9 ◇
「そうだ、あんたの名前、鳴海だったね」
「え、熊ちゃん……まさかとは思うけど、忘れてたなんてことはないよね?」
「いま思い出しました」
受付で名乗っているのを聞いて、十年ぶりに若菜の下の名前を思い出した。
そもそも十年も音信不通だったくせに、名前を忘れていたくらいでどうこう言わないでほしい。忘れてほしくないなら、絵葉書くらい書いて寄越せ。
「熊ちゃん、そういう格好すると綺麗だね」
「その言葉は由紀に言ってあげて」
こういう格好をしていないときは綺麗じゃなくてすみませんね。
就職してからは見た目に気をつかう余裕なんかなくて、かろうじて適当に化粧をするくらいだった。同じように多忙にしている同年代の女性でも、綺麗にしている人はたくさんいる。
忙しさを言い訳にするのは、さすがの私も恥ずかしい。
「はるちゃーん、なるちゃーん!」
「先輩だー! 久しぶり!」
「ねぇ、はるちゃん今、誰? って顔したでしょ」
していない、はず。
たしかに一瞬この人誰だっけ、とはなったけれど、顔には出していない。
大学を卒業してすぐに結婚して、すでに子どもが二人いるのは聞いていた。上の子が五歳だっけ。
しかし、まぁ、それにしても。
「十五キロ増えました!」
「あはは! 子どもひとりぶんじゃん!」
「失礼な、さすがに三人目は宿してないよー」
都心の高級ホテルなんぞ、こんな機会でないと足を踏み入れることもそうはない。由紀は『憧れのホテルウェディングだよー』と言っていた。
ウェディングに対する"憧れ"がアップデート出来ていないのか、それを聞いたときに私は『憧れって、ハワイ挙式とかじゃないのか』なんて思ってしまった。
先輩と若菜に挟まれる形で座り、こっそりと挙式会場を観察する。会場はホテル内の小さなチャペルだが、人前式だと聞いている。
何回か参加した結婚式のなかでも、人前式は初めてだった。
神ではなく、立会人のもとに誓いを立てるのだそうだ。
先輩と若菜の会話を、なるべく意識しないように聞き流す。右から左へ、左から右へ。気にならない、気にならない。
このふたり、結局どういう関係で、どうなったのだろう。
若菜は高校卒業後すぐに音信不通になったし、先輩は既婚者である。なんのわだかまりもないのかな。
気にしたら負け。
気にしたら負け。
綺麗なウェディングドレスを着た由紀と初めて顔を知った新郎が、どうでもいい誓いの言葉を交わすところを、左右に気を取られながら、ただ眺めていた。
「あはははは!やべー、超いらないなんだけど!」
「ユキ、アンド」
「H I S A Y U K I !」
引き出物のマグカップを手に持って、若菜とふたり、ゲラゲラと笑い合う。
大口をあけて、それはそれは汚い声で喚いた。
あまりにも下品な所業だが、下品も品のうち、ということで。
「熊ちゃん、これでワイン飲もう」
「使うのかよ」
「飾るわけにいかないでしょ、こんなの!」
それはたしかに。
由紀と旦那の写真がついた、どうして保管して良いものか分からないマグカップに血のような液体が注がれていく。近くのスーパーで買った、金額が四桁もしない安い赤ワインだ。
引き出物のメインはおそらくこの分厚いカタログで、マグカップは由紀たちの悪ふざけなのだろう。
由紀本人からも「笑ってもらえると思う」と言われていた。
結婚式そのものはとても良い式だったと思う。小規模で、泣かす場面もあれば、和気藹々と楽しむ場面もあり、まさに由紀らしい結婚式。どうか幸せになればいい。
私と若菜と先輩は披露宴の際に同じテーブルで、ドン引きする先輩を横目にふたりでしこたま酒を飲んだ。
明日は休みだし、しかもタダ酒だもの。飲まないわけがない。
料理はお洒落なばかりで、ぜんぜん腹の足しにもならず、結局こうしてスーパーマーケットで買った惣菜をツマミに飲み直している。
