12 ◆

 体育祭の他に球技大会まである意味が本当にわからない。


 同じようなものだろうに。必要性をまったく感じないのだけど。

 体育祭は夏休み直前、熱中症で殺す気かというような時期に行われる。球技大会は冬休み直前、凍傷で殺す気かというような時期に行われる。

 運動が嫌いな私としては、正直どちらも苦痛でしかない。せめてどちらかにしてほしい。


 中に長袖のTシャツ、体操着、学校してジャージを上下。待機時間はマフラー完備。

 そのマフラーも今は、競技に出なければいけないため外している。寒い。


「一同、礼」


 よろしくお願いしまーす、と両陣営からやる気のない声がぱらぱらと上がった。



 我が創園高等学校で行われる球技大会はクラス対抗である。各学年四クラス、男女に分かれて四つの球技種目で競い合う。

 バスケットボール、バレーボール、ハンドボール、そしてドッヂボール。


 言わなくてもわかると思うが、前者三種目はそれぞれの部活に所属する者たちが華となる。それか運動において満遍なく才能を発揮するような光のやつら。

 ドッヂボールチームは毎年、やる気のない者たちの寄せ集めで出来ている。どこのクラスも、どの学年も、それは変わらない。


 私はもちろんドッヂボールだ。


 私を含め、ドッヂボールすらやりたくないと多くの生徒が思っているはず。

 それを示すように、みな一様に面倒臭そうな、だるそうな表情を隠さない。寒さに震えているのも私だけではなかった。


 少し離れたコートではリア充妖怪たちが歓声をあげ、冬だというのに爽やかな汗をかいている。


 ちら、と顔をあげたら目があった。それはもうバッチリと、誤魔化しがきかないくらいに。

 私がぼんやりと目で追ってしまうせいで、珍しいことではないけれど、向こうがこちらに視線を飛ばしてくるのは珍しいことだ。


「熊ちゃーん、よろしくぅ」

「…………なんでこっちいるの」


「よーい!」


 ピー、と鋭いホイッスルが響いて、私たちのやる気のないドッヂボールが始まった。



 始まれば熱中する。


 なんてことはない。アオハルに熱意を持たない者たちは、この時間を早く終わらせるために頑張る、という意識もないのだ。

 勢いのないボールが両陣営の間を行ったり来たり。ひとり、ふたり、外野へと弾き出されていく。


 女子チームらしく、ボールが自陣に飛んでくるたびに、キャアキャアと騒ぎながら逃げ回る。その中でも運動神経がマシな者だけで、ボールはやり取りされていた。


 自慢ではないが、私は運動音痴である。ドベがつくほどではない。目立たない程度に、適度に運動ができない。

 小学校の逆上がりテストも、後半ではあったが、授業時間中に切り抜けられた。平均台も、大縄跳びも、どれも可もなく不可もなくといったところ。


 小学校五年生の頃、あまりにも運動が出来ず、大縄跳びで足を引っ張るばかりの同級生がいた。


 自分たちと違う存在を排除したがる、それが顕著な年齢であったものの、当時のクラスメートはなかなかに人間性が出来上がっていた。

 体も小さく、運動が苦手な彼女に対して、それをからかう者もなじる者もいなかったのだ。


 けれど、彼女は泣いた。


 五年生で行われる大縄跳び大会の直前。体育での練習のさなか、彼女はしゃがみこんでシクシクと泣き出したのである。

 出来ないことを責めた者はいなかった。誰も彼も、彼女がつまづくたびに優しく、明るく声をかける。イジメはいけない、弱い者を傷つけてはいけない。そう教育されてきたからこそ。


