だれかがみている

 

 駅前のアンダーパス道は、今日も独特の湿気で満たされていた。


 老朽化したコンクリート壁に描かれたタイル画を横目に、ガードレールに挟まれた狭い車道を抜けて駅まで向かういつもの朝。普段なら目にも留めない日常の風景に違和感を覚えたのは、そこに明確な異常があったからだ。花束を抱えたお婆さんが、雨に濡れた白髪を気にすることなく佇んでいたのである。

 俺は現在時刻を確認し、車を路肩に止めた。足元に置いたビニール傘を持ち、お婆さんに近寄る。雨に濡れたまま、ここまで花を持ってきたようだった。


「……これ、使ってください」

「あぁ、堪忍ね。ええんやで、そんな気遣い……」


 溜まった雨水が足元を濡らした。梅雨時の温い空気が充満する地下道は、独特の黴臭さが鼻を突く。

 一部だけひしゃげたガードレールを見つめながら、お婆さんは黙々と何かの作業をしていた。未開封のスナック菓子や男児が喜びそうなキャラクター玩具が並べられている。俺は、ここで何が起きたかを察した。


「これ、孫のクラスで作ったタイルアートなんよ。綺麗やろ? 海と向日葵。カラフルで、明るくて……」


 そう言って、お婆さんは壁に埋め込まれた真新しいタイル画を指差す。拙いが、明るい気分になるような図柄だ。夏の楽しさを象徴する雰囲気が、今の湿気た地下道には不釣り合いなように思えた。

 そのタイル画は、一部が欠けていた。強い衝撃を受けたのか向日葵の花弁の黄色が砕け、隙間が空いていたのだ。それ以外は、なんの変哲もない絵だ。隙間に血がこびりついているか、と嫌な想像をしたが、丁寧に拭き取られていた。


「この絵を飾ってから、孫は毎日ここに遊びにくるようになってなぁ。『自分の絵を色んな人に見てもらうんや〜』って、いつもウキウキして……結局、海も向日葵も見れへんまま……」


 お婆さんの声は、途中から震えていた。俺はどう声を掛けていいか判らず、言葉を選んで口を開く。


「きっと、この絵の事は誰かが見てくれていますよ。綺麗な絵ですし、何より心が篭ってる。いい絵やと思いますよ」

「……ありがとう、孫も喜ぶわ」


 俺は黙祷を捧げ、ビニール傘を置いてその場を立ち去ろうとした。車に乗り込もうとしたとき、背後の声が耳に届く。


「そうや。先月の事故、目撃者がまだ見つかってないんよ。なんか知ってることある?」


 俺は振り向き、真っ直ぐにお婆さんの目を見て、口を開く。


「すいません、事故が起きたことすら知らなくて……。犯人、見つかるといいですね」


 俺は犯人が見つかることを祈り、アクセルを踏んだ。地下道を抜ける際に、自分も同じように人を轢くかもしれないことに対して僅かな緊張感を覚えながら。


    *    *    *


 それから数日間、例のお婆さんは毎朝同じ場所で佇むようになっていた。孫との思い出に浸っているのか、何かを祈っているのか、渡したはずの傘を差すこともなく一心不乱に何かの作業を行っている。俺はそれを横目で見ながら通勤することが日常になりつつあった。


 最初にお婆さんに会ってから1週間ほど経った朝、変化は起きた。新聞の地域欄に、犯人が自首したという記事が躍っていたのだ。良心の呵責に苛まれたのか、罪がバレることを恐れたのか。とにかく、あのお婆さんにとっては心休まる想いだろう。

 俺は事故現場に立ち寄るつもりで、いつもより早く家を出た。


 駅前のアンダーパス道は相変わらず湿度が高い。俺は助手席の窓を開け、静かに様子を伺った。例のお婆さんは、濡れた歩道に蹲るように涙を流している。

 俺は車を路肩に停め、ここに立ち寄る前に買った花を供える。この場にはそぐわないかもしれないかもしれないが、一輪の向日葵を買わずに立ち寄る気になれなかったのだ。


「犯人、見つかりましたね……」

「うん、うん、そうねぇ……。あの男、なんて言ってたと思う? 『あの日から誰かに見られてる気がした』やって。やっぱり、お天道様は見てるんやろうねぇ……」


 お婆さんは安心したのか、さめざめと涙を流していた。俺は相手が語る話をゆっくりと聞きながら、手に持った向日葵をガードレールに置こうと移動する、その瞬間だった。


 視線を感じる。それはお婆さんからのものではない。悪寒を呼び起こすような、得体の知れないものだ。

 俺は無心でガードレールに近づく。本能が、その正体を探ってはいけないと言っている。周囲を見渡してはいけない。花を供え、真っ直ぐ車へ戻るだけでいいのだ。見てはいけない。見てしまっては、いけないのに。


 ひび割れたタイル画の隙間、本来ならコンクリート壁があるはずの場所。存在しないはずの空間から、刺すような視線が伸びていた。

 目が合ってしまった、めがあってしまった。底のない悪意のような、怒りと喜びが混ざったような、ゴミを見るような。なんで俺が? 俺は悼んだだけで、理由がないのに。それでも視線は無垢で奇怪で恐怖で死で怨で眼で息で声で殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し。


 理解した。犯人は、これを感じてしまったのか。


    *    *    *


 その後、例のタイル画は撤去されたらしい。アンダーパス道も老朽化を理由に取り壊され、新たな道路が建設中だ。

 あの日以降、あのお婆さんの消息は知らない。知るつもりもない。二度と会いたくない、そう思ってしまった。

 それでも、雨が降るたびに思い出すのだ。あの地下道の湿った空気を。黴臭い匂いを。割れたタイルの隙間に潜んだ、形容することのできない悪意の渦を。


 その視線を、今も感じながら。

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だれかがみている @fox_0829

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