10 ◆
私が二年生になれば由紀も二年生になるし、若菜も二年生になる。当たり前だけれど、二年生だった先輩は三年生になる。
顔も知らない三年生の幽霊先輩たちは、私たちの知らないところで勝手に卒業して、顔も知らない一年生の幽霊後輩ができていた。
何人かは見学に来てくれたけれど、真面目に活動していない様子を満足げに眺めて、気づかないうちに入部していたり、していなかったり。
外部受験組の先輩は、今年に入ってから部室にあまり顔を出さなくなった。
私と由紀みたいに部室をカフェ代わりにする一年生がふたり、ときおり若菜がやってくる。実質、活動している部員は五名。所属者数はなんと、脅威の三十一名。
最悪だ。今年も文化祭で展示をやらなければいけない。由紀は一年生に任せればいいよ、なんて言っていたが、私たち以上にだらけた様子を見るに期待は出来なかった。
肩に学校指定のカバンをぶら下げて、散歩する気分で廊下を歩く。
窓の外に見える桜の木は、桜だったのかも分からないほど青々としている。夏も目前、数学が急に難しくなった。
どうせ私は内部推薦狙いだし、そこそこの成績が維持できれば文句はない。私が創園大に行こうとしていることを両親も知っているから、予備校の話なんかも我が家では出てこない。
けれど、一年の頃にそれなりに良い成績を叩き出してしまったせいか、なんとなく試験勉強を疎かにする気にはなれなかった。
文系脳の私にとって、数Bは鬼門だ。
分からないところを先生に聞きにいく気にもなれなければ、だからと言って切り捨てることもできやしないのが私。一度授業を聞いただけで理解できる脳みそが欲しかった。
それなら、人生ももっと楽だったのに。
職員室の部室キーボックスに鍵がなかったから、すでに誰かがいるはずだ。
たまにカバンだけ置き去りにされて誰もいない、なんてこともある。まぁ、なにをしようと自由だろう。
からからと扉を開ける。
「あれ、先輩」
「はるちゃん、おつかれー」
「予備校は?」
今日はサボり、と言って、受験勉強に本腰を入れたはずの先輩がゲーム機を長机に置いた。
最近はモンスターをハントするゲームにハマっているらしく、勉強が手につかないなんて嘆いていた。スタンとった、とか、尻尾切った、とか、たまに部室で由紀と騒いでいる。
「たまには息抜きしないとね。本番はまだまだ先ですしー」
「先輩、志望校どこだっけ」
「中大!」
あぁ、と頷いたけれど、どれくらいのレベルなのかは知らない。創園大より上なのか、下なのか、それも分からなかった。
定位置のパイプ椅子に座ると、するすると先輩も寄ってきた。
私の肩に顎をのせて、カバンから数Bの教科書とノートを出す様子を見ている。観察されても、面白いものなどひとつもないのだけど。
「部長さんは真面目だねぇ」
「ふつう引退まで先輩が部長のはずでしょ……なんで私が……」
「はるちゃんが真面目だから?」
活動内容ゼロの世界遺産研究部にも、部長、副部長システムは存在している。
去年までは卒業した三年生が務めていたらしいが、名前を聞いても、まったく記憶にない人であった。そりゃ、一度も部室に来ないんだもの。仕方ない。
自動的に先輩が部長になるはずが、私のあずかり知らぬところで勝手に部長にされていたのは、正直いまだに納得できない。
「はるちゃん、彼氏いたことある?」
「ない」
「だよねー!」
なんでそんなに嬉しそうなんですかね。
初恋はいつかと聞かれたら、まだ、と答えるほかない。
小学生の頃から男の子が苦手なんだから、好きになれる人がいるはずもなく、私が思い浮かべる恋愛といえば小説や漫画に出てくるいかにもなファンタジーであった。
「好きな人は?」
「……先輩は?」
「ふふー、どうだろうね!」
あぁ、いるんだね。言わないけれど、そういう顔をしているし。
聞いて欲しいのだろうとも思うが、先輩の恋愛話なんて聞かされても気まずいだけだ。
女の子は恋バナが好き。うそうそ。私は嫌いだ。
聞いているだけで居た堪れないような、恥ずかしいような気持ちになる。誰々ちゃんと何々くん、付き合ってるのかな? とか、本当、やめて欲しい。
当人たちだって、放っておいて欲しいだろう。私だったら放っておいて欲しい。
「ラブレターって今どき古い?メールの方がいいかな」
「え、どっちでもいい……」
「はるちゃんだったら、どう思う?」
恋愛未経験で、恋に憧れがないような私に聞かないで欲しい。
メアドを交換している男子はいないし、ラブレターなんてもっと困る。
誰に告白されても百パーセントお断り。される予定もないけど。
「直接……とか」
「やっぱりそうだよねー……あー、どうしよっかな」
無理矢理捻り出した解答は、どうやら正解だったらしい。
