5 ◇
なぜか路地裏で散々舌を吸われて、なぜか流されるまま若菜を自宅に連れ帰って、なぜか当たり前のように、私は若菜とセックスをした。
まったく意味が分からない。本当に、まったく。
いくら酔っていたとは言え、私たちは女同士だ。男女が酔って一線を越えました、とはわけが違うだろう。
風呂から上がって冷静になったと思ったのに、なぜあんなことになったのか。
起きたらすでに若菜はどこにもいなくて、腹が立つ前に夢だったのかとすら考えた。
けれど、どんなに記憶を改竄しようと試みたところで、体を這った若菜の手も、腕を回した体の柔らかさも、キスの時の酒臭さも、なにもかもが鮮明だった。
はる、はる、と名前を呼ばれるたびに居心地が悪くなって、それをやめろとぶん殴ったことも覚えている。
ふざけた金髪垂れ目は、それでも楽しそうに笑っていた。
考えれば考えるほど分からなくなった結果、私は昨晩のことを"事故"だと思うことにした。再会の雰囲気と酒気に酔わされて、足元が覚束なくなって、ガッシャン。
私と若菜は正面衝突。そのまま止まれずに、くんずほぐれつ、坂道真っ逆さま。
あれは事故。双方走行中だったため、損害はフィフティ-フィフティ。轢き逃げされた感は否めないけれど、まぁ、そこは勝手に示談成立ということにしておく。
お世話になっております、熊倉です。昨日お電話でお話しした件について、念のためメールでも確認させて頂きます、と、そこまで打ち込んで、メモを見返す。のちのトラブル回避のためにも、記載漏れは避けたい。リスクマネジメント、大事。
会場確保の日程と、座席数、出演者の予定人数、費用はちゃんとこちらのフィーを抜いた金額を口頭で伝えているはず。相違があればご指摘ください、の言葉を入れておけばいいか。
電話で話したからと言って油断していると、後々トラブルが起きた際に『言った、言わない』問題に発展する。本当は直後にメールを送るのが一番だが、昨日は早上がりをしたために時間がなかった。
どうせ途中で抜け出す羽目になったのだし、メールの一本くらい送ってから退社すれば良かったな。
カタカタとキーボードを鳴らす後ろで、後輩が電話口に向かって平謝りしていた。私に飛び火しませんように。
あぁ、くそ、腰が痛い。
若菜が無理な姿勢で足を開かせようとするから、変な筋肉を使った。
セックスなんて、大学生の時に短期間だけ付き合っていた男と一回したきりだ。
セカンドヴァージンというやつ。
若菜に初めて?なんて訊かれたが、ムカつくから処女じゃなくて残念だったね、と叩きつけてやった。
というか、なんで朝起きたらいないの。別にピロートークなんか求めていやしないけど、せめて一晩泊めた礼とかないわけ。
セックスがお礼代わりです、とか言ったら本気で顔面の形変わるまで殴ったかもしれない。若菜だったらヘラヘラしながら言いかねない。
あ、クソ、思い出したらムカついてきた。
バチバチとキーボードを叩いて、苛立ちを斜め方向に逸らす。
お互い酔っていたし、どうせ若菜も遊びのつもりだろう。起床後の挨拶は若干気まずいだろうけど、一回セックスしたくらいで勘違いするほどおめでたい頭はしていない。
いくら事故ったからって、わざわざ逃げることないのに。
震えた社用のスマートフォンを、ワンコールでとる。
「はい、熊倉です。お世話になっております……大丈夫ですよ。あはは、まぁ繁忙期なので。確認ありがとうございます。はいはい、末締め翌月払いにしてもらえれば。はい、ありがとうございます。あ、できれば今日中に郵送していただけますか?」
日曜に申し訳ありませんと言われても、世間様の休日に労働を費やしているのはお互い様。こちらこそ、日曜に仕事のメールを送って申し訳ありません。
卓上のミニカレンダーをちらりと確認する。
今日中に郵送してもらえれば、今月が終わるまでに届くだろう。
「いえいえ、大丈夫です大丈夫です。バイク便だと高いので……あ、はい、それでも大丈夫です。今日は社にいる予定なので何時でも。熊倉にと言って頂けたら対応いたしますので」
面倒くさ、わざわざ来なくてもいいよ……
とはいえ、請求書が間に合わなければこちらから向こうのビルに足を運ぶ羽目になったかもしれない。まぁ、いっか。
礼の言葉を適当に口にしつつ、メールを送信。TODOリストの、案件詳細メールとダンサー請求書の欄にチェックを入れる。
今日がイベント当日の現場からメールが飛んできたので、別案件のリストを作る前にそちらを確認する。
なにかトラブルが起きたのなら電話がくるだろうから、緊急ではない、はず。
設営の日雇いスタッフは遅刻もバックレもなく全員集合。良かった。
機材が別の場所に届けられるトラブルがあったため遅れが生じているが、予想の範囲内。こちらも良し。
他にも入場列や、屋台の出店など、順調に進んでいることが明記されている。
終了まで安心はできないが、大きな問題が起きる時はいつも開催直前だ。一息ついても許されるだろう。
後ろの後輩はまだ謝り倒している。お願いだから、本当、ぜったいこっちに飛び火させないでね。
ヘルプを求められないように、新規案件相談の電話をかける。私は忙しい、私は忙しい。
同時進行十二件だぞ、後輩のトラブルなんて請け負えない。
「あ、もしもしー、企画運営の熊倉ですがー。はい、お願いします」
さすがに入社六年ともなると、取引先に名前を覚えてもらえる。名前を伝えるだけで担当者に繋いでもらえるのは、手間がなくてありがたい。
エリーゼのためにを聞き流していたら、今度はプライベート用のスマートフォンが震えた。
『な。から新着メッセージがあります』
な。
誰。
『おはよ。飛行機の時間あぶなかったから、寝てたけど帰っちゃった。ごめんね。鍵ポストに入れたんだけどわかった?』
「わか、なッ! あ、スミマセン、もしもし! 熊倉です! いえ、すみません、気にしないでください、ほんと」
思わず声に出た。なんだ、示談の相談か……?
