16 ◆

 高校三年というのは、世間一般では受験生の年だ。


 とは言え、高三の一学期からガリガリと勉強している者なんて、偏差値の高い志望校を目指している者くらいしかないわけで、一学期の中間考査を控えたこの時期なんて、まだほとんどの者が気の抜けた顔をしている。

 いまこの部室で必死な顔をして教科書に齧り付いている三年生ふたりは、本当に受験生かと疑いたくなる有様だった。


 センター試験を数ヶ月後に控えた身ならば、中間考査などとくに必死になることもなかろうに。特進クラスの者たちは、学校の試験よりも校外模試に夢中だ。

 由紀は私と同じ内部推薦組なのでまだ良いとしても、若菜に関しては外部受験組である。特進のD組ではなく、推薦がメインとされるC組なのでまだ良いほうか。


 否。指定校推薦を目指すのなら内申点は大いに関係してくる。試験の結果は成績に響いてくるのだから、いま瀕死でヒィヒィ言うのはやはりおかしい。

 若菜の成績がどんなものかは知らないけれど、普段の様子を見るかぎりは優等生ということもない。本当に指定校推薦狙いなのだろうか、この人。


「声聞くとぞ秋は?」

「えーと? B?」

「違う、A。悲しき」


 授業中に配られた例題のプリントを眺めながら、若菜の勉強に付き合う。

 古文も英語も日本史も、私はなにもかも丸暗記だ。こうして若菜の試験勉強に付き合っているけれど、正直なところ私もきちんと理解できているかは怪しい。

 それでも、まるっと暗記さえしてしまえば、学校の定期考査など簡単に八十点や九十点を叩き出せる。


 私の勉強方法は定期考査を想定したものだ。たぶん、勉強方法としては間違えている。


「だから、や、やは、か、かは、に連体形が続けば、疑問か反語って覚えておけば良いんだってば」

「まって、連体形とか言われてもわかんないから! かくなるもの心得るべきや、いや得ず!」

「わかってんじゃん! 腹立つな! ほら、次!」


 由紀は由紀で因数分解に必死になっている。先ほどから「カッコ、サンエーマイナスニビー……イコール……」とぶつぶつ呟いている。

 教科書をぱらぱらと捲るかぎり、数学の難易度はがんがん上がっていく。わけのわからない記号も増えているし、遠い目をしている由紀の気持ちもわかる。

 因数分解なんて今後の人生にどれだけ関わってくるのだろう。この勉強が本当に必要なものか、なんて疑問は、過去の学生たちが散々唱えてきた。いまさら私がどうこういうつもりもない。

 周りに取り残されたり、怒られたり、ヤンチャする勇気のない私は、今までどおり疑問も持たずに真面目ちゃんを演じるまでだ。


「なんだよ係り結びってー!」

「中学でもちょっとやったじゃん。ほら、頑張れ」

「かくならば世界など終わりにしやらむー!」


 若菜の絶叫を聞いて、私たちと同じく部室を勉強部屋にしている後輩たちがくすくすと笑った。

 このふたりも一年の頃から部室を溜まり場にしている。いまのところ新しい駄弁り部員は増えていないし、私たちが卒業すればこのふたりが部室の主となるのだろう。

 数ヶ月後にはこのふたりのどちらかが部長だ。まあ、部長と言ってもとくにやることはないのだけど。


 今年もまた、顔も知らない新入部員が地味に増えている。このままだと、今年も文化祭で地味な展示をやることになりそうだ。

 世界遺産に興味のあるまともな部員は、若菜のほかには出会えなさそうだった。


「はる先輩、わたしたちも勉強教えてください」

「良いけど……覚えてるかな……二年の一学期ってなにやってたっけ」


 後輩ふたりが机に広げた教科書を覗き込むと、あまり懐かしさを感じない英語が羅列している。たったの一年では教科書の中身もそこまで変化はないらしい。


「いてっ! なにすんの!」


 どこがわからないの、と言う前に、腰に重たい一撃を食らった。それも左右から。


「熊ちゃんっ! お願い、見捨てないで!」

「はるぅー! わかんない、助けて!」


「あははは! 先輩たちホント仲良いですね」


 楽しそうにそう言った後輩に、とりあえず苦笑いを返す。

 私と後輩の関係は、私と先輩の関係とは全く違う。仲が悪いわけではないが、そこには見えない壁が何重にも重なっていて、あの人のように後輩の肩で居眠りなんてどうやったって出来そうな距離感ではない。


