第3話 永町

〇 会社員  永町ながまち すみれ


 白状します。私が刺しました。


 初めから、思い出しながら、順を追ってお話します。


 私はいつも通り、明大前駅から井の頭線渋谷行きの電車に乗りました。一番最後尾の車輌です。列は既にホームの壁まで並んでいましたが、構わず並び、無理やりにドアに飛び込みました。


 彼が乗っているのは分かっていましたから。


 彼はいつもこの満員の車両に、永福町から乗り込んで、私のために幾分かのスペースを空けておいてくれているのです。

 私を彼の腕の中に収めるために。断るとすぐ不機嫌になるので仕方なく、私は毎日その腕の中に入ります。


 電車に乗り込んだ私を、人々が次々と乗り込んだあの一瞬のどさくさで彼は見つけ出し、私を隣に引っ張り込むのです。


 彼の右腕は私の腰に、彼の左手は吊り革に。それが明大前駅から渋谷駅までの、私の特等席であるかのように。

 向かい合う彼は、私よりもはるかに大きい背から私を見下ろします。

 その笑顔は、きっと周りから見えるものと全くの別物でしょう。私の位置から見上げる彼の顔は、とても恐ろしい。悪魔のような笑顔なのです。


「へぇ、どうしたのその髪、かわいいじゃん」

 彼は私の髪を玩具のように触ります。


「ちょっと、巻いたんだから触らないでよ」

 私が彼を拒絶したところで結果は変わりません。ずっと今までもそうでした。そして、これからも。


「ちょっとくらいいいだろ」

 身動きが取れない中、彼の右腕は背中をくすぐり、左手は頭を撫でます。やめて欲しいと毎日言っているのに。

 一緒の電車に乗らなければいいとお思いですか? 彼の意向に背くことが、彼の機嫌を損ねることが、何を意味するのか。その一瞬の選択が、今週一週間の彼の癇癪の引き金を引くことになるのですから。


 ずっと耐えてきました。彼が笑っている時が最も安全な時間。そう言い聞かせてきました。


 しかし、私の中で何かが、既に限界を超えていたようです。

 彼の手が私の右太ももをまさぐり始めた時、私は両腕で握りしめていたカバンの中から果物ナイフを取り出して、その腕目掛けてグリグリと、少しずつ刃をくい込ませました。

 何を言っても聞かない。拒絶も通用しない。ならば、攻撃しかない、と。


 私の苦痛を楽しみ、私の叫びを飲み込み、私の自由を蔑ろにする彼の、その手を台無しにしたかった。


 私を触る度に、このことを刻みつけて、忘れられないようにしたかったんです。


 声を押し殺したような呻き声と共に、その手は私の脚から離れました。ナイフが刺さったまま、です。


 やった。私は解放されたんだ。そう思いました。

 そう見上げた時に、私は再び絶望を味わいました。


 笑っていたんです。あの悪魔のような笑顔を浮かべて。

「帰ったらお仕置きをしないとな」


 ナイフは手を貫きました。私の脚に切っ先が刺さっていましたから。その位、徹底的に痛みを刻みつけたはずでした。

 それなのに。彼の左手は私の頭に置かれました。


 その時私の心に、消えない恐怖の刃が振り下ろされたのです。

 許さないぞ。

 逃がさないぞ。

 そんな彼の声が聞こえたような気がしました。


 まだ目を閉じればあの笑顔を思い出してしまいます。

 早く。早く私を解放して。私を、逮捕してください。


 私が彼を刺しました。

 このまま家に帰れば、私は殺されてしまいます!!


 質問、でしょうか。そんなものは逮捕してから……、はい。手続き上仕方の無いこと? 分かりました……。


 身動きが取れなかったのに、どうやってナイフを刺すことができたのか、でしょうか。

 私は背が普通の人より小さいので、両手を下に下げていれば多少、下向きならば自由がききます。その両手を上に上げることはままなりませんでしたが、下にしたまま動かすことはできたんです。


 私の頭に手が置かれた時に、既にその手にナイフは刺さってはいませんでした。彼がそのナイフを持っているはずです。私を破滅させる、私を傷つけるためのナイフです。


 押収してください!

 さもないと……、早く、助けてください!!

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