ビターチョコをあなたに

まるてる

ビターチョコをあなたに

 ドラッグストアで彼女と再会したのは、1月中旬のことだった。

「すみません。胃薬のコーナーは?」

 白衣を着た小柄な女性に声をかけると、女性は品出しの作業の手を止めて笑顔を向けた。

「はい、胃薬でしたらC列のコーナーに……あら」

 女性は何かに気づき、驚いたような表情で僕の顔をまじまじと見つめた。確かに、彼女の顔に見覚えがあった。しかし、その時点では、彼女が誰なのか僕は思い出せなかった。胸ポケットのネームプレートを見れど、ピンとは来ない。

「何か?」

「いえ、失礼しました。ご案内しますね」

 彼女は何かの言葉を呑み込んだまま形式ばった笑顔に戻してから、C列へ歩き出した。僕は引っかかりを感じながら彼女に案内され、胃薬コーナーで手近な商品を手に取った。レジへ向かおうとすると、まだ近くにいた彼女が僕を呼び止めた。

「お客様。差し出がましいようですが……」

「何でしょうか」僕は少し冷たく言った。

「いえ、そちらの商品は大手メーカーの商品となります。弊社のPB品ですが、含有成分が同じでお安く買える商品がございますので、よろしければ」

「ああ、じゃあ、それください」

 彼女の振る舞いが癪に障ったわけではない。思い出せそうで思い出せない状況に、僕は少しだけ苛立っていた。彼女はなおざりに答えた僕にすっかり気が引けたらしく、僕はわずかに申し訳なく思った。彼女は申し訳なさそうにしながら、該当商品を取ろうとした。ところが、棚の一番上にある商品にわずかに手が届かないようで、つま先立ちして棚に左手をついたまま懸命に右手を伸ばし、赤い顔で商品を掴もうとしている。

 そうそう客に「取ってください」と頼めるものでもないだろうな。彼女よりも身長の高い僕は呆れながらも、彼女が手を伸ばしていた商品を易々と取って見せた。

「これのこと?」

「はい、そうです。すみません。そちらの商品のほうが20円ほどお安くなります」

 安堵した表情を見せた彼女。急に記憶が蘇る。柔和な笑顔、目の前の30歳前後の女性と、在りし日の少女の顔が重なった。

「もしかして、樋田さん?」

「やっぱり浅井君だ。覚えててくれたんだね」彼女は答えた。


 樋田知代子は、かつて中学生の頃のクラスメートだった。再会以降、僕はしばしば彼女と会うようになった。定時退勤が主な僕は、勤務後近くの商業施設で時間を潰し、彼女の退勤時間前にファミレスに入り、そこで彼女を待つ。食事をしながら、僕らは他愛もない会話に興じた。仕事の話、放映中のドラマの話、最近買った家電の話。しかし、僕たち共通する中学生時代の話に関しては、口にすることはなかった。一年位前に、大学時代からの付き合いの恋人と別れていた僕には、久しぶりに再会した同級生を意識するなというほうが無理な話だった。

 その日、彼女の勤務は19時までだった。しかし、19時半を過ぎても彼女は現れない。携帯に連絡を入れても繋がらなかった。約束の時間から1時間ほど経過し、さすがに帰ろうとした頃、ようやく彼女が現れた。随分慌てた様子で店内に入って来て、早々に謝罪された。

「ごめんなさい、遅くなって」

「大丈夫だよ。どうしたの?」

「仕事は時間通りに終わったんだけど、ちょっと電話してて。本当にごめんなさい」

「そっか。座りなよ。何か食べる?」

「ううん。いらない」

「お腹空いてないの?」

「そうじゃなくて……」

 彼女は何か言いたそうに俯き、肩をすくませた。少しの沈黙の後、彼女は僕をまっすぐ見つめて切り出した。

「会うのはこれで終わりにしたいの」

「え?」

 彼女がはっきりと意思を示す姿を初めて見た気がした。食事に誘ったときも、連絡先の交換を申し出た際も、「うん」と頷けど、どこか自分の意思が不在のように見えていた。その彼女が、はっきりと意思を示していた。