 それが悪いこととは思えないけれど、やはりどうにも寂しさは感じてしまう。

 私の中で先輩といえばあの人しかいないから。たとえ真似でも、あの人と同じように振る舞えないことに、なにか小さなしこりを感じるのだ。

 先輩は人懐っこいひとだった。誰とでも距離が近くて、そんなところは若菜と少し似ていたのかもしれない。


 結局、先輩と若菜の関係は聞けず仕舞いだった。ふたりが今でも連絡を取り合っているのか、それもわからない。

 わからなくていい。私は、わかりたくない。


 ただの先輩後輩だ、と。たとえそうだったのだとしても、もしかしたら、なんて思ってしまった私の心は消えないのだ。

 仲の良いふたりを邪推してしまったことが恥ずかしくて、申し訳なくて、忘れてしまいたいのに、ふとした瞬間に思い出す。


 いつかきっと、記憶は薄れるだろう。だから、わざわざ聞いたりしない。わからないままでいいのだ。


 若菜に古文を教え込んで、由紀の因数分解に付き合って、後輩の英語に記憶の扉をこじ開ける。私のための勉強は、結局家でやるしかなかった。



 高三、初めての中間試験は昨年までと変わりなく、とくに悪い結果にはならなかった。答案返却はまだだけど、自己採点ではどれも八十点後半を記録している。ケアレスミスさえなければ、いつもどおりの結果が返ってくるだろう。

 答案の記名ミスとか、解答をひとマスずらしてしまったとか、そういうことさえなければ、たぶん大丈夫。

 そんなことは考え出したらキリがないのだし、オールイチでも大丈夫という夢の切符を思い出して、中間考査のことなど忘れることにした。


 答案の返却が終わったら、後輩のどちらかに部長の座を譲る提案をしよう。部長と言っても名前だけ、推薦を狙うならあって困る肩書きではないだろうから。


 中間考査を終えたばかりだと言うのに、校外模試とやらも目前に控えている。私は申し込みをしていない。同じ内部推薦組も、ほとんど参加しないはず。由紀にいたってはその日のうちに申込書を捨てていた。

 若菜はどうするのだろう。外部組だし、受けるのだろうか。


 若菜はどこの大学に行くのだろう。



 ひしひしと夏が近づいてくる。


 少し早めの熱帯夜にクーラーをつけながら、もぞもぞとベッドに潜り込んだ。日付が変わりそうなこの時間、若菜はなにをしているのかな。勉強なんかしていないよね。ギターの練習でもしているのかな。それとも、私と同じでもう布団の中かな。


 明日はお弁当屋さんのアルバイトだ。まだ慣れないことばかりで疲れるけれど、実は結構楽しんでいる。

 メニューはぜんぶ覚えた。お金のやりとりはまだちょっと怖い。帰り際に余ったお惣菜を貰えるから、母親が喜んでいた。



 そういえば朝の読書月間がまた始まるな。そんなことを考えながら、若菜から受け取ったメールを思い出して目を閉じる。瞼の裏に、金色がちらちら。

 若菜と出かける日、私も本屋に行こうか。べつに図書室で借りても良いのだけど、せっかくだし新しい本を買ってもいいかもしれない。


『来週の土曜日、空いてたらデートしない? ギターの弦買いに行くの、付き合って』


 なにがデートだ、ばか。

 なんで私を誘ってくれたのだろう。服はなにを着ていこう。ギターの弦ってどこに売ってるのだろう。


『Re:』

『あいてる。いいよ』


 楽しみだな。うん、楽しみ。

 夏休みも遊びに行こうよって、私から誘っても良いのかな。受験の雰囲気が本格的になる前に、それくらいきっと許してもらえるよね。


 どうか、未来の私がほんの少しだけ勇気を出せますように。

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