3/27(土) 晴れ

 退職して迎える最初の朝だ。時刻は7時50分、目覚ましの鳴る10分前だ。横を見ると妻の布団はすでに空っぽだ。彼女の温もりもすっかり抜けているところからも、大分早くに起きているのだろう。

 スリッパを足に引っ掛け階段を下りる。リビングに入るとテレビがついていた。平日にやった朝ドラの総集編のようだ。向かいのソファーには妻が座っているがどうやら眠っているようだ。ソファーで二度寝するくらいなら布団にくるまっていればいいものを。三月も終わりに差し掛かっているというのに春はまだ遠くから冬を眺めているだけで、朝夕は冷える。眠る妻を起こさぬようにそっと毛布を掛けてやる。

 今日から三度の飯を作る役割は僕に引き継がれた。しかしながらろくすっぽ料理もしてこなかった人生だ、いかんせん勝手が分からない。キッチンを見渡す。電子レンジのすぐ横にパンが置いてあった。これだ。とりあえずパンを焼いておけば間違いないだろう。

 オーブンレンジを開け、受け皿にパンを乗せる。パンは何分で焼けるのだろうか?オーブンは何度がいいのだろうか?分からないことだらけであったが、とりあえず200度で10分、様子を見ながら焼いていくことにする。

 パンが焼けるのを待つ間、冷蔵庫を物色する。中には昨日の残り物や調味料が入っているが、比較的スカスカであった。とりあえず丁度よく二つ残っていた卵とベーコンを取り出す。これらを焼いてパンに乗せれば喫茶店でよく見るベーコンエッグになるのだろう。パンが焼けるまで8分半、目玉焼きくらい作れるか。

 コンロの下の棚から手ごろな大きさのフライパンを引き出す。火にかけ、フライパンの上に卵を割り入れる。このまま固まるまで放っておけば目玉焼きだ。調子に乗ってきた。案外料理なんて簡単なのかもしれない。勢いそのままに別のフライパンを引き出し、ベーコンを焼いていく。

 流石にうるさかったのだろうか、妻が目を覚ました。

 「おはよう。朝ご飯作ってくれてるの?別によかったのに。」

 我が家では朝ご飯は大して重要に取られていない。元々僕が朝食欲が湧かないのだ。新婚の頃は彼女が朝ご飯を用意してくれたこともあったが、申し訳なくなって作らなくていいよと言って以来、朝食はセルフサービスなのだ。

 「まあまあ、こんな日があってもいいじゃない。そこに座って待っててよ。もうすぐできるから。」

 丁度パンが焼けた音がした。パチパチと音を鳴らすフライパンの火を止め、オーブンを開けようと振り返ると妻がすでに開けていた。

 「しっかり焦げてるわね。これ何度で何分やったの?」

 「200度で10分。やり過ぎだった?」

 「そうね。170度10分くらいが丁度良かったんじゃない?まあ、そんなことしなくても1番のトーストで枚数選択すればできたんだけどね。」

 彼女は笑って言う。

 「そうなんだ、知らなかった。」

 妻はパンをお皿に出しながら「そっちの目玉焼きとかはどんな具合なの?」と聞く。

 「こっちは大丈夫だよ。」

 ヘラで目玉焼きをとってパンの上に乗せ、更にその上からベーコンを乗せる。皿を持ってダイニングテーブルへと向かう私に妻は言う。

 「目玉焼き作るとき油敷かなかったでしょ?白身がこびりついてる。何かを焼いたり炒めたりするときは基本的に油を敷かなきゃだめよ。」

 「ごめん。」

 全然簡単ではなかった。やはり初心者は然るべき有識者の元料理するべきであった。

 「まあ、いいよ。最初はこんなものでしょう。こんな日があってもいいじゃない。」

 彼女は笑ってそういった。テレビはすでに朝ドラから、土日特有の日中バラエティに変わっている。初めての料理は不味くはなかった。まあ、及第点だろう。

 洗い物をしていて気付いたが、調子に乗ってフライパンを二つも出すんじゃなかった。急いでもいないのなら一つで十分だ。

 「後片付けまでが料理だからね。」

 妻は言う。


                  〇


 昼食は夜に備えて昨日の残り物を消費した。食後にはコーヒーを淹れた。働いていた頃、家事に育児に多忙を極める妻にコーヒーくらい自分で淹れろと言われててからもう二十年以上が経った。始めは苦味を突き抜けた酸味に悶絶したものだが、今では流石に美味しいのが淹れられるようになった。