「そうか……僕は君に何か悪いことをしたのかな?」

「そうじゃないの。でも、もう会うのはお終いにしたい」

「わかった」

「本当に、ごめんなさい」

 僕は理由を聞こうとは思わなかった。僕自身、女性として彼女を意識しているとはいえ、今まではっきりと態度を示したことがなかった。それどころか、僕自身の気持ちも曖昧だった。彼女に対する気持ちが、恋愛感情なのか、懐かしさから来るものなのか。それとも、かつて助けられなかった『罪悪感』から来るものなのか。それが僕自身の中でも曖昧なまま、今日を迎えていた。僕が彼女を追求する立場にないのはわかっていたのだ。何も言うことがないまま、僕らは支払いを済ませ店を出た。駅の改札前で、彼女と向き合った。

「じゃあね」

 僕が立ち去ろうとすると、今まで言葉少なだった彼女が僕の腕を引き留めた。

「ごめん、待って」

「どうしたの?」

「最後にこれ」

 彼女はコートのポケットから、手のひらサイズの小箱を取り出した。高級感溢れる黒い小箱の上には、ワインレッドのリボンが飾り付けられており、店名らしいロゴが金色で記されている。

「もらって。チョコレートだから」

「チョコレート?」

「今日、バレンタインでしょ。最後にお礼として受け取ってほしいの」

「お礼?何の?」

「15年前のこと、覚えてる?あの日のこと」


 中学生時代の知代子は今よりも小柄で、小動物のような少女だった。季節問わず、制服もジャージもサイズの合っていないボロボロの長袖を着用していた。クラスメートの気強い女子たちからは「大きめの服を着てかわいこぶっている」と蔑まれていた。それに扇動された素行の悪い男子生徒からは、通りざまに卑猥な言葉を投げかけられたり、持ち物を隠されたりしていた。理不尽な目に遭いながらも、彼女は常に淡々とした態度で臨み、誰かと争う姿勢を取らなかった。今思えば、闘わないことこそが、彼女の唯一にして最大の反抗だったのかもしれない。

 その頃の僕は、スクールカーストのやや下層に属していながらも、弱小部員として陸上部に所属し、クラスでは目立たないように振る舞うことで、いじめのターゲットになるのを回避していた人間の一人だった。僕は彼女が酷い仕打ちを受ける場面を何度も見ていながら、彼女を助けることもなければ、特別に優しくするようなことをしなかった。他のクラスメートと同様に、必要があれば最低限のコンタクトは取れど、必要以上の会話をすることはしなかった。彼女の受けている仕打ちを気の毒に思いながらも、僕は自分が標的にされることを恐れて、助け舟を出すことすら出来なかったのだ。ただの一度だけ、彼女と一緒に下校したことがあった。それも、僕が積極的に誘ったわけではなく、成り行きに近い形で誘わざる得なかったのだ。その日はバレンタインだった。

 部活を終え、仲間と部室の鍵を職員室に持って行った際、僕だけ顧問に呼び止められた。最近の練習態度についての小言が始まると、一緒にいた同級生は「先帰るよ」と告げて、そそくさとその場を去った。その後10分程度で解放された僕は、先に帰った仲間を恨めしく思った。更に、練習に手を抜いているのを顧問に見抜かれたことを決まり悪く思いながら、玄関まで来た。とても気分がいいとは言えない状況だった。そこで彼女と鉢合わせた。

 真冬であるのにもかかわらず、彼女は半袖の体操服姿だった。長袖のジャージを両手で握ったまま、俯き加減に立っていた。セミロングの髪の毛で表情は隠れていたが、肩を小刻みに震わせて、嗚咽を堪えているようだった。一目見た瞬間、僕は見てはいけないものを見てしまい、思わず「しまったな」と思った。それが正直な感想だった。親密さに関係なく、女子の涙を見るのは気が重かった。

 しかし、彼女の表情を見るよりも先に、露出された細腕に目が釘付けになった。あちこちに痛々しい青あざが浮かび上がっている。生々しい傷跡を見ることで、さすがに僕の粗末な同情心も突き動かされた。意を決して僕は彼女に声をかけた。

「大丈夫?」

「え…?」

 僕の気配に全く気づいていなかった彼女は、驚いた表情でこちらを見つめた。泣きはらしたのか、目下はぷっくりと腫れている。目元に残った涙がキラキラと光っていて、僕は少し綺麗だなと思った。頬に残ったままの涙の軌跡を腕で拭き取り、彼女は応えた。