なぜか当たり前のように若菜が付いてきて、ドレスのままスーパーに寄ったときも、玄関の鍵を開けたときも、ドレスを脱ぎ捨てたときも、まるで「約束してたでしょ」とでも言うような顔で隣にいた。なんでいるんだろう、この人。
マグカップに並々と注がれたワインはブドウジュースのようで、こうしてみると酒には見えない。
「んー……そこそこ旨い」
「侮れないよね、スーパーのワイン」
「分かる。あ、熊ちゃん、スルメ炙って」
渡された分厚いスルメイカをライターで適当に炙る。剥がれかけた皮に焦げ目がついて、くるりと丸まった。
香ばしくていい匂い。でも、ワインに合わせるものじゃない。
「はい」
「わーい、さんきゅ。スルメうま……うわ、ワインあわねー」
「だろうね」
熊ちゃんも食べる? と差し出されたが、合わないと分かっているのに食べるはずがない。
というか、そのスルメは私が晩酌用にストックしていたはずのもので、今日のために買ったものではない。
大特価の大袋だから良いんだけどさ。遠慮とかないの、この金髪。
「若菜、来ないかと思った」
「んー? どうしようかと思ったけどね、ま、一回東京に戻るつもりだったし」
結婚式のために新調した安いドレスは床に散らばり、お互い楽な寝巻き姿にお色直しを済ませている。
高校生の頃は、自分がこんなドレスを着る姿なんて想像もしていなかった。由紀が結婚するところも、私が社畜になっているところも、先輩が太ってしまうことも、同級生と事故ってセックスすることも、なにも想像していなかった。
唯一、若菜だけはあの頃そのままの印象で、そのことに胸のどこかで苦味が走る。
変わっていないものなんて、同じものなんて、本当はひとつもない。若菜だって、もう大人だ。変わってしまったことを悪いことだなんて思わないけれど、だからと言って成長だとも思えない。
ちぐはぐで、なにかがズレていて、噛み合わない。
変わっていないように見える若菜と、擦り切れたボロ布みたいになった私。
少しだけ生活に疲れた先輩と、諦めと幸福を掴んだ由紀。
「ははっ、熊ちゃん、酔ってる目ぇしてる」
「酔ってるから」
そういう若菜こそ、先ほどから頭がふらふらと揺れている。そのくせ、あぐあぐとスルメを齧るのはやめない。
あの口とキスをしたんだよね、そういえば。いまキスしたら、最悪な味がしそうだ。
なんか、変な感じ。
なぜ私は受け入れたのだろう。拒否できたはずなのに。シャワーを浴びた時点で、お互い酔いなんて本当は醒めていたはずなのに。
なんで若菜はキスをしたの。なんで若菜は私に触れたの。
なんで若菜は帰ってきたの。
なんで。なんでいなくなったの。
「若菜って女が好きなの」
「んー、どうだろうね。考えたことないや。日本人が一番だなって思ったけど」
その言葉で、若菜が世界をふらふらと歩いているときに、いろいろな経験をしたことを感じとってしまった。
揺れそうな心で、男も女も経験あるんだねってそう思ったけど、言えやしない。
私は、一回セックスしたくらいで勘違いするような、馬鹿な女じゃない。馬鹿な女じゃないはずだ。
「熊ちゃん」
もうひとつスルメを炙ってやろうと伸ばした手を、若菜が掴んだ。ギターの弦を押さえる、指先が硬くなった若菜の手。
ぐいと引き寄せられて、私はなんの抵抗もしないまま若菜とキスをした。
なんでよ、いや、本当に。
スルメと赤ワインの組み合わせは最悪で、そういえば今日はぜんぜん仕事のことを考えなかったと、場違いに思い出した。煙草も、吸っていないや。
若菜が私に触れるのは酔っているから。
私が抵抗しないのは酔っているから。
今晩のこれも、たぶんただの事故。
先輩とのことを聞きたくて、過去を掘り返すような面倒くさい女になりたくなくて、違和感だらけの若菜とのセックスはただ気持ちが良いだけだった。
あーあ、バッカじゃないの、本当。
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