3 ◇

 十年ぶりとは思えない軽い挨拶をぶん投げてきたその人は、記憶の中とさほど変わりのない見た目で、ひとりだけ違う次元を生きているのかとさえ思った。


 目尻の垂れたそれを細め、ニッと笑う。細く吊り上がった眉は剃っているわけでも、アイブロウペンシルで描いているわけでもなく、生まれつき。


 相変わらず、歯並びが優等生ですこと。


「熊ちゃん、スーツだ」

「仕事帰りだから。若菜は……なんか、肌赤くない?」


「まーね、つい最近までハミルトン島にいたから」


 どこだそれ、と数拍考えて、ようやく合点がいった。


「オーストラリアか……」

「そうそう。ホワイトヘヴンビーチ!あー、ヘヴンとはまさに名の通りだなってくらい綺麗だったよ。二、三週間で帰ってくるつもりが、二ヶ月いたもんね」


 砂浜がさ、びっくりするくらい白いんだよ。そう言って、楽しそうに両腕を広げる。夏休みに海外行ってたんだよ、とでも言うような雰囲気だった。

 日に焼けても色素は沈着しにくいが、そのかわり真っ赤になってヒリヒリ痛むのだと言っていたような、いないような。十年も前の記憶などあてにならないから、私の思い違いかもしれない。


