17 ◇

 若菜が消えた。


 わかっていたことだ。当たり前のように私の部屋で寝泊まりしていたけれど、いつかふらっと居なくなるだろうって。

 一週間。たった一週間だ。朝起きたら若菜がいて、仕事から帰れば若菜がいる。ひとつのところに留まれない若菜にしては頑張った方だと思うことにした。


 毎日目を疑って、毎日驚いて、そしていま。


 私は驚くこともなく、誰もいない部屋でひとりウイスキーを飲んでいる。若菜が作ってくれたツマミの代わりに、今日は缶詰の焼き鳥をあけた。横着して、温めることも皿に移すこともせず、冷たいままつまんでいる。

 缶詰の焼き鳥はどう考えても焼き鳥ではなくて、そのくせ焼き鳥にはない美味しさがある。


 でも、味気ない。


 当たり前だ。ここ数日は酒のお供に若菜がいたのだから。流しっぱなしのテレビは私の言葉になど応えてはくれない。

 独り言なんて虚しいだけだ。だから、ただ黙ってウイスキーで喉を焼く。心地の良い酔いを味わいながら、たまにベランダで煙草を吸って、湿った香りのする風を感じる。


 若菜がいるのだからと早めに退勤したのが馬鹿みたいに思えた。

 普段であればその日のうちに終わらせる作業を、わざわざ翌日に回したりして。私、なにしてるんだろう。


 明日は土曜日。世間はお休み。私は仕事。

 現場がないだけマシだ。会社はもう繁忙期らしい慌ただしさに満ちていて、何人かはすでに出社する余裕もないようだった。朝から現場に詰めて、社外に持ち出したPCで別件の調整をしている。

 何度か彼ら宛の電話を受け取っては「不在なので携帯に連絡を」と伝えた。着信さえ入っていれば、隙を見て折り返すだろう。

 しばらくしたら、私も同じような状況になる。今年で数度目となる、夏の繁忙期。一年で一番忙しい二ヶ月。


 年中ひとり繁忙期の平林さんはさらに忙しくなり、毎日イライラしてはアシスタントのコウチくんに当たり散らしている。

 昨年、扁桃炎を拗らせたコウチくんは、おそらく今年も扁桃腺を腫らして寝込むのだろう。早いところ自分の案件を勝ち取って、アシスタント職を卒業できれば良いのだけど。

 新人を確保することも大変な今、彼に辞められたら困るのだ。是非とも平林さんに負けずに頑張ってほしい。助けてはあげられないけど。


 煙草の火を揉み消したら、私用のスマートフォンがブーと震えた。


『な。からメッセージがあります』


「ふふ」


 思わず笑みが溢れた。


 あの野郎。なにも言わずに出て行ったかと思えば。

 送られてきたのは寿司の写真だった。皿の上にふたつ並んだ軍艦。ウニでもイクラでもない。白っぽい、艶やかな何か。

 若菜が送ってくる食べ物の写真は、すべてその土地を表すものだ。特産品であったり、名物であったり。わかりやすい時もあれば、今回みたいにわかりにくい時もある。


 寿司ということは海辺か。


「ふふ、なにこれ」


『わかんない。なにこれ』


 しばらくして、また写真が送られてくる。『な。からメッセージがあります』。


『おでん?』


 四角いおでん鍋には具材が綺麗に並んでいた。湯気でぼんやりと霞むピントの向こうには黄金色の出汁。味が染みているであろうそれらは、見た目だけでも食欲をそそる。

 おでんが名物というと真っ先に静岡が浮かぶが、静岡おでんは出汁の色がもっと黒かったはず。


 海産物があり、おでんが名物。はて、どこだろう。


 送られてきた写真をじっと注視していると、居酒屋のカウンターらしい木目の上に日本酒の徳利とお猪口が写り込んでいた。

 否。写り込んでしまったというより、これは若菜からのヒントだ。


 なるほど。


『金沢』

『おちょこ、九谷焼だ』

『お寿司はわかんない。なにそれ』


 おでんは金沢おでん。写り込んだ鮮やかな柄の焼き物はおそらく九谷焼。

 北陸新幹線が長野から金沢まで開通したときにニュースになっていたっけ。つい最近のような気もするし、何年も前のような気もする。行ってみたいな、と思ったことは覚えている。