首元にぐりぐりと額を押し付けられて、ちょっとくすぐったかった。薄手の夏服ごしに感じる柔らかさに落ち着かない。
誰かを特別に好きになる。
それはいったい、どんな感覚なのだろう。
好きになって、恋人になって、何をするのだろう。
たとえば、手を繋ぐ。たとえば、キスをする。
恋人になったら、エッチなこともするのだろうか。まぁ、うん、するんだろうな。
先輩も告白がうまくいったらするのかな。するか、女子高生だし。
あぁ、やめやめ。想像してしまったら先輩に申し訳ない。
想像しかけた映像を振り払って、ついでに先輩を引っぺがした。先輩のせいで変なことを考えそうになった。
「購買で飲み物買ってくるけど、先輩もなにかいる?」
「いらなーい。ありがと!」
ひらひらと手を振る先輩に手を振りかえして、短い散歩に出かけた。やっぱり私に、恋バナは向いていない。
第一音楽室から聞こえる吹奏楽部の騒音と、第二音楽室から聞こえるギター部の騒音。気持ちの悪い不協和音。
男子剣道部の一団とすれ違って、忍者ばりの俊敏さで壁際に退避した。
男子剣道部の顧問は一応世界遺産研究部の顧問でもあるのだが、どうせ私の顔なんか覚えてもいないだろう。私だって、その先生の担当教科が政治経済ということ以外、ほとんど知らないのだから。日本史選択クラスの私には縁がないのだ。
廊下に張り出されている『創園新聞』と『創園速報』を横目で流す。新聞部と報道部がそれぞれ刊行しているもので、たしか速報の方が報道部のものだったはず。
演劇部の公演ポスター、保健便り、全国模試、バトン部の部員募集ポスター……
思い切りドアが開け放たれた部室から、ぼそぼそと話し声が聞こえた。
「……っ、なるちゃんは……」
私、今なんで隠れた?
部室には先輩と若菜がいて、先輩が泣いている。音だけで分かる情報はそれだけ。
私はまた忍者みたいに気配を殺して、扉の横に張り付いていた。
だって、誰かが泣いているところに突入するのは気まずいし。
でも、どうして若菜……?
私が部室を出るまで、先輩は普段通りだった。否、私なんかに恋バナを振ってきた時点で、普通ではないか。
私が泣かせた?いやいやいや……
でも、どうして若菜……?
恐る恐る中を覗き込むと、若菜の肩に顔を埋めるようにして泣いている先輩と、その背中を優しく撫でる若菜がいた。
音にならない言葉で、若菜が「先輩」と紡ぐ。
先輩の「好きなの」という言葉と、私が逃げ出したのは、たぶん同時だった。
カバンも、携帯も、机の上のノートと教科書も、なにもかもを置き去りにして、私は走って逃げた。あの場から、頭を渦巻く思考から、私はただ、逃げた。
先輩が好きなのって若菜なの?いや、違う、きっと恋愛相談をしていただけだ。その流れで、泣いただけ。泣いた先輩を、若菜は慰めていただけ。
先輩と若菜、付き合うの?女同士なのに?いや、先輩の好きな人が若菜だと決まったわけじゃないし。若菜だって、女が好きなわけじゃないだろうし。
うそ。知らない。若菜がどんな人を好きかなんて、私は知らないじゃないか。
じゃあ付き合うの?それも知らない。あの二人にしか分からない。
若菜も恋とかするの?
誰かと手を繋いだり、キスしたりするの?あのギターを弾いて、恋愛ソングを歌ったり、好きって……口にしたり。
それで、若菜も誰かとエッチなことしたりするの。
誰と?先輩と?女同士で?
違う。違う。違う!
友だち相手に何を考えているのだ。
そうだ。そうだよ。
普通に恋愛相談して、それで、普通に慰めていただけ。ふたりとも女だっていうのに、何を。
そうだ。うん、そう。
先輩と若菜は、普通に部活の先輩と後輩で、こんな想像をするほうがおかしい。私が間違えている。
でも、そうだよね。
若菜だって、いつかは誰かと付き合って、キスしたりエッチなことしたりするはずだ。もしかしたら、もう彼氏とかいるのかもしれないし……
それできっと、恋愛経験のある若菜に、先輩は相談したのだ。そうに違いない。
どういうルートで辿り着いたのか思い出せないまま、気づいたら私は文化館の資料室で頭を抱えていた。冷たかったはずのミルクティーはとっくに緩くなっていて、飲む気にはなれない。
若菜が教えてくれた世界遺産の名前、なんだっけ。食人文化とか、怖いこと言っていたやつ。忘れちゃった。
埃臭い。去年、若菜と来たときは、そんなこと思いもしなかったのに。
人の来ない薄暗い資料室で、若菜も彼氏とこっそりキスしたりするのかな。
あぁ、やだ。やだ。やだなぁ。
何を考えているのだろう、私は。
あーあ、バッカみたい、本当。
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