18 ◆

 ぴと、と頬に得体の知れないものが触れた。


 私の頬に謎の物体を押し付けた犯人を睨むと、ニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべている。これは反応待ちの顔。

 頬にあたる柔らかくて冷たいものを取り上げた。


「うわ、なにこれ、気持ちわる!」

「あはははは! ナメクジのおもちゃ!」


 なぜナメクジのリアルなおもちゃを作ろうと思ったのか。そしてこいつは、なぜそれを友人の頬に押し付けようと思ったのか!

 指で摘んだそれはぐにぐにと柔らかく、精巧な着色のせいでナメクジの粘液まで分泌しそうな雰囲気を醸している。端的にいうと、非常に気持ち悪い。


「一コ五十円」

「安っ!」

「熊ちゃん、買ってあげようか?」


 いらないよ! と返せば、また楽しそうに笑う。

 思わず安いと突っ込んだが、むしろこれに五十円の価値があるのかどうかすら疑わしい。こんな気色の悪い玩具に五十円を払うのも嫌だし、むしろ五百円を貰ったとしても受け取りたくない。


 アングラな雰囲気が漂う雑貨店。趣味性の高い品々を取り扱ってはいるが、分類としては書店であるらしい。店に入る前に若菜に教えてもらった。

 現在、若菜の『ギターの弦を買いに行きたい』という要望に応え、楽器店に寄った帰りである。熊ちゃんの行きたいところに付き合う、との言葉に甘えて本屋と言ったら、なぜかここに連れてこられた。


 普通で良かった。代わり映えのしない、アングラな雰囲気の漂わない、普通の、書店で良かった。


 書籍の数は思っていたよりも多く、本屋と言われたら納得できなくもない、とは思ったが、取り扱っている書籍もまた趣味性の高いものばかりだった。漫画、外国の絵本、写真集、画集、そして謎のハウツー本。

 たしかに一部の趣味の人からすれば喜ばしい品揃えなのだろう。けれど、私が求める本は"普通の"書店でもじゅうぶん取り扱いがあり、もし在庫がなくとも取り寄せが容易いものだ。


 飛び出す絵本を眺めて感心していたら、頬にナメクジもどきを押し付けられたという次第。


「熊ちゃん、熊ちゃん!」

「今度はカタツムリとか言わないでよ……?」


 うきうきしたような若菜の顔に嫌な予感を覚えつつ、私も私で若菜が握った手をつい注視してしまう。カタツムリじゃないとすれば、おそらく別の虫だ。若菜はそういう奴だ。

 ゆっくりと開いていく若菜の指。華奢だけど、私より骨格がしっかりしている。短い爪。どこでつくってきたのか、小さな切り傷。


「じゃーん!」

「メンヘラクマじゃん……」

「熊ちゃんに似てる!」


 似てない、と返しながら、その手からキーホルダーを取り上げた。

 メンヘラクマ、というキャラクターがいるのだ。『もりのハッピーアニマル』なんてふざけたタイトルの大人向け絵本が元だったはず。ハッピーとタイトルについている割に、内容はまったくハッピーではない。彼らは絵本の中ですぐに殺し合いをするし、すぐに自殺する。

 メンヘラクマ以外にも、社畜ウサギやドMイヌ、厨二トラ、ピンチケすずめにパチンカスネコなんてのもいた。

 社畜ウサギが大好きでそれを隠さないくせに、自身が肉食獣であることを気に病み、すぐに社畜ウサギの目の前で自殺するクマ。というキャラクター。


 これに似ていると言われた私はどう反応すれば良いものか。


「えー、可愛いじゃん。熊ちゃんみたいで」


 私の手の中で揺れるメンヘラクマは照れた顔をして俯いている。しかし、可愛い顔と裏腹に、背中に隠した両手には包丁が握られていた。


「ぜんっぜん嬉しくない」

「買ってあげようか?」

「いらない。超いらない。返してきなさい」


 はーい、と気の抜けた返事を残して、若菜の背中がひょこひょこと商品棚の影に消えた。


「あっ」


 呼び止めようにも時すでに遅し。

 あいつ……


「ナメクジおいてった……!」


 ナメクジとメンヘラクマなら、まだクマの方がマシだったな、なんて思った。



 まさかあの店で私のお目当ての本が買えるとは若菜も思っていなかったらしく、普通の書店にも付き合ってくれた。なら最初からこっちに連れてきてよ、と思わないでもないが、まあ、あの店も楽しかったのだから良しとする。