『ドンマイ! ドンマイ!』

『大丈夫!』

『気にするな!』


 何度も、何度も。

 私にはわかる。彼女は出来ないことよりも、何よりも、その言葉に傷ついた。いっそ笑ってもらった方が、気が楽だったのかもしれない。

 『ドンマイ』『気にするな』。一度だけならまだしも、何度もそう声をかけられるのだ。


 惨めにならないわけがない。


 彼女が泣いている姿を見て、私は傷ついた。

 彼女の姿に、ではない。思わず安堵した自分自身に傷ついたのだ。

 あれが私ではなくて良かった。私より出来ない彼女がいて良かった。そう思ってしまった自分の心がひどく冷たいもののように感じたから。


 多くのクラスメートが、しゃがみ込んでしまった彼女のそばに駆け寄って、慰めの言葉を浴びせかけた。大丈夫、大丈夫、できるようになるよ、一緒に練習しよう、泣かないで。


 ああ。なんて鋭い刃だろう。なんて恐ろしい。それは言葉の暴力だと、私は思う。


 泣いた彼女は内気な子ではなかった。ほどほどに社交的で、体育での失敗時はいつも『えへへ』と誤魔化すように笑うような子。

 『ドンマイ』に傷が重なって泣いてしまったあの子だけれど、私はあの時、ひとつの正解を踏んだと思う。


 あの子はきっと、数秒もせずに泣き止んで、えへへと笑ったはずだ。ごめんね、続きをやろう、と。

 私があの子だったら、そうしただろう。それができる子だった。


 駆け寄って慰められるほうが嫌だ。


 あの場面は駆け寄ろうとする足をほんの少しだけ踏ん張って、彼女が立ち上がる一瞬を待つべきだったと、私は今でもそう思う。

 そうして、立ち上がった彼女に言ってやるのだ。『もう、なにも泣くことないでしょー』って。

 練習が終わった後に、こっそり言ってやるのだ。『ほんと、大縄跳び大会嫌だよね』って。


 それで、彼女と一緒に練習してやればいい。


 一歩間違えれば、彼女は私だったから。私にはそれがわかる。私だったら『できるようになるよ、泣かないで』よりも、そっちのほうがほしいもの。


「あはは! ごめん、ほんとごめん! 当てるつもりじゃなかったんだけど、あははは!」


 なんでそんなことを思い出したかというと、まあ、走馬灯のようなものだったのだと思う。


 数少ないボールを回すやつ。相手陣営のそのなかに、若菜もいた。

 ドッヂボールチームのくせにことのほか楽しそうで、ケラケラ笑いながらボールをキャッチしてはぶん投げていた。


 私が悪い。私が悪いのだ。


 試合も終盤、両陣ともに内野の数が減り、ガラ空きのコートの中をやる気なく走り回っていた。

 たとえやる気がなかったとしても、ボールには当たりたくない。だから適当に走る。当たって外野に出れば楽ができるとわかっていても、ボールには当たりたくないもの。


 運良く、否、運悪く残ってしまった私は、見通しの良くなったコートの中でいつものように目で追ってしまったのだ。 


 今日もキラキラしているな、と。


 若菜の金髪が踊るようにキラキラと輝いて、ドッヂボールの試合中だと言うのに、私の目はそればかりを勝手に追ってしまっていた。

 ボールをキャッチした若菜が私を見て、悪戯っぽくニッと笑うから。私は反射的に、左下に目線を逸らして、次の瞬間にはとんでもない衝撃を受けた。


 顔面で。


 一瞬、視界が暗転した。それからすぐに鼻にジーンとした痛みが広がって、私は棒立ちになっていたのである。


 おそらく若菜は私が避けると思ったのだろう。目があってから間があったのだ。たぶんほとんどの人間が避けられるような攻撃だった。

 だからまさか、若菜自身も顔面にぶつけてしまうとは思っていなかったはず。


 バシン、という情けない音とともに、落っこちたボールがポン、ポンと小さく跳ねて転がる様が見えた。

 静まりかえったコートで、それを破ったのは若菜の笑い声だった。


 大丈夫? なんて嫌な言葉ではなく。あはははははは! と情けなさと惨めさを吹き飛ばすような、軽快な笑い声であった。


「ごめ、あははは! って、うわ! く、熊ちゃん鼻血! うわぁ、ごめんごめん! マジでごめん!」

「……ん、大丈夫。ほけんし」

「せんせー! 保健室いってきまーす!」


 まだ痺れた感覚の残る鼻に手をやると、ぬるりとした感触がある。

 まあ、そうなるよね。ボールを顔面で受けたのだから。小学校で使うようなゴムボールならまだしも、バレーボールだもん、これ。


 痛い。


「く、熊倉さん、大丈夫!? く、ふふ、ほ、保健室」

「ちょ、めっちゃ笑ってるじゃん」

「だって、なんで避けないの、熊倉さん。ふふ」


 寄ってきたクラスメートが、笑いながら心配してくれるから、私も笑って大丈夫と返す。馬鹿にした笑いじゃないから、傷つくこともない。

