Ⅳ 望まれることを望み

 舞台の、否、――大和の全ての中心。

 東の果ての城郭の最上で、兄は吐き捨てる。


「私の望みは、大和の平和だ」


 その望み――いわゆる政治的な理念は、同じなのだ。

 平和を望んでいる。平和を作ろうとしている。それが同じだとわかっていたから、桜花は兄に、皇帝に、反旗を翻すことにした。

 

 望み自体は案外、何処までも同じ……。


「お前の言う通りだ。私は、日下部小百合に情を持っていた。お前に情を向けられない代わりだったのかもしれない。あるいは、ただ気に入っただけか?どちらであれ、日下部小百合は死んだ。私のミスで」


 あくまで冷徹な表情のまま、そう吐き捨てる紫遠を、皇帝を、兄を、桜花はただ静かに眺め続ける。


 紫遠は優秀だ。だが、優秀なだけの人間ではなかった。本来はくだらないことが好きな、それこそ悪戯を好むような人格。幼い日々たまにあった兄は、少なくとも桜花からはそう見えていた。


 あの頃の紫遠と皇帝、大和紫遠はまるで別の人間の様に振舞っていて、そしてその理由を、兄は妹に吐露している。


「……その瞬間から、私は絶対的であることにした。流れたあらゆる血に報い、他にどれほどの血を流し悪名を受けようと、私が大和を平和にする。その義務がある。……この舞台を降りる気はない」


 言い切った紫遠の顔には、確かに覚悟があった。

 ……もう、皇帝の座を降りようとは思っていないのだろう。


 その話を、兄と妹で直接したことはない。だが、兄妹だから――あるいは政敵として探り合うような関係だったからこそ、わかっていた事が桜花にはあった。


 兄は死のうとしている。少なくとも、桜花がクーデターを起こす前までは、そう考えていたはずだ。


 竜との戦争を終わらせた後、テロリストの手で倒れ、その後を桜花に継がせようと考えていたはずだ。


 クサカベスイレンも、その証拠の一つだ。彼が、直接紫遠に銃口を向けておきながら、ほとんど不問に処された事。そこには、情があるだろう。甘さがあるだろう。そして、合理性もある。


 皇帝、大和紫遠を殺す役。その役柄として、絶対に避けねばならないことが一つ。

 オニに殺されることだ。もし、オニに、連合に大和紫遠は殺されてしまえば、平和など夢のまた夢。


 だから兄は、自分を殺す役の人間を、選び見逃した。

 ……桜花が、兄に殺されようとしているように。

 

 桜花は、呟く。

「それを聞いて、安心しました。私の筋書きに沿うか否かは、兄さんに任せます。結果さえ手に入れて頂ければ、それで構いません」


 あくまで他人事のように、そう嘯く妹へ、兄はまた、問いを投げた。


「……お前は何を望んでいる?」

「大和の平和です」

「まだ、上辺を続けるのか?」


 完璧な上辺、皇帝で居続ける兄を前に、桜は、言う。


「そういう人間なんです、私は。私自身の望みは、希薄です。他人の望みに沿おうとするばかりの人間です。他人が求めたように振舞うばかりの、身の程を知らない小娘です」


 いつになく飾り気なく、心底くたびれたように。


「……躍起になりました。やりたくないと、やるべきだと。皇女として表に立ち、結果失敗ばかりが目の前に。足搔くたびに、自分は何をしているのかと、そう思うようになりました。私は何がしたいのかと。私は何を望んでいるのかと。ずっと、考えるように。けれど考えても、私の望みは見当たらなかった。少なくとも、この椅子に座っている限り……ええ。“桜花”に願いはありません。あるとすればそれはただ、せめて見るモノの心に残る散り際を。意味のある散り際を」


 そう嘯く桜を、紫遠は暫し眺め……やがて得心したかの様に、言う。


「桜花に願いはない。桜花は死ぬ、か」

「ええ。今宵必ず」


 妹が兄を理解しているように、兄もまた妹を理解しているのだろう。

 思えば、奇妙な状況かもしれない。


 皇位と言う絶対的な権力の椅子を前に、兄と妹は文字通り全身全霊を掛けて、その椅子を譲り合っているのだ。


 そして、その譲り合いの中で、いち早く手を打ち、政治的敗北と言う勝利に辿り着いたのが、妹の方。


 桜は言う。


「桜花に出来る事はもう、何もありません。桜花に利用価値ももう、ありません。でしょう?……桜花はもう必要ない。全てを捨てました。全てを捨てて一つだけ、私は賭けました。他でもない私自身の命を」

