4/1(木) 曇り
非常に不快な朝だった。目が覚めて横を見ると妻の姿がない。もう起きて下にいるのかと思って、下りてみるもそこに彼女がいない。それなら腹痛やら何やらでトイレに籠っているのかとも思い探してみるも、いない。家中どこを探しても妻がいないのだ。
少し不審に思いながらも、朝食をとることにした。パンを焼いて、コーヒーを淹れる。読みかけの小説と一緒に朝食を机に並べ、椅子に座る。そこには見覚えのない紙が置いてあった。
「家を出ます。探さないでください。 花子」
彼女の書置きを見ればそれは明らかであるが、彼女は家出をしたようだ。後悔が泉のように湧き出てくる。彼女との最後の言葉は何だっただろうか。最後だと知っていたなら妻の姿を忘れないように目に焼き付け、妻の声が色褪せることのないように大気の震動の一つまでも逃さなかっただろう。僕は茫然として頭を抱えた。
どれだけそうしていただろうか。ふいに鍵が回る音がした。
「ただいまぁ」
間の抜けた声で妻は言う。その顔はどこか悪戯っぽくにやけている。
「どう?驚いた?」
呆れて言葉も出ないとはこのことである。最早怒りすら湧いてこない。
「今日はエイプリルフールっていうらしいじゃない。私の渾身の嘘だったんだけど…」
「はぁ」
一つ、大きなため息をついた。毎年このレベルの嘘が飛んできては早死にしてしまうに違いない。
「そりゃ、驚いたよ。ただ、こういう冗談はもうよしてくれ。心臓がもたない。」
「ごめんなさいね。ちょっと散歩に出かけててね。帰りがけに窓から様子を見てたら、酷く深刻な雰囲気が漂ってたわ。ちょっと面白かったわ。」
これだけ散々やっておいて、楽しかったのが「ちょっと」だけだというのだから割に合わない。いっそのこと今までで一番楽しかったと言ってくれた方がいくらか救われるような気がした。
非常に不快な朝だった。
〇
不快な朝に引き続き、不快な天気である。
曇りは好きじゃない。晴れのように清々しいまでに燦燦と輝く太陽に活動的になれるわけでもなく、雨の日のように雨音が気持ちよかったり、人の少ない街を傘をさして散歩できるでもない。大層中途半端な天気だ。
時刻は午後4時。春が一歩退いたような寒さの中、買い物に向かう。
買い物には毎日徒歩で行くことにしている。近所のスーパーは車を出すような距離ではない。自転車で行っても一週間分の食糧はカゴに入らず、結局数日分を買って帰るのが関の山だ。それならば、いっそのこと毎日の運動として買い物に行った方が健康的である、ということだ。
栗山公園は相変わらず、残り少ない春休みを満喫する子どもたちで溢れかえっている。昨日あたりに満開になった桜に彼らは目もくれない。こういうのは年を取ってからででないと分からないものである。しかし、曇天のためか今日の桜は元気がないように見える。
息子に教えてもらったリストの食材に加え、生姜をカゴに入れレジに並ぶ。レジまで来たところでエコバックを忘れたことに気づく。今日つくづくついていない。「レジ袋いります」と書かれたプラスチック製のカードを一緒にカゴに入れる。3円くらいどうってことないが、これは経済的な問題じゃなく精神的な問題である。思い足取りで家へと帰った。
家に戻り、食材たちをしまったら早速夕食づくりに取り掛かる。今日は味噌汁の他に、豚の生姜焼きとキャベツのサラダを作る。
便利な時代になったもので、簡単なレシピを紹介してくれるアプりがある。妻が補助監督を辞める際に教えてくれたものだ。他にも動画配信アプリなどでも個性的な人たちが、初心者にも簡単にできるレシピを紹介しているらしいが、こちらはまだ見ていない。
まずは味噌汁を作る。水に本だしを入れ沸騰するのを待つ間に、冷蔵庫に入っていた油揚げを切っていく。これが味噌汁の水分を吸って、食べる時はめっぽう美味い。ただ、一枚丸ごと使うには量が多すぎるため半分はジップロックに入れて冷凍保存する。沸騰したら豆腐を切り入れ、油揚げも一緒に入れる。最後に味噌を溶かせば完成だ。
次は豚の生姜焼きだ。豚バラ肉を適当な長さに切り分けていく。今回は2等分にした。生姜は半分はすりおろし、半分は千切りにする。玉ねぎは8等分にしておくと食べ応えがあっていいだろう。味付けは醤油・酒・みりんを1:1:1の割合で混ぜ、そこに大匙1ほど砂糖を入れる。先に作っておけば調理中に焦ることもないからおすすめだ。「味付けに迷ったらこうしとけば、日本人好みの醤油ベースのソースになる」というのは息子の言葉だ。
フライパンに500円玉ほどの大きさの油を敷き、肉を入れる。色が変わってきたら玉ねぎをを入れ、更に炒める。玉ねぎの水分が抜けだしたら準備しておいたソースとすりおろした生姜を加えて、味が馴染むまで火にかけていく。頃合いを見て火を止め、更に盛り付けたら千切りした生姜を散らして完成だ。
キャベツのサラダは火も使わず簡単にできる。一口大にキャベツをぶつ切りにし、ビニール袋に入れていく。そこに醤油・ごま油・ニンニクチューブ・塩・鶏ガラスープの素・レモンを適量入れていく。この辺は味を見ながら調節するが、塩は入れ過ぎに注意だ。ちなみにレモンは入れた分だけさっぱり食べられる。すべての材料を入れたら、袋の口を締めてひたすらに混ぜる。頃合いを見て器に出せば、おかずにもおつまみにもなる、キャベツのサラダの完成である。
食卓に皿を並べ終わったら妻を呼んで席に着く。
「いただきます。」
「今日は豚の生姜焼きなのね。美味しそうじゃない。豚バラにしたの?」
「いつもは生姜焼き用って書いてあるやつだよね。あれ食いちぎるの大変で疲れちゃうから嫌だったんだよ。」
自分の嫌なものは機転を利かせて変えることができる、作り手の特権だ。ご飯を作るようになってから知った。
「確かにこっちの方が食べやすいわね。こっちのサラダもサッパリしていて美味しい。」
これも作るようになって初めて知ったことだが、美味しいと言われることは何にも変えられぬ程に嬉しいものだ。
「よかったよ。少しずつだけど勝手が分かってきた気がするよ。」
「成長度曲線的にはまだまだ伸びるはずよ。楽しみね。」
不快な始まり方をした一日だが、終わり方は最悪とは程遠い。終わりよければ全てよし、だ。
今日は良く眠れる気がする。
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