6 ◆
夏休みの真っ只中に、私はひとつ真理を得た。
どうやら私は、学校を楽しいと思っていたらしい。否、眠気を誘うばかりの授業でも、退屈を持て余す教室でもなく、あのだらけきった世界遺産研究部を。
とくに何をするでもなく、本を読んだり、課題をしたり、ボードゲームをしたり。そんな時間を、私は楽しんでいた。
十六年間、その殆どが学校という空間に覆い尽くされた時間の中で、私は初めて"早く学校に行きたい"と思ったのである。
職員室の『部室キーボックス』に鍵がなかったので、誰かが既に部室にいることは分かっていた。
と言っても、由紀のクラスはまだHR中だったので、先輩しかいないのだけど。家族旅行のお土産、最初に渡すのは先輩になりそうだ。
「先輩、おつかれさ……」
「熊ちゃん、おひさ。先輩じゃなくて悪いね」
「……若菜さん、珍しいね」
そこにいたのは、二ヶ月ぶりに見る若菜さんだった。
突然他人行儀!なんて笑われても、私と若菜さんのあいだには、あまり接点がない。仲良く会話をした記憶は、残念ながらなかった。
接点といえば、私が若菜さんの金髪を盗み見て、ときおり目があうくらい。若菜さんがいるとつい目で追ってしまうのは、もはや仕様と言っていい。私の意思じゃない。
どうせ、よく目があうな、としか思っていない。私だって不思議なんだから。
「ギター……」
「うん。中学の頃からやっててね、カッコいいでしょ」
彼女の目の前に広がっているのはいつもの世界遺産資料ではなく、いくつかの楽譜だった。音楽への造詣が微塵もない私には、それがどんな曲を奏でるのか予想すらできない。
若菜さんの膝に抱えられたギターはエレキギターではなく、フォークシンガーなんかが持っているアコースティックギターだった。ギターの種類についてはよく知らないけれど、たぶんアコースティックギターだと思う。
所々にキズがついていて、一部擦り切れたような跡は、きっと練習の軌跡。ギター部とか軽音部とか、音楽系の部活と兼部でもしているのかな。
「熊ちゃんのために一曲歌ってあげよう」
「え、いらない」
「まぁまぁ、遠慮せずに。ほら、座って」
促されるまま定位置のパイプ椅子に座り、気乗りしないまま若菜さんの姿を眺めた。
金髪と、吊り上がった細い眉と、ギター。なんだ、世界遺産の雑誌よりこっちのほうがずっと似合う。
ギターを抱えた若菜さんは、ちょっとだけ格好良く見えた。
若菜さんの指が、音を弾き出す。
すぅと息を吸って、静かに歌い出した。少し目を伏せて、薄い唇から紡ぎ出される言葉。
ギターも歌も、上手いのかどうかはよく分からない。だけど、なんとなくこの空間は心地良かった。
キラキラした金色を視界におさめる。目があっても、盗み見ている罪悪感がない。だって、今この瞬間、私と若菜さんは一対一で向かい合っていて、若菜さんのほうから私を認識したのだから。
思春期の葛藤をのせた、古いヒット曲。学校という狭い世界に嫌気がさして、大人と子どもの情緒の真ん中でもがく。入学早々、頭を金色に染めてきた若菜さんにピッタリだ。思春期のカッコつけ。
歌い終えた若菜さんが褒めて欲しそうな顔をしていたので、ぱちぱちと手を叩く。
弾き語りの評価なんてしたことないんだけどな。
「なんで尾崎豊?」
「熊ちゃん、尾崎豊の曲っぽいじゃん?」
「ちょっと意味がわからないです」
なに、尾崎豊の曲っぽいって。私そんなに思春期を拗らせているように見えるのかな。どちらかと言えばそれ、若菜さんのほうでしょう。
教室の窓ガラスを割ったり、盗んだバイクで走り出したり、僕が僕であるために勝ち続けたりしないけど。
「どうだった?」
「褒めてほしいの?」
「めっっっちゃくちゃ、褒めてほしい!」
