13 ◇
二十二時半。
この時間に帰宅できることを『今日は早く帰れた』と思えるようになったのはいつ頃だったろう。一年目は終電など存在しないかのような平林さんの仕事スタイルに驚いたりもしていたっけ。
平林誠という男はモンスター呼ばわりされるほどのモラハラ男だが、けして仕事を疎かにするような人間ではない。いつだって大量の仕事を抱え、それを切らすこともない。ひとりで年中繁忙期をやっている彼のずば抜けた営業力と社交力には、社内の誰だって追いつけなかった。
朝、出社したら、繁忙期でもないのに床に平林さんが転がっていた、なんて光景は珍しくもない。
彼が多くの案件を抱える分だけアシスタントの仕事量も増えるが、平林さんはそれ以上のものをこなす。
平林誠はある意味で、ひとりでこの会社を支えていると言っても過言ではない。
だからこそ、新人は文句を言えない。
そして、平林さんに文句を言えないように"教育"された私もまた、些細な不満など口にもできないのだ。たとえ目の前で自身の仕事が勝手に解体されたとしても。
会社を辞められなかった理由付けに、そういえば家賃補助のこともあったと思い出した。仕事量の割に給金は安いのだ。家賃補助がなければ、会社にほど近い良物件には住めない。
更新を繰り返している賃貸マンションを見上げてギョッとした。
カーテンの隙間からぼんやりと漏れるオレンジ色の灯り。たしかに部屋の鍵は締めたし、オートロックのマンションで空き巣などないと信じたい。
消したつもりで明かりをつけっぱなしにしてしまったらしい。
電気代だってタダではないのに。ため息を飲み込んで、とぼとぼと部屋に向かう。
訳もわからないまま、沈み込む気持ちに歯止めが効かなくなってくる。生理前かな。
若菜といた昨晩が楽しかった分、今朝の怒りは大きかった。でも、こんなふうに気持ちが落ちていくよりも、若菜に怒り狂っていたほうがまだマシだろう。
無駄にした電気代を思考から追い出して、重たいドアを引いた。
「あ、熊ちゃんおかえりー」
……は?
「ハムカツ食べる? 揚げたて」
「…………食べる」
「じゃ、着替えてきて。スーツ煙草臭い」
無意識に袖を鼻に近づけて、すんすんと嗅いだ。スーツに限らず、おそらく鞄や髪も煙草臭いはず。先にシャワー浴びようかな。
いや、違う。そうじゃない。
「若菜、なにしてんの」
「ハムカツ揚げてる」
久しぶりに目にした揚げ物用の鍋から、ジュウジュウといい音がしている。隣のフライパンはなんだろう。きんぴらごぼう?美味しそう。
「いや、違う。そうじゃない」
「早く上がって着替えなってば。熊ちゃん、ちゃんとチェーンもかけなよ」
「あ、うん」
熊ちゃんは防犯意識が足りない、という説教には恐ろしいほど説得力があった。
私が目覚めた時、若菜はたしかにいなかった。散々乳繰りあった女を放置して、ついでにクリーニングを押し付けて、姿をくらましたはずだ。
私の手には、年季の入った革のキーケースが握られている。就職したばかりの頃、気に入ったものを見つけるまでの繋ぎと思って、適当に選んだ安物。結局、六年も使い続けている。
「どうやって入ったの……」
「合鍵。玄関に置いってあったから拝借した」
手についたパン粉を落として、ポケットからキーホルダーのついた鍵を取り出した。チリン、チリン、と小さな鈴が可愛らしい音を鳴らす。
若菜の顔の前でぷらぷらと揺れるそれは確かにこの部屋の合鍵であるらしく、見慣れたものと同じ造形をしている。ような気がしないでもない。
驚きが一周まわって冷静になってしまった。
「合鍵を玄関に置いておくのもどうかと思うし、なくなってることに気づかないのもどうかと思うよ」
合鍵を勝手に持ち出したあなたがそれを言いますか。勝手に持ち出したから言うのか……
ここで押し問答しても仕方がないので、とりあえず玄関を上がり、スーツのジャケットを脱いだ。どれだけ効果があるのか分からない消臭スプレーも忘れない。
油の音を聞きながら、二十三時近くなってから食べるようなものじゃないよな、と思うも、五感を通して食欲に訴えかけてくるそれらに、先ほどから口内の唾液が止まらないのも事実だ。
発泡酒をあけるか、ハイボールにするか、悩みどころである。
着替えたり顔を洗ったりしているあいだに若菜の料理も終わり、テーブルの上には所狭しと肴が並んでいた。
先ほど見えたきんぴらごぼう、上にかかったチーズがとろりと溶けたジャーマンポテトのような一品、スーパーの惣菜とは明らかに違う磯辺揚げ、そしてハムカツ。
「美味しそう」
「美味しいよ」
口角を上げた若菜が差し出した缶を受け取って、何も考えずにプルタブを引く。プシッと良い音がなって、缶のなかに空気が入り込むような指先の感覚。
「あ、ビールだ」