 腹立たしい。まったくもって、腹立たしい。


 若菜はいつもそう。いつだってひとりだけ楽しそうで、まるで私に……私に……やめやめ、考えても良いことなどありはしない。


「熊ちゃんにも見せてあげたかったな」


 ぶん殴ってやろうか、こいつ。


 するすると若菜に近づいた由紀が、パーカーのフードを思い切り後ろに引っ張った。ぐえっなんて変な声を漏らしながらも楽しそうにしている。


「十年も音信不通たぁ、どういうことですかねぇ!若菜くん!」

「ぐるじい、ぐるじい!原ちゃん、死ぬ!」


「いっさいの連絡なしとか、はるより酷いからね!反省して!」


 不思議だ。本当に若菜がいる。十年も音信不通だったとは思えないほど、まるでそんな時間はありませんでしたとでもいうように。


 会えたらいいなと思っていたから、たしかにこの瞬間は喜ばしいことのはずなのに、なんでだろう。なんでこんなにも……


「腹立たしい」

「え、熊ちゃんブチギレモード?」


「ねぇ、由紀。一回くらい殴っていいかな?」


 いいよー、と言いながら若菜を羽交い締めにするから、ゆっくりと近づきながら拳を振り上げていく。


「待った、熊ちゃん! 暴力反対! 連絡しなかったのは謝るから! その拳があなたの人生を壊しますって駅のポスターに書いてあった! 早まらないで、熊ちゃ……ん?」

「若菜」


 振り上げた拳を開いて、少し日に焼けた頬を包み込む。そっと優しく撫で、殴ったりしないよと微笑む。


 と油断させて、そのまま、べちん! と叩いた。


「いったぁ! なんで!?」

「腹が立ったから」

「なんで!?」


 なんでだろう。


 ケラケラ笑う由紀に合わせて笑ってみせれば、叩かれた頬をさすりながら若菜も笑った。

 笑うと目が細くなって、白い歯が覗く。それが、私は。


 思考をとめて、私は二人に背を向けた。


「お酒、とってくる」




 ホテルの会場を貸し切った立食パーティーだ。大学生の頃みたいに馬鹿騒ぎをするようなやつはいない。

 いい歳して酒で騒ぎたいやつらは、おそらく二次会で安い居酒屋にでもハシゴするのだろう。


 ワインでお腹を満たしながら、明るい会場を眺める。


 すでに家庭を持つ者、出世してバリバリと働く者、なかには起業して若き経営者となった者もいる。同窓会だというのに、ちらほらと名刺のやり取りをする様子まで見えた。

 目に映る光景すべてが、なんとなく気持ち悪い。なんだっけ、意識高い系ってやつだっけ。本当、嫌気がさす。


 私も何人かと挨拶を交わしたが、由紀が別グループにつかまった今、仲良く近況を語り合える友だちは皆無だった。

 若菜は若菜で、いろいろなところに顔を出しては場を盛り上げている。


 昔からそうだった。


 若菜は人懐こくて、いつだって周りに人が集まる。どこにいても人気者。そのくせ、ひとつのところに居付いたりはしない。

 校内で見かけるたびに違うグループにいたっけ、そういえば。孤立していないのに、一匹狼。

 場違いなパーカー姿のくせして、空気を乱さない。


 壁に寄りかかって、目を閉じた。眩しいし、疲れた。帰ろうかな。

 油断すると、すぐに仕事のことを思い出してしまう。明日のイベントは大丈夫だろうか、日雇いスタッフは全員集まるだろうか、当日着予定の機材は遅れなく届けられるだろうか。


 社用携帯に緊急の電話がありませんように。


「はぁ……」

「熊ちゃん、お疲れ?」

「……若菜」


 大量のローストビーフをのせた皿を持った若菜がいた。

 一切れフォークに突き刺して、私の前に差し出す。


「なに」

「あーん」


「……いらない」


 顔を背けても、ローストビーフがついてくる。

 ワインを飲もうとしたのにグラスを掻い潜ってまでストーキングしてくるから、もう一度引っ叩いてやろうかと睨みつけた。


「食べないと胃壁に穴開くよ」

「……もう一回開けてる」

「マジ!?」


 昨年の今頃だったと思う。


 ゴールデンウイークの繁忙期を乗り越えて、溜まった案件報告書の作成をしていたときに、急な腹痛に襲われた。ちょっと痛いどころの話ではなく、歯を食いしばっても脂汗が滲み、視界が薄らと霞むほどの激痛であった。

 検査したところ、胃にできた潰瘍が悪化し、文字通り穴が空いてしまったらしい。穿孔性潰瘍と診断された。


「お酒飲んで大丈夫なの?」

「好きなもの我慢して生きるより、好きなものを我慢しなかったせいで死んだ方がマシ」


 いくら体に悪いと言われようと、酒と煙草くらい好きに摂取させてほしい。酒や煙草なんかより、仕事のストレスの方がよっぽど健康に悪い。


 嗜好品すら禁止されたら、私はただの社畜になってしまう。


「熊ちゃん、ワイン好きなの?」

「蒸留酒のほうが好き」

「ウイスキーとか?」


 うん、と頷いたら、若菜はニッと笑った。


 くいくいとジャケットの裾を引かれ、半歩だけ距離を詰める。

 頭半分ほど高い位置にある顔を見上げれば、内緒話をするように小さな声で言った。


「お勧めのバーに案内していい?」


 どうやっても馴染めないキラキラな同窓会と、記憶の中と変わりない若菜。

 そんなの、若菜を選ばない選択肢以外、あるわけがなかった。




「それでさぁ、せっかくだからと思って、私も脱いで踊ったわけ」

「全裸?」

「ほぼ全裸。乳首丸出し」


 想像して、ははっと笑う。


 会場のホテルからさほど離れていない位置にあるバーは、カウンター席が十席ほどしかない小さな店だった。店内には私たちを含め、客は二組。曲名も知らない穏やかなジャズが心地よい。