 「コーヒーだけは私より上手ね。」

 「おかげさまでね。」


                  〇


 午後4時、買い物へ出かけることに。妻と家を出て農工大沿いを東に歩く。週末に父親と遊ぶ子どもたちが眩しい栗山公園を通って駅前のスーパーへ向かう。思えば忙しさにかまけて週末に子どもと遊んでやることもそんなにできなかった気がする。それが余計に彼らを眩しくしているような気もした。時は緩やかに前進している。決して戻ることはない。

 スーパーに着くと、妻は「とりあえずは自分の思う買わなきゃいけない食材たちをカゴにいれていって」とだけ言って二回の本屋へと言ってしまった。しかし、買わなければいけないものと言われても、何を買わなければいけないのか分からない。なにせ食のレパートリーがないのだから。どれも買わなければいけないように思われるし、買わなくてもいいようにも感じられる。右往左往しながら、結局カゴを元に戻して自分も本屋へと向かった。本屋の入り口には好きな作家の最新作が平積みされている。手に取ってペラペラと頁をめくっていると、なにかに小突かれたような感触がわき腹を走る。

 「こら、買い物はどうした。」

 「それが何を買えばいいか分からなくて…どれも必要そうで、必要なさそうなんだよ」

 妻は「はぁ」とため息をつき、ともに階下へと下って行った。

 再度カゴを手に持ち、妻の教えの通り食材をカゴに入れていく。そして「これさえ買っておけば大丈夫リスト」なるものが携帯に送られてきた。送り主は関西に暮らす息子である。先ほど右往左往している間に聞いた返事が今になって帰ってきたのだ。リストは以下の通りである。

・玉ねぎ

・人参

・ジャガイモ

・キャベツ

・えのき

・豆腐

・豚肉

・鶏肉

・卵

 彼のリストにあるものは面白いくらい忠実にカゴに入っている。他にも妻がこれはあった方が良いかもというものが入れられていく。

 「これ今二郎が送ってきたリストなんだけど、全部入ってるね。」

 「そりゃ、それ教えたの私だもん。入ってるでしょ。」

 会計を済ませ、用意してきたエコバックに食材を詰めて家へ向かう。

 「持つよ?」

 「いいわよ。もう年なんだし、無理して怪我されても困るしね。それより今日は何を作ってくれるの?」

 考えていなかった。料理初心者にも易しい料理を頭の中から探す。カレーなんてどうだろうか。よく簡単だと聞く。そうだ、カレーにしよう。カレーの気分になってきた気がする。

 「そうだなぁ、カレーにしようかな。今日はカレーな気分だ。」

 「ダメに決まってるでしょ。」

 妻はバッサリと切り捨てる。

 「最初からカレーなんてダメよ。向こう数日料理しなくなるじゃない。少なくとも生活習慣に料理が組み込まれるまではそういうのは禁止。」

 「そんな、殺生な。じゃあ、何を作ればいいのか分からんよ。」

 家の鍵を開けながら妻は言う。

 「しょうがない。簡単なのを作ろう。野菜炒めと適当な肉料理でも作りましょう。」

 スーパーで買ってきた食材たちを然るべき場所へとしまっていく。玉ねぎとジャガイモは常温保存、その他の野菜は冷蔵庫内の野菜室へ。野菜以外の食材も多くは冷蔵庫にしまわれた。しっかりとどこにしまうか覚えるのは喫緊の課題である。