「プレミアムだよ、プレミアム」
若菜に一挙手一投足を観察されている気がする。そうニコニコとされても、面白いことなどできない。
帰り際、わざわざ合鍵をくすねていったということは、最初からこのつもりだったのだろう。なにを考えているのかまったく分からない。
だって、どうせ明日の朝にはまたいなくなっているのでしょう。
「今日もお疲れさま」
かん、と気の抜けるような音。グラスに注ぐことすらしない、ズボラな乾杯と労いだった。
「はは! なにその顔!」
「……若菜が意味不明だなって考えてた顔」
「宿代がわりに晩酌のお手伝いでも、と思って。台所見た感じ、きみ毎日飲んでるでしょ」
言い訳をさせてもらうと、食料がないわけではない。乾物やら、缶詰やら、瓶詰めやら、そういう類いのものは常備している。
「食べ物の話だけじゃなくてね? なにあのデカいウイスキー。あんなの一般家庭で見たことないんですけど」
「実際業務用だし……」
「業務用だし……じゃねぇ! ほぼなくなりかけってのが一番ヤバいから!」
業務用の五リットルウイスキー。上についているポンプ式ディスペンサーは別売りなのだが、あまりにも快適すぎて一生手放せない。
呆れるわけでもなく、怒るわけでもなく、どこか面白がっている様子の若菜に、とりあえず笑って誤魔化した。
促されるまま料理に箸を伸ばす。変な組み合わせだが、どれも肴としては満点だ。強いて言うなら、ジャーマンポテトが重たそうかな、というくらい。
まずは揚げたて。箸で挟んだ分厚いハムカツに齧り付く。ハムカツにしては厚すぎるし、想像以上に重量感たっぷり。歯がサクッとした衣をこえて、柔らかなハムに突き刺さる。
酸味のあるとろりとしたものを感じた瞬間、あまりの熱さに悶絶した。
「あっふ! あふい!」
はふはふと咀嚼しながら、舌を焼いたそれの正体を探っていく。トマトらしき酸味と、オリーブオイルの香り。これは玉ねぎとズッキーニかな。
「おいひい……けど、これなに?」
かじりかけのハムカツから顔を出しているのは、赤いソース。玉ねぎやズッキーニだけでなく、どうやらピーマンも入っている。
トマトベースなのは間違いない。
「ラタトゥイユ」
「なんかお洒落な名前出てきた」
「フランスの料理だよ」
名前くらいは聞いたことがあるが、そうしょっちゅう食べるようなものでもない。
今度は用心深く冷ましてからかじりついた。中のラタトゥイユが垂れてしまわないように顎をあげる。
中に入っているラタトゥイユはオリーブオイルやニンニクの香りがするものの、あっさりとした風味で、衣の油と厚切りハムのコッテリとした強さを上手く逃してくれる。
口の中に残る油とトマトを冷たいビールで流すと、思わず鼻から吐息が漏れた。
最強の組み合わせじゃん……
口内をいきなり和に変えることもできず、気分のままジャーマンポテトに手を伸ばす。
つまんだじゃがいもにまとわりつくように、溶けたチーズが長く伸びる。伸び切ったチーズを口から垂れ流すのも嫌なので、くるくると巻くように引き上げてから口に放り込んだ。
チーズとじゃがいもの相性が良いことは、現代社会においてもはや常識と言える。しかも、このふたつをさらなる力で結びつける調味料まで存在している。
口に入れた瞬間、私は勘違いに気がついた。ジャーマン?違う、ジャーパンだ、これは。
「これは……」
「明太マヨチーズポテト!」
「食材羅列しただけじゃんめっちゃうまい」
チーズで覆い隠された下に明太マヨ。奥の方に感じる香ばしさは醤油か。
ジャーマンポテトでなくとも重たい一品だったが、文句なしにビール用のツマミであった。
楽しげな若菜と、ひたすら食べては飲む私。晩餐は結局、夜の深い時間まで続いた。
明日なんか来なければいいって、私はあと何回思うのだろう。
眠るといつも夢を見る。内容はほとんど覚えていない。目が覚めたときにはかろうじて覚えているけれど、布団の中で映像を反芻しているうちにじわじわと朧げになり、ベッドから這い出るころには忘れてしまう。
今日も夢を見た。映像もストーリーも忘れてしまったけれど、唯一歯が抜けた感覚だけは残っている。
口の中にまだ、抜けた歯のごろごろとした違和感を感じた。
私は夢占いなど信じない。だから夢の内容を記憶していたとしても、絶対に検索なんかしてらない。もし検索結果が凶夢だったら、その日が丸ごと嫌な気分になるに決まっている。
だから、歯が抜けた夢の夢占いなんて絶対に検索しない。
「おはよ、熊ちゃん」
「ん、おは……えっ、若菜!? なんで!?」
「あはは、服きなよ。風邪ひくよ」
当たり前みたいな顔をして、若菜がテーブルに朝食を並べていた。
ご飯にお味噌汁に焼き鮭にサラダ。理想的な朝ごはんかよ。
