忘れられたらいいのに

ぎざ

第1話 吉寺

〇 大学生  吉寺よしでら きよし


 今思い出すだけでも吐き気を覚えるよ。まったくどうしてこんなことになってしまったのか。


 あの電車は毎回とても混んでいるんだ。それも、渋谷の改札に近い車輌な程ね。いつもは混雑を避けるために、改札から遠い車輌に乗るんだけど、その日は遅刻しそうでね。多少の混雑なら仕方ないと、1番改札に近い車輌に乗ったんだよ。


 あぁ、5号車だね。京王線のホームから歩いて階段を降りて、左側にあるんだ。一度電車に乗ったら、あの混雑だ。車輌間の移動なんてできやしない。当然降りたのも5号車だよ。どうしてそんなこと聞くの?


 まぁ、いいや。


 電車がホームの右から左に通り過ぎてきて、右側の扉が開いた。数人降りて、ドアの前にほんの少しの隙間が出来た。

 乗り込む前からもう満員でね。でも不思議なもので、押し込めば人間があと10人くらい軽々入ってしまうのが、電車なんだよ。座席の前の方とか、スペースが空いているからね。こんなに乗らねぇだろって人数も、無事に収まった。


 収まったからと言って余裕がある訳でもない。皆が皆、自分のスペースを確保したがる。それは俺も一緒さ。俺は人の波に押しやられ、扉側に押しやられた。閉まる扉の中にうまく、自分の形を変えて収まった。人に寄りかかるよりは体重を気にしなくてもいいけどさ、固くて痛いよな。


 あそこまで満員だとさ、吊り革に捕まることができなくたってへっちゃらだ。人と人の間に挟まっているから、倒れることは無いんだ。逆に、何も身動きが取れないけどね。


 首も何も動かせない。だから、こんな悲劇が起きたということさ。


 俺の首は自分のいる扉とは逆側の出入口に固定されていた。扉の上の、デジタルサイネージに流れるCMを見て、終点渋谷までの十数分の窮屈をひたすらに誤魔化そうと、そう思っていたんだけどさ、それが出来なかったんだよ。


 長身のノッポが、ちょうどデジタルサイネージの画面を俺の視界から隠すように前に立っていたから、そいつが邪魔で画面が見えなかったんだ。


 それだけなら我慢すればいい。目を閉じて、好きな歌を口ずさんでいれば2曲とちょっとで終わる。急行だからな。


 でも、なんとそいつら。そう、二人いたんだ。ノッポの男と背の小さな女。カップルだったのさ。首の動かせない俺の前でイチャつき始めやがったのさ。


 これはそう、地獄だ。首を動かすことは出来ないし、目を閉じれば二人の話が余計耳に入ってくる。「へぇ、どうしたのその髪、かわいいじゃん」「ちょっと、巻いたんだから触らないでよ」「ちょっとくらいいいだろ」……目の前で頭ポンポンとかしやがって、朝から何を見せつけてやがる……。ケンカしてるのか、イチャイチャしてるのか。


 俺は後者だと思うね。女が嫌がっているのを、男は楽しんでいるんだ。男の笑顔が嫌でも視界に入ってくる。


 せめて音楽でも聴いていたらな。Bluetoothのイヤホン。電車を待っている間に電池が切れちゃって、耳から外していたんだよ。耳に付けていれば、耳栓代わりになって、あの会話も聞かなくて済んだのに。男の方が、お仕置きがどうのこうのって、そういう会話は家でやれよ。なぁ?


 下北沢駅で逆側のドアが開いて、また数人降りたから、周りのスペースに隙間が生まれてさ。すかさず俺は回れ右、扉側を向いたね。あいつらのイチャイチャを目に入れるよりは、扉に突っ伏している方がいい。まだ外の景色を見ていた方がマシだ。下北沢の駅前の、カラフルな木のモニュメントが見えた。南口を出てすぐにある、変な木。そんな風景もすぐに過ぎ去っていく。次停まるのは、渋谷駅。


 外の景色を見ていれば、会話なんてあまり耳に入ってこないよ。あいつらが何を話していたかなんて、下北沢を過ぎたあたりからはよく分からないな。そういえば、誰かのうめき声みたいなのが聞こえた気がするけど、お腹でもくだしてたんじゃない?


 質問? 分かる範囲なら答えるよ。

 長身のノッポはどうして手を動かせたのかって? 俺は首のひとつも動かせなかったのに?


 あぁ、あいつの手は上にあって、吊り革に捕まっていたからさ。でも、吊り革なんか捕まらなくったって身動きが取れないんだから意味ないだろ? だから、あいつも吊り革から手を離して、頭ポンポンとかしてたんじゃないか?


 ……くそっ、思い出すと余計イライラしてくるぜ。あぁ、忘れられたらいいのにな。嫌なこと。みーんな。


 ……そんな地獄のような十数分から開放されたと思ったら、こうして事情聴取に応じている訳さ。一体何が起こったの?





 え? 殺人?


 渋谷に降りた時、いつもよりも人の波が早くて、騒がしかったと思ったけど。まさかね。


 全然気づかなかったな。

 え、今俺、何話したっけ。忘れちまったよ。

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