19 ◇

 早朝。まだ朝靄がかすむような時間だ。


 今回の映画祭は我が社ではあり得ないほどの大型イベントだが、幸いにと言うべきか途中参加のものである。

 企画はもちろんのこと、流れや内容もほとんど決まっており、広告すら引き継いだものだった。

 一から企画であれば、胃に穴があくどころの話ではなかったかもしれない。


 キャンプ場の広い敷地を走り回りながら設営作業を続ける。

 本番は明日。今日は設営のみだが、それでも気を抜くタイミングなどありはしない。


 日雇いの設営スタッフに指示を飛ばしながら、遅れてやってくる社員に適宜連絡を入れる。アシスタントのコウチくんも、おそらくどこかで走り回っている。

 搬入作業は問題ないだろう。設営もスムーズに進んでいる。


 しかしどうにも嫌な予感が拭えない。


 何度も確認しているのだし、不手際はないはずだ。当日スタッフの連絡も、コウチくんは問題がないと言っていた。


「熊倉さん、いま大丈夫です? うちの部長なんですけど、ご挨拶だけ」

「あ、はい。ディレクターの熊倉と申します」


 仕事を回してくれた担当者と、その部長。


 話は聞いています、とにこやかに笑うその人はいかにもスマートなキャリアウーマンで、いつだってくたびれている私とは大違いだった。年齢は私より少し上だろうか。

 入社時から使っている名刺入れから、名刺を一枚取り出す。


「真面目な人だって聞いていたので、お会いするの楽しみにしてたんですよ」

「ま、じめ……ですかね。それしか取り柄がないもので」


 名前を確認して、頭に叩き込む。広畑さんね、広畑さん。

 この仕事が終われば、お礼の挨拶と称して営業に向かわねば。ここまで大きな仕事でなくとも、ひとつくらいは案件を回してもらいたい。


 現在の状況と明日以降の流れを確認しつつ、順調に進む設営風景を眺める。

 この広いキャンプ場は標高が高い。東京に比べると涼しいが、酒が入ると悪酔いする参加者も出てくるだろう。救護室が大賑わいとならないことを祈るばかりだ。


「受付、誘導、警備にもうちの社からスタッフを手配していますので、当日スタッフの管理に関しましては滞りなく回せるかと思います」


 いわゆるまとめ役だ。アシスタントのコウチくんだけでなく、他にもふたり、社員を召喚している。設営を終えたあたりで合流する手筈となっている。

 うちの社はプロデューサーとディレクターも兼任だし、仕事の大半は外注だ。もはや仲介業と言って良い。当日の立ち会いも大体がひとりだし、私を含めて四人も社員が立ち会うなど珍しいことと言える。


 イベント運営という仕事に夢を持ったディレクターであれば、今回のような大型の仕事もワクワクしたり、気合が入ったりするのだろう。けれど、私はこの業界への夢などとうに捨てた。投げて放り捨てた。

 どうか不備なく、大きなトラブルも起きず、無事に終わってくれと願うばかり。


『終わらないイベントはない』


 平林誠の座右の銘だ。

 新人アシスタントとして彼の下についていた時に幾度となく言われてきた。

 終わりの見えない繁忙期。言った言わないで起きた外注先との諍い。こちらを下に見るクライアントとのフィーの交渉。それは発破をかける言葉であり、そして慰めだった。


 覚えている。


 ゲストとしてキャスティングした若手俳優がイベントの直前になって逮捕されたことがあった。未成年の女子高生に手を出し、挙句暴力沙汰。

 広告宣伝のために運用を任されていたSNSは大荒れで、私は泣きながら鎮火をはかった。まだ、入社して一年も経っていないときのことだ。

 当時売り出し中であった若手俳優は、その分だけ世間からの反発も大きかった。彼と同じくらいのネームバリューを持つ代打を探そうにもすでに心象は悪く、コネもキャスティングの経験も浅い私には変わりの著名人を見つけるなど至難であった。


『どんなに苦しくても、終わらないイベントはないから』


 たとえ代わりのゲストが見つからなくても。たとえそれでクライアントからクレームが入っても。たとえ損害を出しても。


 終わらないイベントはない。


 平林さんは嫌いでも、その言葉は好きだった。

 私の仕事に対するスタンスには高尚さなど片鱗もない。夢と憧れを持ってこの業界に入ってくる新人には信じられないようなやる気のなさだ。

 『ドキドキとワクワクを創るシゴト』。我が社の企業ホームページに掲げられた文句はいかにもエンターテイメント業らしい。実際、イベントというものは楽しむものであるし、それを作り、届ける仕事というのは夢のあるものなのだろう。私だって入社当初はそう思っていた。


