11 ◇

 さいッあくだ!

 最低最悪、なにもかもが最悪。


 起きたら昼をまわっていて、貴重な日曜の休日を無駄にしたことも。披露宴とその後の飲み直しでしこたま胃に入れたワインが暴れて、思い切り二日酔いになってしまったことも。

 相変わらず昨晩の記憶がはっきりしていることも。拒否するどころか、求めるように若菜を受け入れたことも。


 まるで痕跡を残さぬように、若菜の姿がどこにもないことも。


 なぜいない!

 なんなの、セックスした翌日は早起きして相手を放置するのがあいつの流儀なの。なにそのゴミみたいな流儀。

 私は若菜のオナホールか。人をオトナの玩具扱いしやがって。セックスがしたいだけなら、コンニャクに穴開けて指でも突っ込んでろ!


 空になったワインボトルや惣菜のパックは全てゴミ袋に片付けられていた。それぞれ丁寧に仕分けされており、使用済みマグカップも綺麗に洗われている。


 いらないからって自分のやつまで置いていくな。私もいらないんだってば。どうすればいいの、由紀と旦那の写真がついたマグカップなんて。しかも、ふたつも。由紀に着払いで送りつけていいかな。


 部屋はすっかり片付いているけれど、至るところに若菜のいた痕跡がある。ゴミ袋も、洗い終わった食器も、ハンガーにかけられた二着のドレスも。

 若菜が着ていたドレスに『クリーニング宜しく』と書いた付箋がひっついていて、さらに怒りが増した。せめてクリーニング代を置いていけ。


 腹が立ちすぎて、二回目のセックスとかどうでも良くなってくる。


 若菜がひとつのところにとどまれないのは、よく分かった。日本各地を歩き回っている様子を見ても、滞在時間はひどく短いもの。

 だからってさ、せめて起こしてよ。すぐに帰るなら帰るでいいから、せめて起こしてよ。


「さ、み……」


 違う!

 そうじゃない。寂しいわけじゃない。腹が立つだけだ。


「現地妻かよ……」


 文句を言ってやろうと取り上げたスマートフォンには、若菜からのメッセージが残されていて、私はフローリングに座り込んだまま奥歯を噛み締めた。


 別に泣きたいわけじゃない。




 週明け、まったくやる気が起こらずに昼過ぎに出社という殿様出勤をやらかした。

 アシスタント時代ならありえない所業だが、そもそも仕事さえきちんと回して利益を上げていれば、そのあたりは自由がきくのだ。


 入社から真面目に十時出勤をこなしていたために、同僚や上司から無駄に驚かれる羽目になった。たしかに、私が出社時刻をずらすのは現場があるときくらいだから、そりゃ驚かれもする。


 ゴールデンウィーク前に若菜と再会して以降、気付かぬうちに諸々と乱されているような気がした。最悪だ、なにもかも。


 メールに添付されていたURLを開き、別のメールで送られてきたパスワードを入力する。ファイルのダウンロードを始めたところで、頭を捻った。


 サイズが大きい。


 新規案件の依頼で、大手企業がいくつもスポンサーになっているという話は聞いていた。お盆の時期にぶつけた、久々の大規模案件だ。

 どれぐらいフィーを抜けるかな、とちょっとだけワクワクしていたのだが、企画書のファイルサイズだけで血の気が引いている。


 イベントの内容、先に聞いておけば良かった……


 この案件を回してくれたのは、アシスタント時代からお世話になっている映像関連会社の広報さんだ。

 当時は上司の名で受けた案件の手伝いをしていたのだが、何を気に入ってくれたのか、以降私の名で仕事を回してくれるようになった。


 私が初めてひとりで担当した仕事も、この人から受けたものだったと思う。


 mainとつけられたPDFを開いて、思わず頭を抱えた。写真と文字を目で追って、また頭を抱える。


 こんなの、ひとりで回すのは無理だ!