「うん、大丈夫」

「ジャージ着ないの?」

「うん……」僕の質問に彼女はたじろいだように、視線をそらした。

「外出るなら早く着たら。雨も降ってて寒いし」

 彼女の腕の傷を、一刻も早く僕の視界から隠してほしかった。

「うん、そうだね」

「もうすぐ先生も来るかもしれない。さっき職員室でそんな話が聞こえたよ」

 それでもジャージを握ったまま着ようとしない彼女に、しつこく僕は食い下がった。

「着ないの?」

 彼女は少しの間沈黙した。そして、握ったままだった上着をそっと広げた。

「これでも、着たほうがマシなのかな?」

 彼女は掠れた声で僕に訊ね、寂しげな笑顔を見せた。ジャージは肩から袖にかけてハサミで何箇所も切り取られ、胸部から腹部の箇所は派手に引き裂かれていた。これを着たところで、ズタボロなった衣服の負の相乗効果で、腕の痣は強調されることだろう。

 あまりに酷い様に、僕は思わず目をつぶって額に手を置いた。見たくないものを見てしまった我が身を呪った。しかし同時に、見過ごせる範囲を超えていることも自覚していた。幸い、ほとんどの生徒が下校した後だ。僕の中の身勝手な正義感が口を開かせた。

「途中まで一緒に帰ろうか。俺、部活のウインドブレーカーがあるからそれ着るよ。これでよかったら着なよ」

「そんなの悪いよ」

 脊髄反射的に返してきた彼女を、余計に哀れんだ。要領の悪さに呆れながらも、僕は彼女にジャージを押し付けた。渡されたジャージをどうしていいのかわからないまま立ち尽くす彼女をよそに、僕は部活用のバッグを開けた。スパイクシューズの下に丸めて入れていた、ポリエステル地の上着を取り出して袖を通す。

「生活指導の先生来るよ。早く着て」

「あ……うん」

 先生に見つかることが彼女にとって都合が悪かったのだろうか。彼女は急いで僕のジャージを頭から被り、腕を通した。やはり男女の体格差はあるようで、陸上部では比較的身長の低かった僕のジャージですら、彼女には大きめだった。僕の名字の入ったジャージを着ている彼女の姿に、今まで感じたことのないときめきを僅かに抱きながら、僕らは学校を後にした。

 小雨の降る中、お互いに少しだけ距離を開けて帰宅路を歩いた。彼女は気を遣って、僕と会話しようといろいろ試みていたが、僕は「この瞬間を誰かに見られでもしたら」とばかり考えていて、終始上の空だった。彼女の自宅の公営団地を通りかかったとき、いつの間にか小雨は止み、僕らはそれぞれ傘を閉じた。彼女は慌ててその場でジャージを脱ぎ、きれいに畳んで僕に手渡した。おずおずと訊ねた。

「洗って返したほうがいいかな」

「いいよ。どうせ今日着たやつだから家帰って洗うし」

「ごめんね。ありがとう」

 そう言ってからお別れかと思いきや、彼女は急に思い出したように、金具が取れている学生かばんを漁り、ギンガムチェックの紙袋を取り出した。僕の前に差し出す。

「今日バレンタインだから。これよかったら」

「え、これ、俺に?」

 急な申し出に戸惑いながらも、僕は浮足立った気持ちを隠せなかった。しかし、彼女は明るく笑いながら、頭を振った。

「ごめんね、違うの。本当は西田君に渡そうと思ってたの。でも西田君いらないって。よかったらもらって」

 そう言いながら、彼女は再び寂しげな笑顔を浮かべた。僕は苦々しく思いながら、黙って西田のお下がりのチョコレートを受け取った。小袋には、駄菓子のチョコレートがたっぷりと詰め込まれていた。どれも単価が10円~20円の安物で、質より量で勝負したのだろう。金色のコインチョコを一枚取り出し、サッと口に放り込んだ。彼女を気の毒に思ったので、もらったばかりのコインチョコを一つ手渡した。彼女は自分で贈ったチョコレートであるのにも関わらず、パアッと表情を明るくさせて「くれるの?ありがとう」と屈託なく笑った。僕と同じようにチョコを口にした。甘さが口の中に広がるにつれて、僕の心も解れていった。もう少しだけ気の毒な少女に優しくしようと思えた。

