第2話
▼秩父・武甲山の麓 石灰石の集積地近くの宿場
【昨日ご満悦で屋敷に帰ったご隠居を待っていたのは、とんだ大きな商談でした。なんでも、跡取りが言うには、武甲山の石灰岩も、麓で加工されたセメントも、東京の都市の拡大に引っ張られて取引先から引く手あまた。既存の商いも拡大のうえ、新たに日本各地にも販路拡大の見込みだと言います。近い将来の大きな需要を見越して、この馬車屋にも立て続けに大きな依頼が舞い込んだそう。なかには一、二年後の鉄道敷設事業への誘いもあったとか。これに味をしめてしまったご隠居、ますます功徳を積もうと心を新たにしてしまった次第】
【ご隠居は今日も天王橋をぷらぷらと。うなぎ屋がやっているのを見て嬉々として駆けつけます】
馬車屋の隠居 「いた、いた、いた。おーい」
うなぎ屋の主人 「また来やがった。どうすりゃいい?」
うなぎ屋の女房 「しょうがないよ。まだお客さんもありゃしない。えっと、ほら、このすっぽんでも」
うなぎ屋の主人 「お、おう」
馬車屋の隠居 「いやね、昨日は帰ったら大きな荷受けの話が来ててね。やっぱり放生の功徳だろうねえ」
うなぎ屋の女房 「あはは、そりゃいいですね。ほら、あんたもさ」
うなぎ屋の主人 「そうかい、そうかい」
馬車屋の隠居 「にしても、このところやけにバッタが多い。踏んだら元も子もないからね。大変大変。そら、お前さんの足元にも。気を付けなよ」
うなぎ屋の主人 「は、はあ」
馬車屋の隠居 「で、今日はなんだね?」
うなぎ屋の主人 「ああ、すっぽんですぁ」
馬車屋の隠居 「それで、どうする?」
うなぎ屋の主人 「首をちょん切って、血を絞るんですぁ」
馬車屋の隠居 「また、なんということを。自分の身になって」
うなぎ屋の主人 「考えてみても嫌ですね」
馬車屋の隠居 「だろう。かわいそうに。何も知らずに首を伸ばして。いくらになるんだ?」
うなぎ屋の女房 「待ってまし」
うなぎ屋の主人 「こら、いや、これは、8円ですな」
馬車屋の隠居 「安いものだ。ささ、籠へ籠へ」
うなぎ屋の女房 「はい、ただいま。ささ」
うなぎ屋の主人 「ああ、ああ、ほらどうぞ」
馬車屋の隠居 「よしよし。おう、けなげなすっぽんだ。いいか、血汐を取られるなよ、ほうらお逃げ」
【と言って、銭を勘定するうなぎ屋の主人などには目もくれず、近くの小川にぽちゃんとすっぽんを放ちます。次いでご隠居は、まだすっぽんが泳ぐほうへ両手をあわせて】
馬車屋の隠居 「いい功徳をした。八幡様、今の放生をご照覧あれ」
【ここから毎日のように、ご隠居とうなぎ屋の主人との放生会が繰り返されます。うなぎは2円、すっぽんは8円、どちらもない時はうぐいが50銭。せっせと獲物を川で探してきてはご隠居を待ち受けます。うなぎ屋はもうすっかり味をしめてしまって、女房と一緒になって悪だくみの様子。片や、ご隠居はというと、あれよあれよという間に商売繁盛するわ、素人ながら手を出した米相場でも大儲け。してまた今日も、儲けた金をうなぎ屋へ】
うなぎ屋の主人 「あのご隠居が来るようになって、ひと財産築いちまったな」
うなぎ屋の女房 「ほんとだよ。今日もそろそろ」
うなぎ屋の主人 「来たっ」
うなぎ屋の女房 「ほうら、来たっ」
うなぎ屋の主人 「うなぎ、うなぎ、早く」
うなぎ屋の女房 「はいよ、っと、あれ、ひっくり返っちゃって、あら、死んでら」
うなぎ屋の主人 「えっ?ああ、ほんとだ。裂こうとしても暴れやしない。おい、どうする、どうする?そうだ、どじょうが」
うなぎ屋の女房 「どじょう?朝おみおつけで食べたろ?あれでしまいだよ」
うなぎ屋の主人 「くそ、なんか生もの」
うなぎ屋の女房 「生き物だろう?ご隠居なら、もう来るんだけどね」
うなぎ屋の主人 「そうだ、金魚鉢に」
うなぎ屋の女房 「昨日猫が食っちまったよ、一匹残らず」
うなぎ屋の主人 「馬鹿畜生め」
うなぎ屋の女房 「さっきバッタがいたんだけどな」
うなぎ屋の主人 「肝心な時にいやしねえ。しようがねえ、奥から赤ん坊つれてこい」
うなぎ屋の女房 「ど、どうしようってんだい?」
うなぎ屋の主人 「こいつをひっぺはがして、台に乗せてだな」
うなぎ屋の女房 「ちと待っておくれよ」
うなぎ屋の主人 「大丈夫だ、大丈夫だ、裂くわけじゃない。ちょっとのあいだ」
【そうこうしているうちに、ご隠居がすぐそばまでやってきました。ご隠居は案の定】
馬車屋の隠居 「おいおいおいおい、こりゃどういうありさまだ?」
うなぎ屋の主人 「旦那、いらっしゃい」
馬車屋の隠居 「挨拶なんかいい。その赤ちゃん、まさか、お前」
うなぎ屋の主人 「へい、例のごとく、きりでとんと打って、背中から、こう。そんで蒲焼にして店で出すんですぁ」
馬車屋の隠居 「見損なったぞ。この人でなし。あたしが来たからには絶対にそんなことさせやしないよ。いくらだい?」