 でも、苦しかった。

 体力ばかり奪われ、足りない体力の代わりに気力で補う。この仕事に夢を持つ人々は言う。


『どんなに辛くても続けられるのはこの仕事が好きだから』


 エンターテイメント業は夢を喰いものにする仕事だ。

 イベント制作だけではない。映画制作も、テレビ番組制作も、TVCM制作も、エンタメに携わる下っ端たちは皆、夢を搾取されている。

 長く不規則な勤務時間、肉体労働、安月給。業界は言う。


『この業界は、それが当たり前。それでもここには夢がある』


 嫌なら辞めれば良い。エンタメから足を洗って、ホワイトな企業に勤めれば良い。エンターテイメントに身を置くということは、こういうことなのだ、と。

 わかっている。わかっていた。私がエンターテイメント業に向いていないことくらい、とっくのとうにわかりきっていたことだ。六年前から、私はずっとわかって、それを承知でこの世界にいる。


 けれど、私がこの会社にしがみついているのは、この仕事が好きだからでも、夢を見続けているからでもない。夢など、憧れなど、とうにやぶれた。

 私がいまだここにいるのは、ただただ、勇気がないから。辞める勇気がないから。今まで積み上げたキャリアを崩す勇気がないから。新しい世界へ踏み出す勇気がないから。


 そんな後ろ向きな私を励ます言葉なのだ。


 終わらないイベントはない。十何件と案件が重なっても、トラブル続きでも、苦しくても、辛くても、イベントはいつか終わるもの。

 終わらないイベントはない。だから耐えろ。終わらないイベントはない。だから頑張れ。


 だから、頑張れ。



「ここの芝生サイトが屋台エリアです。区画は……あ、すでに終わってますね」


 整えられた芝生に埋もれるようにして、ピンクのロープが張られていた。各屋台ごとに区画分けをしているが、並んだ客の整理はそれぞれの店舗にお願いしている。このイベントは飲食がメインのものではないとはいえ、これだけギッシリと屋台を敷き詰めてしまったら、混雑による混乱も起こりうる。


 キャリアウーマン然とした広畑さんの隣を歩きつつ、説明しつつ、設営の進捗を確認しつつ……


「あぁ、出店リストも頂いていましたね」

「宜しければどうぞ。メールでお送りしたものと同じものですが」


 バインダーから取り出した出店リストを手渡す。

 出店リストに連なる、店舗名とメニュー名。担当者と連絡先。区画図と相関させ、見やすいように色分けしてある。自作テンプレートを用いた、至って普通の代わり映えしないリストである。


こだわりというわけではないが、ほとんどの店舗が地元の店である。もちろん取っつき易いよう、定番の屋台も呼んでいる。

 この映画祭に訪れる客の多くは県外の人間だ。東京からバスで来る人もいれば、自家用車で来る人もいる。そのほとんどが、わざわざ遠くから足を運ぶのだ。

 地元のものを食べるという行為は、その土地に来たことを強く実感させる。『イベントに参加する』。それは非日常の渦中に飛び込むと言うこと。馴染みのない土地に来たことを実感する瞬間は、いつだって非日常の浮遊感を連れてくる。


 なればと思って、片っ端から電話をかけ、アポイントを取った。


「熊倉さん、仕事できるって言われるでしょう?」

「はは、そうだったら嬉しいんですけど」


 ピンクの区画ロープを踏みつけて、広畑さんが歩みを止める。私の目線よりも幾分か高い位置から、まるで値踏みするように見下ろされた。

 できる女らしくパリッとしたパンツスーツだが、現場に出ることを考慮してだろう、足元はスニーカーだ。


 自分の姿は見比べたくない。なぜか、ひどく恥ずかしいような、惨めなような、居た堪れない感情がジワジワと湧き上がってくる。


「熊倉さん。もし、もしですよ。もし、熊倉さんさえ良ければ……」

「くーまーくーらーさーん! おつか、れ、さ……」


「ヒガさん、お疲れ様です」


 広畑さんの言葉を遮りながら芝生をバタバタと駆けてきたヒガさんが、やってしまった、というような顔を隠さないものだから思わず笑みが漏れた。


「広畑さん、うちの社のヒガです。当日スタッフとして明日以降の三日間も現場に常駐しますので、私がつかまらなければヒガにお申し付けください」

「お話中たいへん失礼いたしました。ディレクターの比嘉と申します」


 ふたりの名刺交換を眺めていたら、ほんのりと湿ったような風が肌を撫でた。ありがたいことに三日とも晴れ予報ではあったが、いかんせん山の天気は崩れやすい。時期も時期であるし、ひと雨きてもおかしくはない。