 急ぎ資料を印刷して、ホチキスでとめることもしないまま、上司のデスクに走る。


「平林さん! 誰かアシスタント貸してください!」

「ど、どしたの、はるちゃん」


「転けられない仕事、来ちゃいました……」


 勢いに押されてたじろぐ上司に、二十枚にも及ぶ資料を押し付ける。

 小さいイベントを大量に受け持って、安いフィーでなんとかもっているような、自転車操業の会社に回していい仕事じゃない。そもそも、こんなものもっと以前から声を掛けてくれないと困る。


 イベントの日程は三日間。高規格キャンプ場を貸し切って、三日間通しで多数の映画を放映する。いわゆる野外映画フェスというやつ。


 会場はすでに押さえていて、映画の誘致も終えている。

 そうだ、電話で新規案件の依頼をされたときに言っていた。


『お願いしていたフリーのひとが倒れちゃって、復帰が見込めない。途中からでちょっと面倒かもしれないけれど、代打をお願いできないか』


「はるちゃん、いま何やってるんだっけか」

「SID社の化粧品のやつと、熱海の旅館のやつと、東北ご当地グルメと、日本酒フェスと、ゴールデンウィーク案件の片付け」


 平林さんがパソコンの画面で案件稼働表を確認しながら、悩むように左耳を擦る。


「タケくーん、はるちゃんの熱海と東北代わってあげて。ヒガちゃんはSIDと日本酒手伝ってあげて。コウチ、いま何やってる?」

「あ、タケトさんとヒガさんのリストを……」


「タケくん、ヒガちゃん、それ急ぎ?」


 平林さんが私の仕事を勝手に振り分けていく様子を突っ立ったまま眺めて、こっそりとため息をもらした。

 入社当初、私がアシスタントとして初めてついたのが平林さんだった。モンスターだとか猛獣だとか、社内でそんな呼ばれ方をしているものの、売上成績が良すぎて誰も何も言えずにいる。


 平林さんが辞めさせたアシスタントは数知れず。


 新人を彼の下につけると、そのモラハラに耐えきれず、だいたい一年もせずに逃げていく。夜中の二時過ぎまでふたりきりで残業して、そのあと夜が明けるまでネチネチと説教される、なんてことがしょっちゅうあるのだ。

 辞めていく彼らを引き止めることも、責めることも、できやしない。私だって何度も辞めようと思った。不規則な生活リズムや、人格まで否定されるような平林さんの言葉。

 残業終わりのタクシーの中、窓の外を流れる深夜の景色を目にして、なぜか涙が溢れたことだって一度や二度ではない。まぁ、あれは生理中でメンタルがガタガタだったというのもあるけれど。


 辞められなかったのは、辞める勇気すらなかったから。"たった一年も続けられずに辞めるなんて"、"こんなにすぐ辞めたら再就職が大変だから"、"せめて三年は続けろとよく言われるし"。

 もう少し、あと少し。キリの良いところで、繁忙期をズラして、新人が増えたら……


 一年経って、三年経って、少しずつ私の名前で仕事を受けられるようになって、気づいたら名刺の役職からアシスタントの言葉が外れていた。


 六年経った今、平林さんのネームバリューを使わずして、私の仕事が取れるようになったのに。


 "私の仕事"が、糸を抜いた麻布のようにバラバラと解されていく。それは構わないのだけど、なんだか釈然としない。

 私は『アシスタントを貸してくれ』と言ったのだ。仕事を勝手に振り分けてくれ、なんて言っていない。

 

「夏の繁忙期の入り口って感じだなー。よっしゃ、久々の大仕事、みんなで乗り越えよう!」


 皆が各々返事をする中で、私は結局なにも言えずにいた。


 そうだ。そうだよ。ひとりで何本も案件を受け持つより、手伝ってもらったほうが効率よく回せるのだから。

 早く帰れるし、進行のスケジュールだってキツキツにせずに済むし、良いこと尽くめだ。


 そうに決まっている。

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