「……それがお前の望みか?」

「ええ、兄さん。桜花は多分、7年前に死んでいたんです。いえ、最初からそんな人間はいなかったのかもしれない。私は高貴に生まれたのでしょう。ですが結局、私はただの、一人の女だったみたいです。だから、政治も謀略も理想も、本当はどうだって良い」


 暗く淀んだ瞳で、それでもほのかな願いを見るように、桜は天を仰ぎ、


「私が欲しいのは、私が望んでいるのは……身近でわがままで夢見がちな、一つだけ。他の何を差し置いてでも……」


 呟き見上げた天。城郭と言う牢獄の天蓋。

 そこに、ふと、亀裂が入る――。


 雪と瓦礫、曇り空から差し込む月光――力づくで天井を、壁を突き破り、桜花の眼前に、それは派手に降り立ってきた。

 

 その姿を見た途端に、ふと、桜花は体の力が抜け、玉座に、捨てたそれに深くもたれ掛かり……囁くように、呟いた。


「……選んでもらいたかっただけ」


 消え入るような呟きの最中――その場、桜花を背に庇うように、黒い鎧は立っていた。

 

 帝国の……大和の英雄。

 数多の竜を屠って来た、実績として、経歴として、事実大和最強の男。


 駿河鋼也は――黒い“夜汰鴉”は、自分の女を背に紫遠を眺め――言った。


「話の途中だったか?悪いが、邪魔させてもらうぞ」


 それを、紫遠は眺め……呆れたように息を吐き、それから問いを投げる。


「……邪魔でもない。話は済んだところだ。……一応聞こう、英雄。何をしに来た」

「俺の女を攫いに来た」


 迷いなく言い切った“夜汰鴉”の向こうで、桜花は大きく、息を吐く――。

 それを前に、紫遠もまた、小さく、ため息のようなモノを漏らし……それから、声を投げた。


「満足か、桜花」

「はい。……私は賭けに勝ちました」


 そんな風に言い放った桜花を眺め、やがて、紫遠もまた、呟く。


「……そうらしいな。わかった。私の負けだ。スルガコウヤ。お前も死んでおくか?」

「…………その方が都合が良いな。脱走は極刑だろう?むしろ、お前が選べ大和紫遠。俺は生き汚いぞ。敵に回すか?」


 その言葉を前に、大和紫遠はふと、銃を、銃口を天に向け――。

 放った。

 銃声が、2発。夜に、月下に響き渡る……。


 そして、硝煙の上がる銃を手にしたまま、大和紫遠は桜花に、鋼也に背を向け――呟く。


「皇位継承者、桜花。……逆賊、駿河鋼也。どちらも、もう死んだ。私が直々に撃ち殺した。…………あとは、好きにすると良い」


 それだけだ。

 それだけ、言い捨てて……大和紫遠は歩み去っていく。


 鋼也は、その背を暫し眺め……眺める鋼也へと、声が投げられた。


「鋼也?」


 声に振り向いた“夜汰鴉”――その視線の先に、くたびれ切った様子で玉座に座り込む女がいる。


 皇位継承者、桜花は――いや。桜は、問いを投げてくる。


「……良かったの?」


 囁くように問いかける桜を前に、鋼也は、“夜汰鴉”は何も言わず歩み寄り――そしてそのまま、手を伸ばし、結局答えず桜の身体を抱き上げる。


「フフ、」


 子供のように抱き上げられて、抱えられて――あるいは、ずいぶん昔を思い出しでもしたのか。桜はそう笑みを零し――。


 そこで、鋼也の視線は部屋に残っていたもう一人。傍付きのメイドへと、止まった。


「……脱出経路は?」

「ご用意させていただいております。……こちらへ、」


 そう頭を下げ、メイドは歩み出す。

 その背を、桜を抱えたままに、鋼也は歩き出した……。

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