 ここで本気で心配されたら、たぶん惨めだったろうな。さすがに泣くことはないけれど、大縄跳びの彼女と似たような心地にはなっていただろう。


「ごめんね、熊ちゃん! お詫びに保健室いってサボろー」

「ミルクティー奢って、お詫びに」

「あはは! いいよ、二本買ってあげる」


 一本でいいと返しながら、片手で鼻を押さえて、片手を若菜に引かれて、クラスメートに手を振った。

 離れた位置のコートではバスケが白熱していて、学年や男女が入り乱れた観客がワイワイと騒いでいる。


 リア充たちの下卑た笑い声が聞こえるようで、勝手な妄想に勝手に惨めになった。

 名前も知らない相手だったら、あいつらは簡単に馬鹿にして笑うから。


 だけど、球技大会をサボれるのは僥倖だったな、とちょっとだけ笑った。



「ちゃんと避けてよー、こっちがビックリしたわ」

「いや、一番ビックリしたの私だから」

「ふふ、衝撃の顔面キャッチだった」


 養護教諭は大きな事故や怪我のため、球技大会の会場に待機している。だからと言って保健室は無人ではなく、軽い捻挫や擦り傷のために、生徒がひっきりなしに訪れていた。

 その面倒を見ているのは世界史の教員と保健委員の面々である。


 かくいう私も若菜に付き添われて、保健委員に詰め物を突っ込まれた。


「ほい、ミルクティー。あったか〜い」

「ここで『つめた〜い』だったらキレてた」


 若菜がまたケラケラと笑った。


 階段の踊り場に並んで座る。

 保健室には入り浸れないし、体育館の方面はサボり人口で空きがない。学校行事にやる気がない者なんてごまんといる。


 素手で持つには熱すぎるくらいの缶を手の中で転がして、冷めないうちにプルタブを引いた。


「ねぇ。体育祭か球技大会、どっちかで良くない?」

「思ってた。むしろどっちもいらない」

「青春を謳歌してる奴らが文句言いそう」


 どちらかといえば、若菜もそっち側でしょ、とは言わないでおく。若菜なら、バスケでもバレーでも、球技大会を楽しめただろうに。


 薄汚れた上履きのつま先。端の方にたまった埃。音がよく反響する階段。

 ざわめきは聞こえない。静かだ。階段に腰掛けたお尻が、ただ冷たいだけ。


 とん、と肩に衝撃があって、それから重みを感じた。


「つーかーれーたー」

「二試合しかしてないでしょ」

「疲れるには充分ですー」


 逃げ回るだけの私と違って、ちゃんとドッヂボールに参戦していた若菜はそうかもしれない。

 一試合目を勝ち抜いてしまったのが、そもそもの不運である。最初に負けていれば鼻血を出すこともなかっただろうに。


 肩にもたれてきた若菜の体は重たくて、そして柔らかかった。


「先輩の……」

「んー?」


 先輩の距離感がうつったんじゃない。そう言おうとした口を慌てて閉じた。


 私は未だに聞けずにいる。先輩と若菜の関係。ただの先輩後輩なのか、付き合っているのか。それはデリカシーのない邪推で、簡単に聞いていいことではない。


「先輩、もうすぐ卒業しちゃう」

「あー、先輩懐いてるもんね、熊ちゃんに」

「逆じゃない?」


 逆じゃない、と笑う若菜に、私も笑ってみせる。

 あの時だけじゃない。若菜と先輩がたびたびふたりで遊びに出掛けていることを、私は知っている。学校に近いファーストフード店に、ふたりでいるところも見た。


 私や由紀が知らないところで、ふたりは仲を縮めている。


「先輩、受験大丈夫かな……」

「あはは、ギリギリって言ってたよ」

「まあ、あれだけ部室に遊びにきてればね」


 心がそわそわと落ち着かないのに、それを手放してしまうのももったいない。

 それはきっと寒い踊り場で感じる若菜の体温が暖かいからで、なんら特別なことなどないはずだ。

 先輩のこともきっとそう。気になってしまうのは先輩と仲が良いから。私の性格が悪いから。



 若菜。首に髪があたってくすぐったい。そう言ってどかしたいのに、この重みが惜しいとも感じる。

 私はきっと触れてみたいと思っていた。少し傷んだ毛先に。キラキラと光を反射する、この金髪に。


 こんな触れ方は予想外だけど。


 パカっと携帯を開いて、若菜がメールを確認する。たぶん、クラスメートからの連絡だ。

 どうしてだろう。若菜が戻ると打ち込むところを見たくなくて、私は目を閉じた。


「熊ちゃん」

「うん」


「お昼もここで食べよ。熊ちゃんのクラスもうちのクラスも、さっき負けたらしいから」


 他の競技でないでしょ。と、当たり前のように若菜が言う。



 球技大会が終わらなければいいのにって、そう思った。

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