『な。からメッセージがあります』


「美味しそう……ふふ、腹立つなぁ」


 送られてきたのは素揚げにされた小海老と、『白エビ』という一言。

 先ほどの軍艦に乗っていたのも『白エビ』なのだろう。金沢の名産なのだろうか。知らなかった。


 軽く検索して調べると、どうやら今が旬であるらしい。金沢は高級魚ののどぐろも名産なのね、覚えておこう。

 仕事を辞めたあとの旅行先、金沢もいいな。美味しいものがたくさんありそうだ。

 金沢城を見学して、兼六園を歩くのも良いだろう。夜になったら名物を食べながらお酒を飲むのだ。

 きっと楽しい。そこに若菜がいれば良いのに。


 『つぎは私も連れてってよ』打ち込んで、消した。

 『私も行きたいな』打ち込んで、消した。


 結局、なにも言えず、私はもう一本、煙草に火をつけた。

 私の部屋の合鍵は、若菜に無断で持ち出されたままだった。



 出勤して、PCと向かい合って、平林さんの怒声に耳を塞いで、電話して、経理に領収書を出して……

 現場に出て、クライアントと雑談して、外から電話で後輩に指示を出して、熱中症患者のために救護室を広げて……

 タクシーで会社に戻って、深夜まで書類を作って、ヒガさんと夜中にデリバリーのカレーを食べて、ポンコツ複合機に苛ついて……

 経費の計算をして、値切って、フィーの交渉をして、給料明細の確認もしないまま煙草をカートンで買って……


 煙草と酒と崩れた生活リズムと夏の猛暑。大きな仕事のプレッシャー。今日も胃が痛い。

 胃痛だけでなく、ここ最近は肋間神経痛まで高頻度で起こる。息を吸うと胸がピキンと痛み、数秒間は動くことさえままならない。

 けれど、ストレスに耐えているのは私だけではない。社員の誰もが疲れていて、それでも高尚な目標とやらを掲げて仕事に明け暮れる。


 疲れとアドレナリンでどこかおかしくなった企画営業部は、繁忙期になると変な熱気で満ちるのだ。


 私のストレスなんてなんのその。若菜は相変わらず、不定期『若菜メルマガ』を送りつけてきた。

 美味しそうな写真と自分勝手な若菜に腹が立ちながら、私はやっぱり『若菜メルマガ』を楽しみにしている。

 北から南、東から西。若菜はたえず動きまわっては、その土地で楽しそうに過ごしていた。定住しない遊牧民以上に移動しているんじゃないか、なんて思ってしまう。

 昨日は山に登っていたっけ。山頂の景色とコーヒーの写真は、夏らしい爽やかさがあった。


 たとえ部屋で待っていなくとも、写真を送りつけてくるこの瞬間は、若菜の中に私がいる。

 若菜は私を覚えていて、なんの意図があるのかはわからないけれど、私と連絡を取ろうとしてくれる。

 私の部屋の合鍵は、まだ若菜の手の中にある。きっと、またふらっと帰ってくるのだろう。その時には繁忙期も終わっていると良い。

 せっかく若菜がいるのに、忙しくて帰れない。そんなことになったらもったいないもの。



 クーラーの効いた社内の床に寝袋を敷いて、寝心地の悪いそこに潜り込む。デスクを挟んだ向こう側では、まだヒガさんと竹富さんが仕事をしているはずだ。

 私とコウチくんは明日が早いため、今は仮眠を取らなければならない。明日の集合は朝じゃない、夜中だ。いくら現場が田舎の大型キャンプ場とは言え、深夜二時の集合は勘弁してほしい。

 とにかく集合場所までたどり着けば、あとはバスの中でもう一眠りできるだろう。


 随分とギリギリに送られてきたクライアントからのメールをもう一度確認して、目を閉じた。


『映画祭 当日の集合場所について』

『お疲れ様です。ついに明日から映画祭始まりますね! 昨日ご連絡致しましたバスの時間ですが、午前二時に新宿センタービル前に集合です。一応地図も添付致しましたので、ご確認ください。それでは四日間、よろしくお願いします!』


 次の『若菜メルマガ』はいつだろう。また移動したのかな。今度はどこに行くのかな。まだ国内にいてくれるよね。


『Re:映画祭 当日の集合場所について』

『お世話になっております、熊倉です。午前二時、新宿センタービル前集合とのこと、承知いたしました。明日は河内と向かいます。よろしくお願いします』



 どうか、大きなトラブルもなく乗り切れますように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る