「西田も受け取ればよかったのにな」

「西田君は人気者だからね」彼女は笑顔を崩さないまま、ポツリと呟いた。表情と声のトーンの暗さがアンバランスに感じて、僕は事情を察した。

 西田がチョコレートを受け取らなかった理由について、僕にはおおよその見当がついていた。スポーツ万能で爽やかな風貌の男だが、西田は彼女を快く思っていない連中と非常に親しかったのだ。さしずめ、連中に何か吹き込まれていて、彼女の好意を拒否したに違いなかった。純粋な気持ちで贈ろうとしたチョコレートすら受け取ってもらえない少女が救い難く、どこまでも可哀そうに思えてきた。

 気まずさから、僕は話題を変えようとチョコレートを見つめた。安物のチョコレートたちを見つめながら、僕は自宅の戸棚に高級チョコレートがあることを思い出した。父親が会社でもらってきたものだ。「受付の子からの義理だよ。くれるって言ったんだから仕方ないだろ」「こういうのはお返しが後の面倒なのよ。大体三人で一つのチョコレートなのに、三人分のお返しが必要なのをあなたはわかってないでしょ」と昨晩両親が小競り合いしていたのをありありと思い出した。

 もらった駄菓子を一つ手に取って見せて、僕は彼女に提案した。

「樋田さんは高級なチョコレートを食べたことがある?」

「高級なチョコレート?そんなのないよ」

「こういうチョコレートは……カカオ分が少ないから値段が安く抑えられているんだ。高級なやつはさ、カカオがいっぱい含まれていて香りが良くて、なめらかで旨いんだ。今俺んちにあるから、明日1個だけ持ってくるよ。ここに、今日と同じ時間に来て」

 僕はテレビのチョコレート特集で聞き齧った知識を、少し背伸びして雄弁に語った。明日一度だけ、しかもこの場所で今の時間帯なら、人通りは少ない。彼女と一緒にいるところを誰かに目撃されることもないだろうと踏んだ。この期に及んでも、僕は自分の保身のことばかり考えていた。それでも、急な提案に彼女は笑顔で頷いた。ようやく本当の笑顔を見せてくれた気がした。彼女が団地の階段を登るのを見届けてから、僕は帰宅した。

 しかし翌日、彼女は約束の時間に訪れることはなかった。それどころか、彼女は学校に来なくなったのだ。バレンタインの翌日、彼女の自宅に警察と児童相談所が立ち入り、彼女は保護された。痛々しい腕の内出血は、家族から暴力を振るわれていた痕跡だった。そして、いつも長袖の衣類を着用することで、自らが受けている虐待を隠そうとしていたらしい。新品のジャージを買ってもらえず、お兄さんのお下がりだけを当てがわれていた為に、いつもサイズが大きすぎるものを着用していたそうだ。その後、親戚の家に引き取られることが決まり、ひっそりと転校していったという。それらを知ったのは、中学卒業後のことだった。成人式で噂好きのクラスメートとの再会した際に、出所は不明だがそこそこ確かな噂話として聞いたのだった。


 今まで封印していた中学時代の話を持ち出されて、僕は混乱を隠せなかった。

「もちろん覚えているよ。でも、お礼されることなんて何も……」

「あの頃ね、ただ生きているだけで辛かった。誰も味方がいないと思っていたの。そんなときに、あなたが」

「やめてくれ、俺は君になにもしてあげてないんだ!」

 僕は彼女の言葉を遮って、声を荒げた。彼女はビクッと固まった。僕はしまったと思い、慌てて口に手を当てた。虐待された経験を持つ彼女に、感情的なところを見せるべきではなかった。

