15 ◇
日雇い派遣の人数を相談するために電話をしていたら、後方で何やらトラブルが発生していた。
私の大型案件を回すために色々と担当を動かしたことが原因だと思われる。会話を聞き流しているだけで、それは良くわかった。
まだアシスタントの彼が平林さんからぐちぐちと言われている。
『ほんっと使えねぇなぁ』
『ヘラヘラしてんじゃねぇよ』
『なんで自分で考えられねぇの』
いつもどおりの言葉が平林さんの口からぽんぼんと飛び出して、私の胃までキリキリと痛み出す。
あんなものまだまだ序の口だ。けれど、積み重なれば、それは重たい凶器だ。
平林さんの言葉が途切れたタイミングで振り返り、凹んだ顔をした彼に目を合わせた。
「コウチくん、仕事頼んで大丈夫?」
「あ、ハイ。いけます!」
「日雇いさんの調整お願いしたいんだけど、今回かなり人数多いんだよね。基本的なところは先方と詰めてるから……」
手早くコウチくんのアドレスに内容をまとめたものを送りつける。
派遣会社も素人ではない。コウチくんも二年目で、ある程度放置していても問題ないだろう。
「とりあえず、電話した内容は確認のために全部相手にメールで送って。あと、CCに必ず私のアドレスも入れてね」
「ハイ!」
「コウチ。はるちゃんそういうところ一番きっちりしてるから、ちゃんと学べよ。相手の言葉勝手に解釈するとか、お前そういうミス多いんだよ。なんのために耳ついてんの、お前」
またそういう言い方をする……
ベテランとも言える者ですらそういったミスは稀に見られる。忙しければ忙しいほど、電話だけのやりとりを済ませてもらいがちになるものだ。結果、ミスもポロポロとこぼれ落ちる。
業界について長い人たちは一切のミスをしないわけではない。私も含めるが、彼らはミスやトラブルが発生した時の対応に慣れているだけだ。
私たちはアシスタント時代にたくさん経験してきた。ミスは積み上げるもの。成功も失敗も、それが経験となる。
そういうものだ。
なんのために耳がついているか? そんなの聞くために決まっている。
「コウチくん。とりあえず、わからないことあったらなんでも聞いていいから」
けれど、私の口も私の口だ。
彼が困っているときに忙しいフリをして逃げ出すくせに。自分の案件と関わりのないところでは助けるつもりもないくせに。
もともと純粋無垢な性格とは言えないが、就職してからはさらに嫌な方面に傾いている気がした。
ため息を飲み込んで、最近動きの悪くなったPCに向き合った。
まだ繁忙期も来ていないというのに、久しぶりにデスクで早めの昼食を摂っている。どんなに暑くとも、ここ数年は公園に行くことを欠かさなかったというのに。
きちんと朝ごはんを食べてしまったせいか、わがままにも体が栄養素を欲しはじめた。生意気な。今まで朝食なんて摂らなくても動いていたくせに。
「お、熊倉さん珍しいね」
「お腹すいちゃって」
「はは! あたしなんていっつもお腹すいてるよ。ホント、この仕事してると時間狂うせいで夜中の二時とか猛烈にお腹空くもん。体重やばいなーとか思ってたら、ジーパン入らなくなって笑ったわ」
快活に笑うヒガさんは私よりも二年早く入社した先輩社員である。中途採用の経理として入社したはずが、営業企画部として働いている。
経理だろうと総務だろうと、この会社では入社したら三ヶ月から半年程度は営業企画のアシスタントをやらなければならない。
マグカップにコーヒーをなみなみと淹れたヒガさんは、その半年程度の研修がなぜか終わらなかった人だ。
本人の希望があったというが、話を聞く限り仕事のできるヒガさんを企画部が離したくなくて無理に引き留めたであろうことは簡単に想像できた。
コロコロと椅子を引いてくると、なぜか私の隣にドカッと腰掛けた。デスクの上にもどさどさとサンドイッチやらプロテインバーを落とす。
「平林さんが案件報告変えようとしてたの阻止しといたから」
「え?」
「SIDと日本酒のやつ。あと竹富さんの熱海と東北ね。あれさ、平林さんが勝手に振り分けたじゃん? 熊倉さんの案件なのに。しかも、担当名まで変えようとしてたからさ。竹富さんとあれは無いよねって話してたわけよ」
それは非常にありがたい話だった。
案件ごとに提出しなければならない『案件報告書』とは別に、PCの共有ファイルにも『案件報告』が存在する。