先ほど言われたばかりの「日曜に申し訳ありません」を口にしたが、案の定、向こうも出社しているのだった。
ひとまず若菜のことを脳内の隅に押しやって、新規のご相談をさせて頂く。先方の要望を最大限に汲み取り、リスクを回避しながら、実現可能なイベントに仕立て上げる。
そのためには嘘も方便。
「先方さんはこう言っていまして、本当に無理な話ですよねぇ。先方さんが無茶を言ってきたというのに」そう言った口で数分後には、「ええ、今回の件は会場側の不手際が大きいのですが、さすがに全て任せるわけにもいかなくて……どうにか費用をあげてもらうわけには……」なんてほざく。
空きっ腹にアルコールを入れた影響か、荒れた胃壁がキリキリと痛んだ。
あぁ、仕事辞めたい。
電話をしながら、現在話していることをメールに打ち込んでいく。通話を終えたら、『先程のお電話内容確認メール』を速攻で送りつける。リスク回避、リスク回避。
また、私用のスマートフォンが震えた。
『な。から新着メッセージがあります』いらねぇ!
『熊ちゃん』
『次のお休みいつ?』
聞いてどうするの。
というか、連絡先を交換した覚えもないのに、なぜ……
寝ているあいだに指紋認証を抜かれたとか?あぁ、もう! 昨晩、このまま帰ったらもう若菜に会えないかも、なんてセンチな気分に浸るんじゃなかった!
煙草吸いたい!
もはや精神安定剤と化しているアメスピの水色の箱を握りしめた。力を入れすぎたせいか少し潰れたけど、たぶん中身は無事なはず。
脳裏に、月明かりでさらさらと光る金髪が浮かぶ。あれは事故。
世間の嫌煙ムードと度重なる煙草の値上げで、一本の価値が爆上がりしてしまっている。まだ封を切ってすらいない真っ新なものを箱ごとどこかに落とした時は、本気の本気で泣いた。
やめられないな、煙草。たぶん、仕事を辞めないかぎりは禁煙すら不可能だろう。
目尻の垂れたそれを細めて、薄い唇の端をあげる。あれは事故。
電話を切って、メールに締めの言葉を入力して、そのまま送信。ヤバそうな誤字がなければいい。向こうだって忙しいのだ。そんな些細なことは気にしていられない。
仕事をしていると、脳のどこかがイカレるのか、たまに変なスイッチが入る。ニコチンはそれを全部なぁなぁにしてくれた。
私の頬に汗の滴を落としながら、はる、と呼ぶ。あれは事故。
TODOリストにチェックをいれて、ぎゅんっと立ち上がる。あ、腰と太もも痛ぁ……
ズキズキというか、ジクジクというか、変な怠さがあった。
まるで形を確かめるように、私の腰をさすった熱い手のひら。あれは事故!
スマートフォン二台と煙草を引っ掴んで、後輩のヘルプから逃げるように喫煙所に向かう。
名前も知らない事務の男に会釈をして、一本、火をつけた。
ゆらゆら。立ちのぼり、煙る。肺を汚すそれが、排気口へ吸い込まれていく。
ブーと震えたスマートフォンには、再三となる『な。』からのメッセージ。
今度は画像付きらしい。
『どこでしょう』
カレーの写真。銀のカレー皿に盛られたそれは艶やかな濃い赤茶で、肉がほろほろと崩れているのがうかがえる。写真だけですでに美味しそうだった。
どこって……こっちが聞きたい。
白いご飯の上に突き刺さるのは旭日旗。カレーと旭日旗ね。
海軍カレーだっけ?
『横須賀?』
一拍置いて、返事が来た。
『ざんねん!呉でした!』
広島ですか。飛行機って言ってたね、そういえば……
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