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世界遺産研究部、という謎の部活がある。その名のとおり、世界遺産に興味のある学生が集ってできた部活だ。名目上は。
初めは研究会だったらしいが、思いのほか部員が集まり部に昇格した。以来十年近く、再び研究会に地位を落とすことなく、部としての名前と小さな部室を守っている。
部員の数だけ見ても、現時点で二十五名。各学年、それなりに人数を集めている。
世界遺産に興味があるような意識の高い人間が多いとか、部活動の内容が面白いとか、そんな理由ではない。ただ単に、この学校が部活動必須というだけのこと。
この『世界遺産研究部』は、帰宅部群と呼ばれる部活のひとつである。
必ずどこかに所属しなければならないが、部活はやりたくない。そんな生徒のための受け皿。
「はるー、ココア消えた」
「由紀のお腹の中にね」
「上手いこと言えなんて誰も言ってませんー!」
ココアを飲むのは由紀だけだ。そもそも昨日、由紀本人がココア買ってこなきゃ、なんて話していた。
「はるちゃんは大人ぶってコーヒーだもんね」
「砂糖と牛乳必須だけどねー」
「先輩も由紀もうるさい。大人ぶってるわけじゃなくて、甘いコーヒー牛乳が好きなだけ」
ブラックコーヒーの美味しさは分からないけれど、そこに砂糖と牛乳を入れた途端、こいつは美味しい飲み物に変わる。
ブラックコーヒーを飲めることが大人で格好いいなんて思わないし、私は好きなものを飲んでいるだけだ。からかわれたって痛くも痒くもない。
部室に置いてある電気ケトルは、すでに卒業してしまった先輩が持ち込んだもの。ケトルの設置は学校側に許可されていないので、これは不法で持ち込まれたということになる。
普段は部室に設置されている鍵付きロッカーに、各自の飲料セットと共に隠されている。マグカップは全員持参だ。
先輩は紅茶、由紀はココア、私はインスタントコーヒー。そのほかにもティーバッグの緑茶や、ルイボスティーなんかもあった。
私のコーヒー用の牛乳は毎日購買で仕入れている。本当は冷蔵庫が欲しいのだけど、ケトルすら許可されていないのに冷蔵庫なんて許されるわけがない。
そもそも、こんな弱小部に冷蔵庫が買えるほどの予算など下りるはずがない。たとえ隠し場所があったとしても、自費で購入する羽目になる。
「今日も三人かぁ。何する?大富豪?」
「先輩、ウノやろ、ウノ」
「何枚かカード足りないんじゃなかった?」
一年の私と由紀、二年の先輩。二十五名も所属者がいるわりに、狭い部室でも全く困らない理由がこれだ。
帰宅部群のひとつ、世界遺産研究部の大半は幽霊部員である。名前だけ所属し、活動には顔を出さない。
私が入部したときから、この部室に顔を出すのは私を含めた三人か、たまにもうひとり来るくらい。
「はる、リバースもスキップもドロツーも足りない!」
「知らないよ……というか、たぶん数字のやつも何枚かないよ」
「せんぱーい、新しいウノ買おう」
そう言いつつも、数が揃わないカードを切り始める。
世界遺産研究部、略称はWHRS。普通に世界遺産研究部と言った方が早い。ワールドヘリテイジ・リサーチソサエティ、本当に誰が言い始めたんだか。格好つけてカタカナにしたくせ、猛烈にダサい。
「はるちゃん、部費でウノ買えると思う?」
「思いません、一切、これっぽっちも」
部費使用報告書に何と書けば良いのだ。
『品名 ウノ 娯楽費、使用目的 暇つぶし』ふざけている。来年から部費カット間違いなし。
「ということなので、新しいのが欲しかったら由紀ちゃんが自腹切ってね」
「諦めた」
ウノもトランプも人生ゲームもオセロも、全て歴代の先輩が持ち込んだものだ。
雀の涙ほどしかない部費は、名目を保つために世界遺産の資料購入に充てられている。その資料を読む人だって、ひとりしかいない。
もちろん、そのひとりは私じゃない。先輩でもないし、由紀でもない。
「今日は来ないんだねー、若菜さん」
配られたカードの山に手を伸ばす。
若菜さんは今日も来ない。動かない扉を見つめても、人の気配は感じなかった。
彼女に出会ったのは、入学してからまだひと月も経たない頃だった。
新入生は五月までのあいだに部活動を決めなければならない。正式な部員でなくとも、仮入部をしなければ呼び出される、らしい。友だちがいないせいですっかり情報弱者になってしまったから、本当かどうかは分からない。
部活動必須と謳うだけあって、我が校の部活や同好会はとても数が多い。入りたくない部活に渋々所属するよりも、やりたい部活を作ってしまおうと、過去に先輩たちが動き続けた結果、部員数や活動内容の伴わない弱小部が量産されていった。