『案件報告書』は、いわば過去の案件の記録だ。案件名、担当者、先方とその担当者、日付、現場、全体の金額、うちのフィー、掛かった経費、そういった諸々を数枚の書類にまとめ、全て保管する。
私たち平社員にとっては、どちらかといえば『案件報告』のほうが重要であった。
こちらは毎月、平林さんのような役職付きの者だけが編集できる。ただし閲覧は可能である。
現在動いている案件と担当者、諸々を差し引いた売上額のみが記されているそれは、私たちの歩合計算に使われるのだ。
基本的には仕事を『受けた者』が担当者になるが、場合によっては仕事を『受け持った』者が担当者とされる場合もある。
私たちが必死に『自分の案件を営業で勝ち取ろうとする』のはこのためだ。自分の案件がなければ、当然他の者のアシスタントに回ることになる。働けども働けども、給料は雀の涙ということになりかねない。
故に『案件報告』に名前がたくさん記されるというのは、『こいつ今月は稼いでいるな』という指標になるわけだ。
私の今月の歩合は先輩ふたりのおかげで守られた。もしも彼らが平林さんに物申してくれなければ、私はおそらく泣き寝入りしていただろう。
胃と精神を痛めつけながら働いて、そのくせ満足に褒賞ももらえないなんて、いったいなんのために仕事をしているのかわからなくなる。
この業界に夢も希望も誇りも見いだせないのに。ただ生きるためだけに働くのなら、わざわざこんなブラックな環境に身を置く必要なんかない。
「竹富さんが結構怒っててさぁ。ハルちゃんも文句言っていいのに! って酒飲んで管巻いてたよ! はは!」
「あー、まぁ、そうですよね。私もあのときちょっとモヤっとしたんで。ありがとうございます」
「うちの部署はモンスターだらけだからねぇ」
当たり前のように私のデスクで昼食を取り始めたヒガさんが、あっけらかんとそう言う。
企画営業部はたしかにモンスターの巣窟だ。仕事のできる人間が集まっているが、そういうやつらはだいたい人格のどこかが破綻している。ヒガさんも、竹富さんも。
自分はまともだと思い込んでいる私だって、このモンスターの巣窟に六年も身を置いているのだ。はたからみれば、モンスターに見えているのかもしれない。
ヒガさんの話に相槌をうっていたら、彼女の社用スマートフォンがジャンジャンと音を立てた。誰の着信音かわかるように、社員たちの着信音はそれぞれ違うものに設定されている。
電話対応しているヒガさんに目礼して、煙草とライターを手に席を立った。
私の携帯は鳴らない。社用も、私用も。
若菜はいまなにをしているのかな。仕事場に顔を出すなんて言っていたっけ。そういえばあの人、なんの仕事をしているのだろう。
若菜のことを、私はなにも知らないのだ。そんなことに今さら気がついた。
知りたいのかな。知りたいのだろうな。きっと、私は若菜のことを知りたいのだ。
若菜。若菜。若菜。
そればっかり。再会してから。不慮の事故みたいにセックスしてから。否。たぶん、もっともっと前から。
若菜はずっと特別だった。それがどういう意味の特別なのか、幼い私が知りたくなかっただけで、若菜はずっと特別だった。
わかっているのだ。
十年も避けてきた同窓会に、若菜に会いたくて参加したこと。再会したあの日、若菜に引き留められなくとも、私が若菜の手を掴んだであろうこと。仕事のことで落ち込んでも、若菜がいるだけで忘れてしまえたこと。
若菜がいれば、煙草を吸わないこと。
喫煙室の外。鞄を無造作に掴んだヒガさんが慌てて出かけていく様子が見えた。トラブルかな。
古いポンコツ複合機が嫌な音を立て、誰かのスマートフォンが鳴る。バイク便の配達人が書類を届けにきて、誰かが電話口で謝り倒す。
ああ。夏の繁忙期がやってくる。
現場の救護室は、今年もまた熱中症患者で溢れかえるのだろう。
この繁忙期が終われば、私も仕事を辞めてしまおうか。退職金と失業手当で、三ヶ月くらいダラダラ遊んだりして。
ねえ、若菜。若菜はいま、なにしてる?
なにもないあの部屋で、本当に待っていてくれる? それなら私は、今日も早く帰ろう。
この気持ちは、仕事ばかりで楽しいこともなかった日々に、ほんの少しのイレギュラーが入り込んだから生まれたもの。
若菜は特別だけど、それ以上の意味なんかない。ないはずだ。
ヤニで黄色く染まった喫煙室の壁。廃棄されていく煙がゆらゆらと漂って、なぜかやたらと目に染みた。
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