うなぎ屋の主人 「この赤ん坊ですかい?」
馬車屋の隠居 「そうだよ」
うなぎ屋の主人 「そう言われましても、こいつはうちの子ですからなあ」
馬車屋の隠居 「こんなことしようとする奴の手元に置けるか。いくらだ?青天井だ」
うなぎ屋の主人 「難しいですが、しいて言えば100円ぐらいですかな。いや、違うなぁ」
馬車屋の隠居 「わかった、200円でいいか?早く、こちらへ。籠じゃないぞ。あたしによこせ」
うなぎ屋の主人 「はい、毎度」
馬車屋の隠居 「早く渡しな。狂ったように泣いているじゃないか、かわいそうに。おお、いい子だ、いい子だ」
うなぎ屋の主人 「くれぐれも、そこの川には落とさないでくださいよ」
馬車屋の隠居 「当たり前だ。人の子だぞ。鬼か餓鬼か、お前は」
うなぎ屋の女房 「ご隠居さん、もうこれでいいでしょう。ささ、その子を返してくださいな」
馬車屋の隠居 「何を言うんだ。一度殺しかけた親などに返せるものか。200円が手切れ金になったろう。この子はうちに引き取る」
うなぎ屋の女房 「ええ、なんで」
馬車屋の隠居 「夫婦そろって人の情がないのか。何を言っても無駄だ。この子は今日はからあたしの孫だ。男の子がいない次男に預ける」
うなぎ屋の女房 「そんな殺生な」
馬車屋の隠居 「殺生なのはお前らだ」
【と言って、唐突に子を喪ったうなぎ屋の夫婦などには目もくれず、養子を抱えあげます。次いでご隠居は、養子を胸に抱えながら小さく両手をあわせて】
馬車屋の隠居 「まさか人の子を助けるとは思わなんだ。ああ、いい功徳をした。八幡様、今の放生をご照覧あれ」
【実はこの子、将来いくつもの偶然が重なり家業の後を継ぎ、運送業から鉄道業、次いで鉱業に進出、武州セメント社長として高度経済成長期を駆け抜けてゆくことになるのですが、それはまた別のお話】
【話は戻りまして秩父の天王橋。ご隠居とうなぎ屋夫婦が掛け合いをしているちょうどそこへ、橋をわたって一人の男が大急ぎで駆け付けます。この男、地元秩父新聞の記者の男でありまして】
秩父新聞記者 「いたいた、こんなところに。馬車屋のご隠居さん、そろそろ準備が始まるって騒ぎですよ」
馬車屋の隠居 「おお、そうか、知らせてくれてありがとう。油も売っていられない」
うなぎ屋の主人 「待ってくださいな。また改めて話さなきゃいけないことが。いったいどちらへ?」
馬車屋の隠居 「ん、なんだ?もう放さなきゃいけないものはないだろう?明日もまた来るだろうから、今度はうなぎを頼むぞ」
秩父新聞記者 「さぁ、急いで急いで。なんでも明日にはダイナマイトで丘一つ吹き飛ばすらしい」
馬車屋の隠居 「なに、馬鹿者。そんなことをしたら、林の生き物は一瞬のうちにいっぱひとからげでばらばらだ」
うなぎ屋の主人 「それは放生どこの騒ぎじゃないですな」
秩父新聞記者 「なんでも、武甲山の裏側で見つかった新しい鉱脈へ道をつなげるための工事だというんだ」
馬車屋の隠居 「工事自体はいいが、なんとしても、今日のうちに山狩りでも巻狩りでもして丘の生き物を追い出さなくては。人と物の準備はした。見ろ、今日はこんな人の子まで助けた。この功徳に、八幡様も大いに応えてくれるだろう」
うなぎ屋の主人 「まぁ、たいそうな心掛けだ。でも、その子についてはまた話さなきゃなりません。なあ?」
うなぎ屋の女房 「そうだよ。あたしたちも悪かったんです。また話さなきゃ」
馬車屋の隠居 「わかった。でも今、今日のところは、明日発破される丘の生き物を放さなきゃならんのだ」
秩父新聞記者 「早く行きましょう」
馬車屋の隠居 「ああ」
【ちぐはぐな会話もさらに中途半端なまま、ご隠居は山狩りに急ぎ駆けてゆきました。ところが、後日談で、この山狩りで丘を追われた鹿や猪、鼠が慣れない人里に下りてきまして、いたるところで人にぶつかったり噛んだりしたもので、里では事故や病気の人死が。重ねて、洪水後の夏の猛暑のなか、ずっと手つかずだった広大な野原に巣食うバッタを一斉に叩き起こしてしまったものですから、ここ数日来、空一面がバッタの黒雲となりまして】
うなぎ屋の主人 「まったく、あちこちで人が猪に襲われるわ、火消し桶も用水も鹿に狸にぶちまけられるわ。散々散々。これじゃ商売も糞もありゃしない」
うなぎ屋の女房 「はぁ、筵の下も布団の中も、バッタだらけ。我が子も帰らないで途方に暮れちまう」
秩父新聞記者 「もって獣害蝗害もまた人災と糾弾せざるをえないであろう、っと、脱稿脱稿」
馬車屋の隠居 「バッタには驚いたが、シシもバッタも生きとし生けるもの。いやはや、いい功徳をした。八幡様、この放縦(放生)をご照覧あれ」
了
【落語台本】放生会(ほうじょうえ) 紀瀬川 沙 @Kisegawa
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