 若菜はギターの弦を、私は小説を。それぞれの目的は終えたが、解散の兆しはまだ見えない。


 安いファミレスで昼食を食べ、服屋を冷やかし、ゲームセンターでクレーンゲームに苦戦する若菜をからかう。クレーンゲームですらメンヘラクマのぬいぐるみを取ろうとしていたので、軽く肩を殴っておいた。

 夏休みも目前、日差しは強く、ふたりそろって汗だくであった。


「あー、きそうだね」

「何が?」


 結局二千円以上費やして、若菜はメンヘラクマのぬいぐるみを勝ち取った。そのぬいぐるみは若菜のリュックから顔を覗かせている。

 すっと手のひらを上に向け、空をあおぐ。若菜の視線を追うと、どんよりとした黒い雲が見えた。


「雨……」


 若菜の声を追うようにぽつぽつと小さな雫が頬に落ちてくる。


「熊ちゃん、傘持ってる?」

「持ってるように見える?」

「熊ちゃんのそのちっさい鞄、もしかしたら四次元ポケットかもしれないじゃん?」


 残念ながら見た目でわかるとおり、なんの変哲もないショルダーバッグだ。便利な秘密道具も入っていなければ、折りたたみ傘すら入らない大きさ。定期券と財布と携帯電話しか入っていない。

 ぽつ、と若菜の鼻に雨粒が落ちた。つめた、と拭う手をみて思い出す。


「若菜! ぬいぐるみ!」

「熊ちゃん! 本!」


 目を合わせて、ふたりしてヘラッと笑って、照らし合わせたわけでもなく、私たちは走り出した。


「ダッシュ! ダッシュ!」

「待って、若菜! 早い!」


「もー! 熊ちゃん、足遅いなー!」


 本屋のビニール袋をかさかさと鳴らす私を見て笑った若菜が、こちらを見て立ち止まる。ドッヂボールで鼻血を出すような女が、早く走れるわけないでしょう!

 目を細めて私の手から本をひったくると、そのまま私の手を引いてまた走り出した。


「わはー! 天然のシャワーだ!」

「ちょ、雨つよっ!」

「公園はっけん!」


 大きな雨粒が熱されたアスファルトを叩く。

 ふたりのスニーカーが地面を蹴る。

 自転車に乗った人がずぶ濡れになりながら通り過ぎる。

 車が溜まり始めたみずたまりを跳ね上げる。


 水捌けが悪いらしく、公園の土はすでにぬかるんでいた。転びそうになる私の手をぐいぐいと引きながら、ようやくアスレチックの下まで避難できた。

 ベンチのある東屋を選ばなかったのは、すでに雨宿り人口で占領されていたからだろう。


 滑り台や雲梯がごちゃごちゃとひとまとめになったアスレチックの下は、女子高生ふたりが避難するには少し手狭だった。


「ギリギリセーフ!」

「セーフじゃない、ずぶ濡れ」


「でも、ほら、本は無事だよ」


 本を包むビニール袋は濡れていたものの、たしかに中身は守られている。だけど。


「クマは無事じゃないじゃん」

「ん? え、あ! ホントだ! 私のクマちゃんがー!」

「紛らわしいからその呼び方やめて」


 まるで若菜に"私の"と言われたようで、なぜか心臓がむず痒い。

 リュックから引っ張り出されたメンヘラクマは剥き出しになっていた頭だけ濡れていた。ずぶ濡れの若菜にぎゅうぎゅうと抱きしめられ、被害のなかった体まで濡れ始めているけれど。


 若菜の腕の中で、メンヘラクマの顔が歪む。手に持った包丁さえなければ、もう少し素直に可愛いと言えるのに。

 ぬいぐるみの光のない目が私を見る。


「どう? 嫉妬する?」

「……そのクマよりこっちの熊の方が優秀ですけど?」


 一瞬だけきょとんとした顔を見せた若菜の相貌がくしゃっと崩れた。


「あははは! 熊ちゃん、最高!」

「ふふ、あはは、あははは!」


 私にメンヘラクマを押しつけて、若菜がお腹を抱えて笑う。私も、メンヘラクマを抱き潰しながら笑う。

 地面に雨粒が跳ね返り、アスレチックの下に私たちの笑い声が反響した。小枝、小石、駄菓子のごみ。意味もなく笑う、私たちの声。


 カシャっと、若菜の方から音が聞こえた。


「ちょっと! いま何撮った!?」

「クマちゃんを抱っこしてる熊ちゃん」


 雨に降られたけれど、『デート』楽しかったな。終わらなければいいのに。デートも、今日も、高三の夏も。

 自慢げに見せられた小さな画面には、クマのぬいぐるみを抱きしめて笑う少女が写っている。


 帰りたくないなって、ただそれだけを思った。

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