第2話 久山
〇 会社員
朝からとても嫌な思いをしたんです。
まぁ、毎朝なんですけどね。明大前駅の、井の頭線の渋谷行きの電車に乗ると、既に満員状態の電車がやって来るんです。待機列も後ろの壁まで並んでいるから、わざと一つや二つ後の電車に乗るんです。来た電車を見送って列の先頭に並べば、まだ少し余裕のある場所に乗れるから。
扉の前が1番窮屈なんですよ。人の壁の方はまだ少し柔らかいですけど、硬い扉に押し付けられると、潰れたカエルみたいな気持ちになりますよ。
列の先頭に並んだので、扉から入って、少し奥の方に入れました。ちょうど、扉と扉の間の辺りです。あの辺りには吊り革は無いですから、胸の前で腕を十字にしてやり過ごしました。痴漢とか怖いですから。
下北沢駅で周りの人が沢山降りたので、釣られて1度ホームに降りることになったんです。
こいぬの木……。
えぇ。ホームから降りると、目の前にあの、カラフルな木が見えたのを思い出したんです。下北沢駅にある、有名な木のモニュメントですね。
……気を取り直して、仕方なく再び乗り込んだんですが、一度ホームに出ると、既に並んでいる人の列の後ろに並ぶかどうかで悩みませんか? 私は悩むタイプなんです。ちょうど列の先頭に並んでいた人が、ちょっと怖そうな人だったので、目を合わせないように列の最後尾に並びました。
そうなると必然的に扉のすぐ近くになりますよね。目の前にノッポの男の人が見えたんで、発車前の少し余裕のあるうちに身体を回転させて、身体を外の方に向けたんです。
どうせあの人の背の高さのせいで、扉の上のモニターに表示されるCMは見えませんからね。
それに、あの男は毎朝、彼女とイチャイチャするんですよ。仕事帰りならまだしも、朝からイチャつくんです。目に毒ですよ。女性の方は見られているのが分かっているのか、いつもうんざりしながら話をしていますが、男性は楽しそうに、怒られていても変わらず頭を撫でたり、腰に手を回したりしているんです。
背中を向けていましたが、声を聞くだけで想像出来てしまいますよ。朝からそんなものを見せつけられたら、幸せそうな二人を見るのはたまらないと、背中を向けて見ないようにした訳です。一度発車してしまうと、方向転換できないくらい混んでいましたから。
そこからはもう、ひたすら頭の中で楽しかった記憶を呼び起こしていました。その日が月曜日だったからかな。なんだか朝から疲れていました。
気がつくとあっという間に渋谷駅に着いていて、降りて改札に向かいました。えぇ、確か1番後ろの車輌です。5号車ですね。
質問……ですか。
はい。なんですか?
嫌な思いをしたというのは、朝から痴話喧嘩を見たことに対しての発言か、って。まぁ、そうですね。
身動きの取れないほどの満員なのに、あの二人は気にせず喋り続けていたんです。何を喋っていたのかもだいたい覚えています。あの静かな電車の中で、二人の喧嘩のような、惚気のようなものを延々と聞かされ続けていたんですから。あの車両に乗った人は皆うんざりしていたと思います。
二人が毎日、あの車輌に乗っていることが分かっているなら、どうしてその電車に乗ったのか?
うーん。あの場所は改札に一番近いですし、下北沢駅で一度ホームから出なければ、あのカップルの傍に行くこともなかったです。傍に近寄らなければ声も聞こえなかった訳ですし。たまたまですよ。
それに、こうして警察の方に話を聞かせてくれって言われてることも迷惑な話じゃないですか。さっきのことを思い出してくれって言われて、余計忘れられないじゃないですか。
え? 警察の方じゃないんですか?
あなたは、一体……?
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