 空を見たって、天気の予測はできない。船乗りじゃあるまいし。若菜だったら雲の様子で天気を当てられたりできるだろうか。できそうだな。


 先ほどの広畑さんは、私になんの提案をしようとしたのだろう。ヘッドハンティングだったりして。まさかね。まさか、まさか。

 別案件の依頼だったらいいな。できればそこまで大型企画じゃなくて、期限が差し迫っていなくて、フィーが高額なやつ。


 遠いのか、近いのか、空に浮かぶどんよりとしたグレーの雲がこちらに近づいてこないことを、心の中でこっそりと祈った。



 運営本部へと戻っていった広畑さんを見送ったのち、人材配置の確認をしながらヒガさんと昼食を摂ることになった。現場から最寄りの飲食店はここから二十キロ以上先にある上、コンビニですら十キロくらい離れている。今日の昼食はコウチくんが手配した弁当だ。

 紙のフタをあけると、海苔が敷き詰められたご飯に魚のフライ、その他の惣菜がぎゅうぎゅうに並んでいる。弁当は三種類で『野菜、魚、鶏肉』と段ボールに書かれていた。私のこれは『魚』である。


「熊倉さんのやつ、それなに? 白身?」

「たぶん……あ、違う、鮭ですね」


 箸でフライに切れ目を入れたら、薄ピンクとも薄オレンジともとれる色が覗く。

 のり弁、あまり好きじゃないのだけど。と思いつつ、ご飯とフライをひと口。まあ、わかりきってはいたが、普通だ。不味くもないが美味しくもない。


「鶏肉ってなんでした?」

「唐揚げ。ふつう、鶏肉じゃなくて唐揚げって書かない?」

「たしかに。こうなってくると『野菜』が気になりますね」


 お弁当の入った段ボール箱に『野菜、魚、鶏肉』とマジックペンで書いたのはコウチくんのはずだ。メニュー名でなく素材を書いてくるあたりがコウチくんらしいとも思う。


 ヒガさんの乗ってきた車の後部座席、窓にぽつぽつと雨粒が当たる。やはり降り出してしまった。


「でも、ちゃんとお弁当ですから」

「ちょ、熊倉さん、思い出すからやめて」


 あはは、と笑うヒガさんにつられて、私も笑う。悪口というつもりはないが、コウチくんもまさかこんなところで笑いモノにされているとは思うまい。


 まだコウチくんが入社して間もない頃のことである。平林さんのアシスタントとして右も左もわからぬまま、新しい環境に慣れるために必死だったはずだ。

 初めての現場仕事で、コウチくんは平林さんに朝食のケータリング手配を指示された。大して難しい仕事ではない。平林さんからよく利用する店のリストも貰っていたそうだ。


 朝食だから軽めのものを、と彼は思ったのだろう。コウチくんが選んだのは『お粥』だった。

 病人に出すような粥ではなく、OLたちのあいだで一時期流行っていたお洒落なもの。七種野菜のナントカとか、緑黄色野菜のナントカとか、キノコと根菜のナントカとか……


 スタッフは早朝から設営に勤しみ、開場後は現場を駆け回る。体力を消費する彼らに、お洒落なお粥。しかもOLをターゲットにしただけあって、値段の割に量は少なめ。

 現場で気づいた平林さんが慌てて大量のおにぎりを買ってきた、というオチを聞いてザマァミロと思ったものだ。


 この一件は企画部のあいだで『河内お粥事件』と呼ばれ、コウチくんが親しまれるキッカケになったとも言える。


「でもアレ、かんっぜんに平林さんが悪くない?」

「平林さん以外に悪い人います?」

「あははは! 熊倉さん、最高!」


 ケラケラと笑うヒガさん。車の外で雨の勢いが強まっていく。

 地面がぬかるんで、午後は大変だろう。このキャンプ場の水捌けがどのようなものかはわからないのが怖いところだ。


 コウチくん自身、少し抜けたところがあるものの、平林さんが的確な指示を出していれば防げたのが『お粥事件』。きちんと報告させ、平林さんが確認していれば当日慌てることもなかった。

 コウチくんを疑うわけではない。彼はいつだって一生懸命で、まっすぐな青年だ。けれど、こうして過去を振り返ると不安になる。

 私は大丈夫だろうか。なにか見落としていることはないだろうか。楽観的になどなれるわけがない。


 強くなる雨足。一向に明るくならない山の空。

 終わらないイベントはない。終わらないイベントはない。終わらないイベントは、ないのだから。



 熊ちゃんは真面目だね、と高校生の頃のように笑ってくれたらいいのに。励ましてくれなくても良いから、ただ笑ってくれるだけでいいから。


 若菜のそばに、帰りたい。

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君が投げたブーケを探す旅 うちたくみ @uchi_takumi

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