「ご、ごめんなさい……」

 弱い部分を刺激してしまったのが、彼女が怯えたように震えた。僕と視線を合わせることすら恐怖を感じているようだった。

「君が謝ることじゃないだ。感情的になってごめん」

 僕は感情を落ち着かせようと、頭をかいた。彼女は今にも泣きそうな顔で戸惑った表情を見せながら、僕に言った。

「気に触ったのならごめんなさい。でも、私は本当にあなたに救われたの」

 僕は何も答えなかった。答えられなかった。

「15年前のあの日、ただジャージを貸してくれて、ただ一緒に帰ってくれて、ただチョコレートを受け取って、ただ一緒に食べてくれた。それだけがあのときの私を救ってくれた」

 彼女は静かに涙を零しながら、僕を見つめていた。彼女の声、表情、視線の全てが僕に刺さるように感じられた。

「次の日、約束守れなくてごめんね。高級なチョコ、私も一緒に食べたかった。でも、どうしても行けなかった。本当に申し訳なく思っているの。だからせめて、私にチョコレートを贈らせてほしい」

 彼女は小箱を僕に差し出した。僕は一瞬怯んだが、渋々彼女から小箱を受け取る。ただ受け取るだけではなく、彼女の気持ちに少しでも沿おうと決めた。あの頃、中途半端にしか彼女を救えなかった後味の悪さが、僕を衝き動かしていた。

「ありがとう……いただくよ」

 長方形のシックな小箱のリボンを解いて箱を開ける。パラフィン紙の下に、真珠ほどの大きさのチョコレートの玉が詰まっていた。手に取ると表面はつるんと艶やかで、小粒のオニキスのように光沢を纏っていた。彼女がじっと見つめているので、僕は1粒口に入れた。口の中でチョコレートはなめらかに溶けて、想定していた以上の強烈な苦みを広げた。

 「にっが⁉」

 僕の表情は歪み、咄嗟に正直な感想を口にしてしまった。僕のリアクションが想定外だったのか、彼女はきょとんとした表情で驚いた。

 「え……それ苦いの?どうして?高級なチョコレートなのに……?」

 僕は手に持っていた箱を、下からのぞくようにして見た。商品ラベルに記載された「カカオ99%」の文字が飛び込んでくる。先程までの緊張感を忘れ、僕は思わず噴き出した。チョコレートが苦い理由も僕が笑った理由もわからない彼女は、すっかり戸惑っているようだった。

 「樋田さん、このチョコレートは食べたことあった?」

 「ううん。デパートでカカオ分の多いチョコレートを教えてもらって、それを選んだの。カカオ分が多いほうが高級で美味しいと思ってたから」彼女からは悲痛な様子は消え去っていたが、僕の予想外のリアクションに小さくなっていた。

 僕はさらに笑った。彼女はこのチョコレートの味を知らなったのだ。カカオ分が多ければ多いほどチョコレートは美味しいものだと、僕が中学時代に与えた誤った知識を信じたまま今日まで生きてきていた。カカオ分が多ければ多いほど、チョコレートは苦いものになってしまう真実を知らないままに。

 僕の口の中でカカオ99%のチョコレートは、芳しい香りを広げながらサラリと溶け、奥深いキリリとした苦みを残した。その苦みも、慣れてしまえば悪いものではなかった。僕はその苦みを楽しめるようになっていた。コインチョコで安っぽい同情心を向ける昔の僕はそこにはいなかった。

 改札付近の天井につり下がっている時計を見る。20時20分。百貨店の閉店まで、まだ時間がある。僕は全ての迷いを捨てて、知代子の左手を取った。

 「樋田さん。チョコレートを買いに行こう。とびきり甘くて美味しいやつを」

 「え……どうして?それに私は」

 知代子が何か言いかけたようとしたとき、僕は彼女の手に指を絡ませた。僕の掌が彼女の体温を受け取ると同時に、薬指のひんやりとした一部分に触れる。彼女の無機質なプラチナのリングが、僕に何か主張しているようだった。が、僕はそれを無視した。厳密に言えば、初めて彼女に会ったとき——彼女のネームプレートの苗字にピンと来なかったころとき——から、僕は彼女のある現実からは目を背け続けていた。戸惑う彼女に僕は笑って見せた。

 「行こう、知代子さん」

 僕は迷わなかった。彼女の手をコートのポケットに引き入れて、百貨店の入り口へ向けて歩き出す。僕の反応に戸惑いを見せながらも、やがて彼女は僕にぴったりと身を寄せて共に歩み始めた。


                                     了

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