「ほらぁ、寝ぼけてないで下着くらい着てくださーい」
「いや、ねぇ、なにしてんの」
「朝ごはん作ってるけど?」
作ってるけど? じゃない。
ヘッドボードに置いたスマートフォンを手に取って時間を確認する。まだ七時前である。
就職して以来、毎日のように十時出社を続けているとはいえ、こんなに早く起きることはない。現場に出なければいけない時は夜中の三時に家を出たりもするが。
それでも、二十二時に帰宅して『今日は早く帰れたな』と思うような生活だ。余裕さえあれば、日々ギリギリまで寝こけているのが当たり前。
昨晩も当たり前のように私と若菜は肌を重ねた。付き合っているわけでもないのに何をしているのだという話だけれど、若菜の雰囲気作りが上手いのか、たんに私が流されやすいチョロ女なのか、このままでは恒例化してしまう。
酔いと心地よい疲労感に目を閉じて、どうせ目が覚めたらまた独りになっているのだろうと思ったはずだ。引きずり込まれるように眠りに落ちたから定かではないが。
「朝、コーヒーで良かった?」
「あ、うん」
「いやぁ、まぁしかし……熊ちゃんの家は本当に嗜好品しかないね」
心配になるわ、なんてほざきつつ、棚から砂糖、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
この人、なんでここにいるの。
「顔洗ってきなよ。食べよ」
「あ、うん」
「あはは、さっきからソレばっか。熊ちゃんって朝弱いの? 高校の時はそんなイメージなかったけど」
布団から這いずり出て、もたもたと下着を身につける。ついでに胸中で文句を垂らす。
朝弱いっていうけれど、あなたね。私たち夜中の二時とか三時までセックスしてたんですよ。
なんとなくシラフで話すには気が引ける。勢いでセックスして以来三度目ともなれば、もはやこれはただの同級生ではなく、セックスをするフレンドなのでは。
寝起きの頭を無理に回転させていたら、目があった若菜がニッと笑った。
「染めなよ、プリンになってるから」
「あー、ね。めんどくて」
「高校の時も言ってたじゃん……」
染めるのが面倒なら、なんで金髪にしてるの。そう問えば、似合うでしょ? と返ってくるのだろう。
出会ったときから金髪で、再会してからも金髪。生え際に黒色が見えているから、地毛は日本人らしく黒いこともわかっている。
想像できないや、金髪じゃない若菜。
てっきり今日も独りかと思っていた。どうせ若菜はいないのだろう、と。
気まぐれにも程があるでしょうなんて心の中で文句を垂れつつ、軽くシャワーを浴びて、朝食の席につく。
幻ではない。朝のワイドショーを見ながら、日本は平和だね、なんて呟いている。
「いただきます」
「めしあがれー」
味噌汁を啜って、鮭の身をほぐして、白米を食べる。ああ、久しぶりにまともな炭水化物を食べた。
美味しい。
「どう? どう?」
「褒めてほしいの?」
「めっっっちゃくちゃ、褒めてほしい!」
ふっと笑いが漏れた。なんだかデジャヴを感じたから。若菜だなぁ、と思ったから。
それとやっぱり、胸に一筋の苦み。
「美味しいよ」
「でしょ? お嫁さんにするには最適解じゃない?」
気づいたら日本から消えている嫁のどこが最適解か。じゃあ熊倉の嫁になる? なんて冗談、口が裂けても言ってやるもんか。
「熊ちゃん、何時に家出るの?」
「九時……半、くらい」
本当は九時二十分に出ている。なのに、どうしてこの口は勝手に十分だけ上乗せしたのだろう。
「あー、もう少し寝かせといてあげれば良かったね」
「……シャワーも浴びたかったし」
そっか、と言って笑う。歯並びいいなぁ。
定期的にホワイトニングしていると言っても、煙草のヤニですぐに色がついてしまう私の歯とは大違いだ。
「今日は……」
たぶん、私はまだ寝ぼけているのだと思う。だって、お酒飲んでセックスまでして、そのうえ五時間くらいしか寝ていないし。
シャワーを浴びたけれど、目が覚めきっていないのだ。きっと、そう。そのはずだ。
聞くつもり、なかったのに。
「今日はどうするの、若菜」
するすると綺麗に鮭の骨を取り除きながら、若菜がこちらを見た。
自分で聞いたくせに。私が聞いたくせに。なんで、どうして、怖いと思うのだろうか。若菜がどんな顔をするか怖いって、なんと答えるのか怖いって、どうしてそう思うのだろう。
セックスしただけで勘違いするような女には、なりたくない。
「仕事場に顔出して、実家に寄るくらいかな。熊ちゃん帰り何時? なに食べたい? というかなに飲む?」
またツマミになるもの作っとくよ。
朝なのに。まだ朝なのに、明日が来なければ良いのにと、そう思った。
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