第2話 懐かしい場所

 木製扉の向こうには懐かしい景色と匂いが広がっていた。真正面奥に見えるキッチンには調理道具や調味料などが所狭しと置かれ、レンジの上の鍋から匂いが誘われてきている。それもそのはず、アロンの両親は共に王宮料理人であり、その腕は他種族からも一目置かれていた。そんな二人が作り置きしている物だ。良い匂いに決まっている。釈放日には朝食が外され、ただでさえ腹の減っていたアロンはすぐに鍋へ近付く。


「おっ、カレーだ。ラッキー」


 蓋を取って覗いたその中には、芋や人参、それに肉などが混じり、少し薄めの茶から好みの甘さであると知れた。もしかすると釈放された後に立ち寄るかもしれないと作っておいてくれたのかもしれない。逮捕の知らせを聞いても調理してくれたことを見れば、サラが事情を説明してくれているのだろう。普段は喧嘩も多い妹に感謝の意を抱くアロンだった。

 レンジに火を灯し、カレーを煮詰め直しながら棚から大皿とスプーンを取り出す。コップに水道水を注ぎ、ご丁寧に炊かれた炊飯器の白米を大皿に盛る。少し多めに盛ったそれに煮詰まった茶のカレーが流し込まれた。白い山の麓を流れる茶の川、まさにそんな絶景である。

 すぐ脇にあるダイニングテーブルにそれらを並べ、両手を合わせて感謝を口にする。


「ありがとう。そして、いただきます」


 勢いよく頬張ると、口の中で米とカレーが混ざり合い、頬が落ちそうになる。先程まで地獄の世界にいたとは思えぬほどに今は至極の時間だった。ものの数分で皿の中は空になる。感謝を形に、とアロンは流しまでそれらを運び、後片付けを済ませた。


 ここで時計を見て午前十一時。まだまだ夜まで時間は長い。満腹になると必ず訪れる睡魔から、アロンは自然と二階への階段を上っていた。

 三つある部屋の内、中央の自室に向かおうと手前のサラの部屋を素通りしかけて足が止まる。


「そういやアイツ、部屋には絶対に入るなっていつも言ってたな」


 幼少の頃には共に一つのベッドで寝ていた双子は、思春期と共に疎遠になり、何年も部屋には足を踏み入れていない。納得できないのは、サラは平気でアロンの部屋に入ってくるということだ。一方的なその事象に苛立ちが募っていたアロンは、そのサラの部屋のノブに手を掛ける。


「サラは今、演習中だろうし、終わったら寮に戻るだろ。ここへは来るはずがない」


 そう理論立てて妹の部屋の扉を開けた。


 開け放たれたその中身を見て一言。


「あんま昔と変わってねぇな」


 別段変化のない室内に落胆と安堵が入り混じる。そんな中、ある物に目を奪われる。


「化粧台……」


 以前はなかったそれは部屋の左奥に置かれていた。美しい琥珀色の台に赤の布が掛けられた突起物――恐らくは鏡なのだろう。それからうかがえるのは、サラが少女から大人へと人生の階段を上ったことだった。


「けどアイツ、いつもはスッピンだよな……まさか、オトコ!?」


 ここでふつふつと怒りが沸いてくる。憎たらしくも可愛い双子の妹が、めかし込んで男と出掛けているところを想像したからだ。

 おもむろに左に置かれたクローゼットに目を移す。その上部の観音扉を開けてみる。


「な……っ。こんな派手なもんばっか」


 そこには赤や緑などの原色を主張した丈の短いワンピースやドレスなどが吊るされていた。中には地味な物もあるにはあるが、圧倒的に布面積が少ないものが目立つ。

 けしからんとばかりに、今度は下の段をチェックしていく。三段に分かれた引き出しの上段にはノースリーブやブラウス。中段には靴下やショールなど。


「下段はたぶん……アレなんだろうなぁ」


 今の二段分で容易に想像が付く最下段を引いてみる。案の定入れられた下着が目に入ってくる。


「なんだっ、コレ!? こんな派手なヤツ穿いてんのかっ」


 上着やスカートから薄々はそうだろうと思っていたが、その下着類もまた布面積は狭かった。少し透けている物やレースがあしらわれた物まである。


「くっ、サラ……どうしてこうなった。お兄ちゃんは悲しいぞ」


 昔は地味だった妹が容姿を気にして髪を染め、さらにはこんな物まで身に付けていると知り、大きなショックを受けるのだった。

 重い足取りで近くに置かれたベッドに移動する。ピンクの掛布団をのけてその中に潜り込んだ。悲しみに暮れる中、夜までこの中で時間を潰すと決めたアロンは瞳を閉じた。


 しかし、一向に寝付けない。ショックからというのもあるが、理由はもう一つ。今は使われていないこの部屋のカーテンを母親が取り払ったのか、そこから入る朝の陽射ひざしが尋常ではなかったからだ。身体部分に当たるならまだしも、その光はもろにアロンの目元を直撃していた。


