野枝は、子どもながらに情報収集能力に優れていた。人づきあいが巧みで、他人の秘密をかぎつけるのがうまい。

だから、麻美をいじめる子どもは、野枝から「あんたの秘密をバラスからね」と脅されるのだ。


 麻美は中学生になった。

校区が広くなり、見知らぬ生徒もたくさんいた。

野枝は私立中学に入ったため、麻美は護衛を失ってしまった。

とにかく目立たないことが大事だと、麻美は首をひっこめ、周囲をうかがっていた。

守ってくれる野枝がいないのだから、できれば、どこかのグループに入りたい。

ボスとその取り巻きに守られる安全な隠れ場所が必要だ。

しかし、グループに入れば、空気を読み、どんな振る舞いをしたらいいのかという新たな問題が出てくる。

幼い頃から野枝に守られて来た麻美には、そのスキルが身についていない。

麻美は、つくづく、弱い自分が情けないと思った。


 五月の連休の後、廊下や運動場で、誰かの視線を感じることが多くなった。

いじめが始まるのだろうか。

麻美は怯えていた。


 運動会の練習で、全校生徒が校庭に出ていた時、トイレ休憩になった。

麻美もトイレに行こうと、小走りに校舎に向かっていた。

グランドの隅の桜の大木の下に差し掛かったとき、突然、強く背中を押され、麻美は無様に前に倒れた。

蹲った麻美に、男子生徒の声が降りかかってきた。


 「ホンサイノコダカラッテ、オマエ、ソンナニエライノカ!」


 麻美はとっさに手をついたので、顔面からグランドに突っ込むことはなかったが、短パンだったため、擦りむいたらしい両ひざから血が滲み始めた。

 

 唐突に、母親が縫っていた花嫁衣装にぽつんと滴っていた赤いしみのことが麻美の脳裏に浮かんだ。

見てはいけない光景。

母親の厳しい視線。


 怖い。

体が凍り付くみたいだ。


 喘息の発作が起きる!

膝の痛みより、息苦しさが強くなった。

だれか……助けて!

息が吸えない!

蹲ったまま、麻美はあえいだ。


 生徒や教師の叫び声と、たくさんの靴音が近づいてきた。

 

 麻美は、街の医療センターに救急搬送され、経過観察ということで3日間入院した。

退院後は、幼い頃からのかかりつけの田中医師との連携で、大学病院の思春期外来にかかるようにと紹介された。


 麻美は、ショックから立ち直れず、学校に行けなくなった。家から一歩も外に出ることができない。

だから、紹介された大学病院にも行けなかった。

とにかく、怖いのだ。

誰かに狙われている。

また、襲われる。

背後に忍び寄る影の気配に怯え続けた。


 私立中学に入った親友の野枝は、事件後、どんなに帰りが遅くなっても、毎日、麻美の家に立ち寄った。

土日は麻美につきっきりで、勉強も教えてくれた。

野枝にだけは心を許している麻美は、事件当日のことを打ち明けた。

「ホンサイノコ?」野枝は首を傾げた。

麻美にもわからない。「ん、なんのことかな?」

「ホンサイ……本妻? 麻美が本妻の子……なにか秘密があるのかな?」

「うちの親にはそういう話はしないで。そうでなくてもお父さんは気分屋だから、お母さんと揉めてほしくないんだ」

「わかった。麻美の親に訊かなくても、調べる手はあるんだよ。任せて」 

 

 情報収集に長けている野枝は、麻美の伯母の家を訪ね、麻美の家の事情を訊いてきた。

「もう別れたらしいけど、麻美のお父さんには愛人がいて、その人には麻美と同い年の男の子がいるんだって。いわゆる、腹違いのきょうだいってやつ?」

その子の母親が育児放棄をしたため、彼は施設で育った。中学生になって、麻美と同じ学校に通うようになり、麻美に嫌がらせをしたのではないかということだった。


 事件の時、麻美に降りかかってきた謎のセリフは、『本妻の子だからって、おまえ、そんなに偉いのか!』ということだったらしい。

 