ははっと笑って、少しだけ言葉を考える。感想文は苦手だ。心で感じたことを言葉にするのは、私にはひどく難しい。
どの言葉が適切か、どう伝えたらいいのか。原稿用紙の上で、書いたり、消したり。結局いつも、可もなく不可もない、つまらない言葉で埋め尽くされる。
つまらない私をまんま表現したみたいな、つまらない原稿用紙。
期待しているみたいな表情が可愛いな、と思って、その思考を追い出すように少し頭を振った。
若菜さんはきっと、世間一般でいう美少女ではない。でも、なんとなく可愛いと思ってしまう顔。こういう顔になりたいとか憧れるとか、そういうことじゃなく、垂れた目尻も、角度のついた眉も、なんか良いなって。それだけ。
見ていたくなる。
「良かった、と思う。なんとなく……ゆったりしてて」
「熊ちゃん、褒めるの下手すぎない?」
「うっさい。でも、うん」
私は好きだよ。そう言おうとした言葉を飲み飲んで、もう一度「良かった」と口にした。
好きだと言うのは、なんだか違う気がしたから。それを言うのは、ちょっとだけ、ほんの少しだけ、もったいないと思ってしまったから。
「また……聴かせて」
「もっちろん! 熊ちゃん好みになるように練習してくるよ」
「楽しみにしてる」
頷いた若菜さんの金髪が、またキラキラと光を溢す。その光は手で掬いあげられないものだろうか、なんて馬鹿なことを考えた。
だって、掬い上げてみたところで、どうせ指の隙間から溢れていってしまうのでしょう。
ギターをケースに仕舞う後ろ姿を眺めていたら由紀がやってきて、最後に先輩が来た。
このだらけきった時間を楽しみにしていたはずなのに、さっきの穏やかなキラキラが終わってしまったことを残念に思う、この気持ちはなんだろう。
お土産のお菓子は今日のうちに消化されて、だらだらと談笑して、そうして結局、今日も私は若菜さんの金髪を盗み見るのだ。
由紀はA組、若菜さんはB組。リスニングの授業中、校庭で行われている体育を眺めていたときに知った。
体育はA組とB組、C組とD組、それぞれ合同で行う。だから、由紀と一緒に体育を受けているということは、若菜さんはB組。
ちょっとだけ怠そうに校庭を走る。金髪はここからでもよく目立った。いくら染髪が自由とは言え、入学早々に脱色する勇気がすごい。
談笑しているのはクラスメートだろうか。大げさな身振りで笑って、知らない女の子の肩をたたく。また誰かが寄ってきて、今度は内緒話をするように耳打ちして小さく笑う。
特定の誰かといることはないけれど、ひとりになることもない。
なんだろう。輪の中にいるのに、若菜さんは輪の中でひとりだ。孤独じゃないのに、ひとり。
みんなが楽しくおままごとをしているなかで、仲良く会話をしながら折り紙を折って遊んでいる。そんな感じ。
教科書を読み上げるCD音源は、脳に留まらずに流れていく。リスニングは苦手。ただ覚えれば良いだけの教科とは違うから。
私が窓の外を眺めてしまうのはリスニングの授業がつまらないからで、けして金髪のせいじゃない。
夏休み明けの教室は、いつにも増して空気が弛緩している。みんなお昼ご飯を食べたばかりだから眠いのだろう。
教師が正しいのかどうかも判断できない発音で、リッスン、と言った。私のこれは、heard his voiceかな。
若菜さんが、すっと上を見上げて、また目があった。手を振られたけれど、私は見えなかったふりをして、教科書に目を落とす。
これはたぶん、seeじゃなくてlook。
I look at her.
Please,
Look at me.
中学英語かよ。馬鹿みたい。
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