 食材たちをしまったら、手を石鹸でしっかりと洗う。料理は清潔な手で行う。大前提だそうだ。同じく料理の基本として「美味しくなってほしい」と思いながら作ることだ。

 まずは野菜炒めを作る。材料はキャベツ1/4、人参1本、もやし一袋。人参はよく洗い、ピーラーで皮を剥く。皮を剥いていったところから滑りやすくなっている。気を抜けば手を切ってしまいそうである。皮を剥いた人参は上下の1㎝ほどを切り捨て短冊切りにする。要は二等分した人参を更に縦に切り分け、切断面をまな板に着けた状態で2~3㎜幅に切っていく。

 次にキャベツだが、良く洗って適当な大きさに切っておく。この時、好みによって芯は切り取ったり、残しておいて良いそうだ。また、一番外側の葉は汚かったりして気になるようであれば捨ててしまっても良いそうだ。

 フライパンに500円玉くらいの油を敷いて火にかける。油が全体に行き渡ったら人参から炒めていく。ある程度炒めたら、キャベツと袋から出してさっと洗ったもやしを入れていく。もやしの根は気になるようなら取ればいいが、面倒だから今回はとらなくていいとのことだ。特にキャベツともやしは中に水分を多分に含んだいるので、それが飛ぶくらいしっかり炒めたら塩コショウで味付けして完成だ。

 次に肉料理だが、豚肉と小松菜の卵とじなるものを作った。小松菜はよく水洗いした後、芯を木って3㎝幅くらいに切っていく。豚肉も適当な大きさに切る。今回は肩のコマ切れを使っているため切る必要はないそうだ。若かったり、運動している人は豚バラを使ってもおいしいそうだ。卵は二つ使い、溶き卵にしていく。

 先ほどよろしく、フライパンに油を敷き、豚肉を炒めていく。豚肉の色が変わってきたら小松菜を入れる。小松菜がしんなりしてきたら溶き卵をいれ、味付けにめんつゆを人回しかけれな完成だ。

 最後に味噌汁を作る。妻曰く、普通の夕食は味噌汁がなくては始まらないそうだ。片手鍋に水と粉末出しを入れ沸騰させる。沸騰を待つ間に豆腐を切る。3個パックの絹ごし豆腐を手に出し、適当な大きさに切ってお湯に入れていく。湯通しすると型崩れを防げるそうだが、妻は「気にしないからいいよ」と言う。彼女のスタンスとして、楽できるところは楽していこうというものが土台にあるようだ。沸騰したら火を止め、味噌を溶いていく。味噌が溶けたら乾燥わかめをいれ、最後に人に立ちさせれば完成だ。乾燥わかめは気持ち少なめ位が丁度いい。お察しの通り、入れ過ぎのために表面がわかめで埋め尽くされている。乾燥わかめをなめていた。

 米が炊けるのを待つ間に風呂にでも入っておく。二人が風呂から出るころには丁度米が炊け、夕食だ。

 野菜炒めの味付けは塩コショウだけとシンプルなので、好きに味付けして楽しめるそうだ。今回はポン酢をかけて食べる。

 豚肉と小松菜の卵とじはめんつゆの量が少し多かったのか、味が濃い。鈍感な舌を持っている自負はあるが、それでも濃いから妻は苦笑いだ。ご飯のお供ということで勘弁してくれ。

 味噌汁はきっと誰が作っても美味しくなるのだろうが、妻は美味しいとほめてくれた。やはり、味噌汁があるだけで食欲が湧くのだから味噌汁は偉大だ。

 「ごちそうさまでした。」

 二人で声を合わせていう。二人で食器をシンクに運びながら

 「どうだった?今日のご飯は」

 「美味しかったよ。少し味は濃かったけど。私が教えただけあるわね。」

 どうやら及第点には達したようだった。「美味しかった」という言葉がこれほど嬉しいとは。上機嫌に皿を洗っていると手が滑って皿を割ってしまった。

 「調子に乗るからそうなるのよ。」

 この年になっても尚、些細なことで起こられるのは決まりが悪くて恥ずかしいものだ。道のりはまだまだ長い。

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