「……寝れねぇ」


 観念したかのように掛布団をはねのけて立ち上がる。ゆっくりとクローゼットに近付くアロン。何を思ったのか、最下段に手を掛ける。


「コレだ」


 その中から赤の下着を拝借して再びベッドの中に潜り込んだ。普段は胸元に使用されるソレを目にあてがえば簡易のアイマスクの完成である。


「よしっ、パットの部分が遮光になって最高だ」


 ようやく暗闇を手に入れたアロンは静かに眠りに就くのだった。



※※※



 すやすやと眠るアロンに忍び寄る静かな足音。極楽の時間を堪能するアロンの元へゆっくりと近付いてくる。


「何してんのよっ、変態っ」


 声と同時にアロンの頬に痛みが走る。


「痛……っ。なんだ!? 刺客か?」

「何バカなこと言ってんのよっ。返してっ」


 現状把握に戸惑うアロン目掛けて腕が伸び、アイマスクが奪われる。


「サラ!? なんで……ここに?」


 ようやく状況を把握したアロンが見やると、そこには臙脂えんじ色のセミロングの端正な顔立ちの美少女が立っていた。兄に引けを取らぬその容姿は流石は双子と言うべきか。眉間にしわを寄せ、わなわなと震える手で下着を握りしめている。夕暮れの陽射ひざしを浴びてなのか、頬は赤く染まっていた。


「演習終わっても寮に戻ってこないから、まさかと思って来てみたの。こんなことしてるとは思わなかったけど、ねっ」

「いや、これは、その……演習が終わるまで仮眠しようと思って」

「ふーん。妹の下着をアイマスクにして仮眠するんだ」


 変質者を見るが如く軽蔑の眼差しをアロンに送ってくる。


「いや、けど、お前も悪いんだぞ。こんなハレンチなもんばっか集めて」

「放っといてよっ。アロンには関係ないでしょ!」


 その慌てぶりに間髪入れずにアロンが問い質す。


「お前、オトコがいるんだな?」

「いるわけないでしょ! バカなこと言ってないで、さあ寮に帰るわよ!」


 男の存在を否定したサラに対して安堵の笑みを浮かべるアロン。だが、それと同時に忘れていた用事を思い出す。この部屋に時計はないが、演習が終わる午後四時からすぐにサラが駆け付けたとすると午後四時半辺りだろう。教会の礼拝は午後五時までだからそろそろだ。


「すまん。先に帰っててくれ。ちょっと用事があるんだ」


 必死に掛布団を引っ張っていたサラの手が止まり、ジト目でアロンを見ている。


「まさか……オンナ?」

「ち、違う! 違う! 別の用事だ」

「はぁ、別に良いけど。用が終わったらさっさと帰ってきなさいよね」


 諦めたサラが溜息をついて扉の方に歩んでいく。その背中にアロンが問う。


「お前、俺がいないと寂しいんだろ?」


 ビクンと肩が動き、勢いよく身体からだを反転させてくる。


「違うわよっ。バカっ」


 両腕を下にピンと伸ばし、前のめりの愛らしいポーズで罵るサラ。言い切ってすぐ走って部屋を去っていった。これが俗に言うツンデレというものだろう。


「さて、と。行きますか」


 サラが玄関扉を閉めたのを確認してからベッドから身体からだを外し、背伸びをする。乱れた掛布団をキチンと正し、部屋を後にした。

 下におりて玄関扉に手を掛ける前に、もう一度回れ右をして家の景色を目に焼き付けた。学校から三十分程で帰れるにしても演習で疲れ切った身体からだには辛い。そのため、滅多に帰ってくることのないこの情景を覚えておきたかった。再度回れ右をし、今度こそ玄関扉を開けた。


 外に出ると、もう日は落ち、道行く人の種類も変化していた。子連れの主婦が目立つ朝とは違い、今は職場から帰宅する働き人の姿が目を引く。皆一様に疲れた表情だが、家族に会える喜びからか足取りは軽そうに見えた。その人の流れに混じり、アロンは目的の場所へと歩を進めた。

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