それゆえに、選択肢が多すぎて決めかねる、という事態が私に起きている。
夕暮れにはまだ程遠い放課後の廊下を、ぶらぶらとひとりで歩く。
すれ違う生徒たちの話し声と、開けっ放しの窓から聞こえる運動部の掛け声。
入部届を出した後でも、転部は自由に認められている。掛け持ちはふたつまで。
どこか適当な部にでも仮入部して、のんびりと好みの部活を探せば良いと思っていた。
仲良くなった同級生と、ゆったりした文化部で過ごすのも良いなぁ、なんて考えていたのに。人見知りはどこまでもいっても人見知り。
スタートダッシュに乗り遅れて、見事に孤立した。
結果、毎日いろいろな部活を見学しては、ここじゃない、ここでもない、なにか違う、しっくりこない、を繰り返している。
今日は万歩部の見学に行って、早々にお暇した。
万歩部とはなんぞや?という疑問を解消せずに顔を出したのが間違いだった。
危うく一万歩も歩かされるところであった。
意味が分からない。毎日みんなでひたすら歩く部活ってなに?歩いて何かするのかと思いきや、ただ歩くだけだって言うし……
俯いて歩いていたら、前方からどっと笑い声が響いた。
男の子のギャアギャアとした甲高い笑い声に、不快指数が跳ね上がる。下品で、本当いやになる。
仕方ない。第一志望だった女子校は落ちたし、いまさら共学だからどうこうと言ったところで、なにも変わらない。
昔から、男の子がなんとなく苦手だった。とくに何かされたとか、いじめられたとか、そんなトラウマがあるわけではない。
乱雑で、粗暴で、デリカシーがない。男の子という存在が、なんとなくという自分でも言語化できないレベルで苦手なのだ。
男女の混合グループとか、まったく理解できない。すごいなぁ、尊敬する。
歩く速さを緩め、一団がいなくなるのを待つ。すれ違うのも嫌なので、どうか井戸端会議を始めませんように。
距離感をはかろうと目線をあげたら、ぱらりと紙が一枚、宙に舞うのが見えた。
金髪の女の子が落としたのかな。ギャル、こっわ。気づいていないし。スカート短いし。
もちろん、無視することもできる。でも、上履きの色が自分と同じ赤色だと、私は気づいてしまった。
今年の一年生は赤色。
ここ最近のHRで配られたプリントは、どれも重要なものばかりだった。もし授業で配られたものであれば、ご愁傷様で済む話だが、そういった重要なものだったら困るはずだ。
さて、どうするべきか。考えているうちに、廊下の真ん中に落ちたプリントに追いついてしまった。
拾い上げて、なんの紙か確認して、後悔した。
だって、こんなの届けないわけにいかないじゃないか。彼らが向かう先にあるのは職員室だ。
『入部届』
これから仲良く入部届を出しに行くところなのだろう。これがなければ、彼女はきっと困る。
焦って足を早めた私の頭は、たぶん上手く働いていなかったのだと思う。だから、頭からすっぽりと抜け落ちていた。
入部届なんて、なくしたらまた貰えばいいだけのことだって。なぜわざわざ小走りになってまで追いかけたのか、私は結局十年経ったところで分かりはしないのだけど。
男女の一団に追いついて、一際目立つ金髪女の肩を叩いた。
「あの」
「……なに?」
知らない人たちの視線が自分に集まる中、私はただ、その子の顔を凝視していた。
想像と違う顔すぎて驚いたのだと、そう思うことにしているけど、本当はどうだったのだろう。
ぜんぜんギャルじゃない。細く吊り上がった眉と、垂れた眦が対照的で、可愛い顔だなぁと思ったのだ。
分からない。一般的にこの顔を可愛いと称するのかどうかは分からないけれど、私はたしかにこの人を"可愛い"に分類していた。それ以外に分類先が見つからなかった、とも言う。
小首を傾げて、その人はもう一度問うた。今度は優しく、なぁに、と。
「これ、落としました」
彼女の胸に入部届を押し付けて、私はその横をするりと抜けた。
知らない人の視線に晒されるのが居た堪れなかったから。本当に、本当に、ただそれだけ。
結構な速度で廊下を突き進みながら、私はこのとき、いくつもの後悔をしていた。
入部届なんて、わざわざ拾うことなかった、とか。
なんで部活の名前を見ちゃったんだろう、とか。
もっとちゃんと、名前を確認すれば良かった、とか。
いろんな後悔が頭をぐるぐるとまわっているのに、知ってしまったその情報が全部を上塗りしていく。
『世界遺産研究部 若菜』
あんな派手な髪色をしているくせに、なにその地味そうな部活。
若菜って、苗字だった?名前だった?
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