 事件の謎が解けても、麻美は登校する気にはなれなかった。とりあえず、喘息が治らないからという理由をつけてしのいだ。

父母も教師も、病名がついていれば納得するのだ。


伯母夫婦からは、こちらに来て、転校してはどうかと誘われていたが、麻美は部屋から出ることができなかった。

麻美を突き飛ばした男子は、伯母の家だって知っているに違いない。逃げてもだめだ。

病弱な伯母に負担をかけてはいけない。

自分のせいで、伯母の心臓病が悪化したら……詫びてすむことではない。

やさしい義伯父を悲しませるようなことだけはしたくなかった。


 秋になった。

大型の台風が北上し、この町にも接近しているというニュースが流れている。

海辺に在る伯母の家は大丈夫だろうか。

伯母たちが気がかりだ。

それだけでなく、嵐の気配が麻美の気持ちを昂らせていた。

夕方から、風雨が強くなってきた。

夜になれば、外出する人も少なくなるはずだ。

恐れているあの男子、父親の愛人の子だというあの子も、今夜は施設の外に出ることもないだろう。


 思い切って外に出るなら、今夜しかない。


 麻美は、お年玉の残りや、伯母から進級祝いにもらったお金が入っているポーチの中を確かめた。一万三千円ある。

万一、電車が止まっても、タクシーで行ける。

ポーチの中のお金を財布に移し、スマートフォンと共に、ポシェットに入れた。


 午後十時半。

駅までは徒歩十五分だ。

最終の一本前の電車は、10時57分。

スマートフォンで確認すると、電車はまだ無事に運行していた。

幸い、父親は帰宅していない。

母親は雨戸を閉め切って嵐に備え、台所のテーブルには、おにぎりの皿と懐中電灯、携帯ラジオを用意していた。

閉じこもっている麻美が外に出るとは夢にも思っていないはずだ。

急ぎの縫物はないらしく、居間でテレビを観ているようだ。

二階にある麻美の部屋のドアを開けると、階下からテレビの音が聞こえてきた。

母は、台風接近を伝える緊迫した報道番組に釘付けになっているのだろう。


 麻美は、ポシェットを肩から斜め掛けにして、非常用の黄色いビニールのカッパを抱え、音をたてないように用心ぶかく階段を降りた。

階段の下で息を殺し、居間のドアに耳をくっつける。

『不要不急の方は、決して家の外に出ないでください。特に高齢者の方は……』

テレビは、緊迫した様子をオーバーに演出している。

母はテレビに気を取られているに違いない。


 麻美は、上り框で緊張していた。

とにかく、音をたてないこと。

幸い、ブーツは靴箱に入りきらないので、箱の脇に出してある。慎重に黒いブーツを履き、ジッパーはそのままにしておく。

そろそろと玄関のドアのカギをまわす。

カチャッという音に身をすくめる。

玄関でぐずぐずしていてはだめだ。

風圧で重くなっているドアを押し開けて外に出る。

小雨なのが救いだが、風は強い。

バーンとドアが閉まらないように、ノブにしがみつくようにしてドアを閉める。

ポシェットからカギを取り出して、外から施錠した。

手にしていたビニールの黄色いカッパを着て、襟元までしっかりボタンをかけ、髪を押し込むようにしてフードをかぶり、ひもを引き締めて顎の下で結ぶ。

ブーツのジッパーもきっちり引き上げた。

「ん、大丈夫だ」


 強い向かい風に息をとられそうになるが、三か月ぶりに家の外に出られたという高揚感で、喘息の発作は起きなかった。

前庭を抜け、慎重に門扉を開閉し、家の前の狭い道に出ると、安堵のため息が出た。

嵐の前の静けさというのか、テレビが騒いでいるほどのことはなかった。

今のうちに駅にたどり着きたい。


 住宅街から駅前商店街に抜け、アーケードの下を小走りに駅に向かう。コンビニ以外の店はシャッターを下ろしていて、人通りはない。

電車が着けば、帰宅する人もあるのだろうが、今は空白の時間帯だ。


 駅に着くと、構内はがらんとしていた。待合室に続くコンビニにも客はいないみたいだ。

交通系のカードは持っているので、切符を買う必要もない。

伯母の住む町に向かって走る、下り電車。最終の一本前、10時57分まで、まだ10分もある。


 麻美は待合室の隅っこのイスに腰かけ、フードを脱いだ。

顎までの髪を手櫛で整えていた時、待合室に駆け込んで来た少年が目に入った。

短く刈り込んだ髪がぬれている。顔も、汗や雨のせいか光っていた。

傘もカッパも持っていない。

ジーンズにパーカー、手ぶらである。


 少年は慌ただしく自動券売機で切符を買い、ホームに向かいそうになった……その時、麻美の姿を目の端でとらえたのだろう。

彼は、一瞬、棒立ちになり……しかし、ためらうことなく、麻美の方に歩み寄ってきた。「木下さん? だよね」

麻美には見覚えのない顏だが、この声、忘れることができない少年の声に震え上がった。


『本妻の子だからって、おまえ、そんなに偉いのか!』


三か月ほど前、運動会の練習の時に、麻美を背後から突き飛ばして転ばせ、罵倒した少年の声だった。


 張り付いたように椅子に腰かけたままの麻美に、少年は腰を折り、深々と頭を下げた。

「あの時はごめんなさい。園でトラブルがあったり、学校でも施設の子だと言っていじめられたり……なんか……君に八つ当たりしてしまって」

麻美は声が出ない。

「時間がないんで……オレ、園から逃げ出して、先輩の所に行く途中。だから、今夜オレに会ったこと、だれにも言わないで、お願いします」

少年はもう一度、麻美に深々と頭を下げ、小走りに去っていった。


 少年は、改札を抜け、ホームに走り込み、入ってきた上り電車に飛び乗った。

麻美の伯母の家とは反対方向に行く電車である。


 

麻美は、少年が乗った電車が発進していく音を聞きながら、まだ、椅子にへたりこんだままだった。

台風よりもっとすごい力で、麻美を二回もなぎ倒した少年。


(なんなの、あの子)


 もう、伯母の家に行く気も失っていた。

とにかく、自分の部屋に戻って、ゆっくりしたかった。

麻美はフードをかぶり、椅子から立ち上がった。

風雨がひどくならないうちに家に帰ろう。


 麻美が帰宅した時も、ガレージには父親のクルマはなかった。

気圧が低い時など、父親は普段よりもっと不機嫌になる。父親が帰宅していないことは幸いだ。

麻美は家の前でカッパを脱いだ。

そっと玄関のドアを開けた。

出た時と同じように、仕切りのドアの向こうの居間からはテレビの音がしていた。

ブーツを脱ぎ、靴箱の脇に押し込んだ。

濡れたカッパを丸めて持ち、足音を忍ばせながら階段を上がる。


 無事に部屋に戻った麻美は、丸めたカッパとポシェットを机の上に置き、ベッドに倒れ込んだ。


(あれ?)

今日は一度も喘息の兆候がなかったことに気がついた。

低気圧が来ていても、強い風の中を歩いても、あの少年にびっくりさせられても、いま、息遣いは普通である。

(なに? これ)

今は何も考えられない。


 明日、明日になったら、わたしは野枝に長いメールを書くだろう。

麻美は、うっすらと微笑んで、目を閉じた。   

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