動けない
Sさんは、子供のとき、すごく嫌な体験をしたことがある。いまでも思い出すと、なんともいえない後味の悪さを覚えるのだった。
それはSさんがまだ小学生になる前のことだった。県外へ旅行しようということになったとき、お金に余裕があったおかげで、その旅行先で高級ホテルに宿泊する計画を両親が立てた。Sさんは、心待ちにして過ごした。
当日、その地域で遊んだ。それも楽しかったが、目的はむしろ、高級ホテルのほうだった。ホテルに入る前、コンビニに寄ったときに、Sさんはチョコレート味のアイスクリームを食べた。そのせいで頬の周りにチョコレートクリームがべたべたと付着してしまい、ホテルに入ると、それを見たフロントの女性が、「かわいらしいですね」と両親に笑いかけた。猫のように目が大きくて顎が細い、若い女性だった。
上品な温かさで出迎えてくれた美しい内装のホテルに、Sさんは感激していた。
その夕方、Sさんはどうしてもオレンジジュースを飲みたくなり、宿泊していたツインルームの中で両親にわがままを言った。すると、両親は百円玉を二枚、渡してきて、「自販機で買ってきなさい」と試練を課したのだった。Sさんは、その試練に挑むことにした。
自販機があるのは、ロビーのある一階だった。ひとりでエレベーターに乗るのはとてつもなく恐ろしかったが、なんとか震える手でボタンを押し、一階まで降りるのに成功した。押しつぶされそうな心を抱えながら、自販機の前で立ち止まった。
突然、温かいものが全身を抱きしめるように覆ってきたのは、そのときだった。なにかが見えたわけではない。ただ、全身の皮膚感覚が温かさと圧迫感を知覚した。それだけでなく、Sさんは、自販機の前で、金縛りに遭ったように動けなくなった。
意味がわからなかった。Sさんは必死に身体のあちこちを動かそうとしたが、コンクリートで固められたように動かない。巨大な大男に強く抱きしめられているように感じられたが、なにも見えないのだった。
恐怖に心が染まっていく中、視界の隅に誰かが現れた。Sさんが視線だけ動かして見ると、「かわいらしいですね」と笑ってくれたフロントの女性だった。猫のような顔をしている。Sさんは必死にそちらに視線を投げ、助けを求めた。どうしても声は出なかった。
女性は、不思議がるような真顔でSさんを見下ろしながら、すたすたと歩いてきた。近くまで来たとき、一言だけ、「きったな、洗えよ」と言葉を落とした。そのまま、すたすたと歩き去っていったのだった。
フロントの女性がいなくなってから、しばらくして、全身が動くようになった。圧迫感も消えた。Sさんは、自販機でオレンジジュースを買ったのだが、それはまったく美味しくなかった。
あのとき、もしも金縛りに遭っていなかったら、あのフロントの女性に視線を向けることもなかったのに、とSさんは思う。あの金縛りには悪意があるような気がしてしまう、という。
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