空席
Fさんには霊感がない。幽霊を目撃したことはないが、幽霊らしきものと遭遇したことはある。
ある朝の通勤時だ。Fさんは時差出勤をしているので、Fさんが利用するときには都内でも電車はすいている。とはいえ、それは満員電車と比較したときの話であって、あくまでも座席はすべて埋まっているのが毎度のことだった。
その日も、同じような混雑状況で、ぱらぱらと吊革を握る人もいた。しかし、座席がひとつ空いているのだけは違った。その車両に足を踏み入れたとき真っ先に、車両の真ん中あたりの空席に気が付いた。何人か立っているサラリーマンがいる中で、それに気づいていたのは自分だけのようだった。これ幸いと座ろうとしたFさんだが、ふと、思いとどまった。
不自然だ、と思い直したのだ。ふつう、座席が空いていれば、誰かが気づきそうなものだ。同じ車両内には、数えてみると五人が立ったままでいた。この違和感を解消しようとすると、彼らは気づいていてなお、座ろうとしないのではないか、という考えが生じた。
なにか見逃していることはないか、とFさんは不安になった。自分だけ気づいていない暗黙の了解でもあるのではないか、と思えてきて、念のために、その空席には座らないでおこうという結論を導き出した。
そのあと、Fさんは空席から少し離れたところの吊革を握っていた。
次の駅に電車が停まると、新たにひとり女性が乗車してきた。その年配の女性は空席に気が付いたようで、すたすたと空席に近付いていった。Fさんはなんとなく悔しい思いがして女性の様子を見つめていたのだが、その女性は空席の目の前まで来たときに、なぜか、くるりと踵を返した。
逃げるようにして空席から遠ざかっていく。何度か振り返りながら、恐ろしいものでも見るような目を空席へと投げていた。その様子が尋常ではなかった。不思議なことに、そのあと同じようなことが何度も起こり、その座席はやはり空席でありつづけた。Fさんは不思議に思ったが、電車で居合わせただけの相手に「なにかあったんですか」と訊くのも憚られた。
どうして、あの座席は空席のままなのだろう。Fさんは、もどかしい気持ちになった。空席が自分の認識を超えたもののような気がしてきて、自分の知らないところで自分の知らないルールが動いているかのように思えてきた。
Fさんは目的の駅に到着したとき、このミステリーをどうしても解き明かしたいと思って、車両を出る前に空席に座ろうと試みた。そのときだ。Fさんが臀部を座席に下ろそうとすると、ばちんと太腿を強く叩かれたのだった。驚いてふりかえるが、誰もいない。Fさんは怖くなって、空席から遠ざかり、車両から出ていった。
いまになって思うと、あの座席は本当は空席ではなかったのではないか、という気がしてくるのだという。
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