「踊りながら泥を擦り付け合うの。意味わかんなくない?」

「分かんない。でも、若菜もやったんでしょ?」

「そ、ワニのお礼にね」


 連絡の取れなかった十年、若菜は世界のあちこちを旅していたらしい。いわゆるバックパッカーというやつだ。

 高校を卒業してから三、四年ほどがむしゃらに働き、そのときの貯金を持って身ひとつ、世界に飛び出した。

 帰国したらお金を稼いで、お金が尽きるまで気ままに出歩いて、また帰ってきて、また旅に出る。それを繰り返す。


 どこかの小部族にワニをご馳走してもらい、そのお礼も兼ねて宴で共に踊ったのだという。まったく意味が分からない。なにが分からないって、その行動力の源が。


「トラブルとか、大丈夫だったの?」

「生きてるからね、大丈夫っちゃ大丈夫だけど、ヤバいことも結構あったよ」


 ナッツをポリポリと齧りつつ、スコッチで喉を焼き、チェイサーのソーダでそれを流す。

 アルコールで焼けた食道が良い感じに熱くて、尾骶骨がジンジンとする。気持ちが良い。


「ロシアで誘拐されかけたり、標高六千メートルを車で一気に超えてゲロったり、荷物ぜんぶパクられたり、水にあたって二週間マーライオンしたり」

「よく生きてたね」

「あはは! ほんとにね!」


 胸にモヤモヤと不快感が広がっていく。


 私はたぶん、若菜が羨ましいのだ。どんなときも自由で、欲しいものに手を伸ばしていけるその力が、私は羨ましい。


 社会に出て変わった、なんてことはない。私はもともと、若菜みたいにはどうしたってなれない人種なのだ。

 あの頃から、若菜はずっと眩しかった。


 ちらっと腕時計を確認したら、それなりに良い時間になっている。


 できれば終電まで若菜の話を聞いていたいところだが、残念ながら私は明日も仕事がある。それも、カツカツの案件を抱えた繁忙期だ。


 本当は今日だって、早くあがったことにいい顔はされなかった。自分の仕事はキッチリこなしているのだから良いだろうと強気に出てはみたが、去年の胃潰瘍沙汰の申し訳なさも、正直まだ消えていない。


 仕事のせいで胃に穴があく。仕事にも穴をあけて、そのせいで強くなった風当たりに、また胃に穴があきそうになる。負のスパイラル。


「若菜、そろそろ」

「……もう少し、だめ?」

「明日も仕事だから」


 バーテンダーにチェックを伝えると、帰りの雰囲気を悟っていたのか、すぐに伝票が出てきた。

 何も言わずとも、会計が二人ぶんに別れている。ウイスキーの数も揃っていたし、本当に良い店だ。覚えておこう。


 立ち上がると、少し足元が揺れた。


「大丈夫?」

「ありがと」


「日曜なのに、仕事あるんだね」


 肘を支えてくれた手を、自然に引き剥がす。歩けないほど酔っているわけじゃない。


 財布から二人ぶんの金額ちょうどを出し、若菜に止められる前にキャッシュトレーを押しやった。良い店を教えてくれたお礼、ということで。


 ご馳走様の言葉に、軽く微笑んでおいた。


「業種的にね、あんまりカレンダー通りの休み取れないから」

「そか」


 日が落ちると随分と寒い。アルコールで体が火照っていなければ、寒さに震えていたかもしれない。

 トレンチコートの前を合わせて、駅に足を向ける。


 バーで軽快に喋っていた若菜は、嘘みたいに黙りこくっていた。視界の端で、若菜の背負ったギターケースがひょこひょこ揺れている。まだ、ギター弾いてたんだ。

 もともと、会話をすれば明るいが、ひとりで静かにしていることも多い人だった。そういえば部室でも、ただ黙って本を読んでいることが多かったっけ。


 土曜の夜らしく人通りの多い道を歩く。


 なんとなく、このまま別れたら若菜とはもう会えないような、そんな気がした。

 卒業を機に、誰との連絡も絶ったような女だ。次に会う時はまた十年後、いや、天国かもしれないな。


 手の甲が、分厚いパーカーの生地に触れる。


「熊ちゃん」

「……なに?」

「一人暮らし?」


 そうだけど、と返したと同時に、ぐっと強く腕を引かれた。

 抵抗する間もなく、ずるずると路地の隙間に連れ込まれる。


「な、に」


 脱色で傷んだ前髪に隠れて、若菜の顔が見えない。

 肩を押されて、ビルの壁に体を押し付けられた。


「ちょっと、若菜、なに、怖いんだけど」


 焦点のあっていないような目と、頬に触れた熱い手のひら。

 あぁ、こいつ酔ってるな、って思考が回ったのはそこまでだった。


「ごめんね」

「な、んん!? ん、ちょ、わか、んっ!」


 アルコール臭い酒気が口の中になだれ込んでくる。アルコールで痺れていたはずの尾骶骨が、違う意味でジンジンと響き出す。


 なに、なんで?


 都会のにおい、アルコール、海外製の柔軟剤。地面に落っことしたカバン、肩に触れるビルの壁。


 ぬるりと入り込んだ舌の感触に、私はなぜか目を閉じた。


 このときの私は、仕事のことなんかたぶん一ミリだって考えていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る