刺し傷

 Wさんは、高校生のとき、同級生が叫ぶのを聞いたことがある。きゃあ、ではなく、ぎゃあ、だった。それは衝撃的だった。


 そのときは数学の期末試験に取り組んでいたので、Wさんはややこしい数学の問題で頭がいっぱいだった。そんなWさんの意識に割り込んでくるようにして、ぎゃあ、と唐突な女性の叫び声。廊下からだった。


 叫び声のする直前、ちょうど、同クラスの女生徒がひとり教室を出ていっていたので、その女生徒の声だとすぐに気が付いた。とはいえ、声だけでは少々、判別が難しかった。その生徒はあまりしゃべらない性格だったので、Wさんも、その女生徒の声をよく知らなかった。


 叫び声がしてからすぐ、試験監督をしていた二十代の女性教師が廊下へ駆けて行った。廊下から、「大丈夫? 大丈夫?」と女性教師の声が聞こえ、同時に女生徒の名前を呼ぶ声も聞こえたので、そのときになって、Wさんはいまさっきの叫び声の主を確信した。おとなしいはずのあの生徒がどうしたのか。そう考えたせいで、余計に恐怖感が募っていったのかもしれない。


 そんな事態になるとさすがに試験に集中できなくなり、クラスの生徒はみな、お互いに無言で視線を交わしながら、ぽかんとした顔を浮かべていた。


 すると、廊下から、「誰か、来てください。手を貸して!」という女性教師の声が響いた。ただごとではないらしい。こういうとき、Wさんは真っ先に身体が動く性格だ。試験のことは脇に置いて、素早く廊下へと駆けだしていった。


 廊下に出ると、教室へとつながる前の引き戸と後ろの引き戸のちょうど中間地点に、ふたりが屈んでいた。床に手をついてうずくまっている女生徒と、その生徒の背中にそっと手を置いている女性教師だった。女生徒のお腹のあたりからは鮮血が滲み出ており、床の上に赤い液体がじわじわと領域を拡大していた。


 その出血量の多さに圧倒され、Wさんは瞬間、全身の力がふわっと消えたような感覚がした。頭を切り替えることができたのは、女性教師が切羽詰まった声で助けを求めたからだった。


「助けてください。彼女を保健室まで!」


 Wさんは深く考えるより先に、女性教師の指示にしたがい、女生徒の肩に腕を通して身体を置き上がらせた。女性教師がもう一方の肩を支え、ふたりで女生徒の身体を支えながら、保健室へと運んだ。


 保健室で応急処置が施されたが、結局、救急車で搬送されることになった。それなりの長さの包丁を刺し込んだかのように、女生徒の腹部にざっくりと刺し傷が入っていたのだ。その後、病院で手術をして、なんとか一命をとりとめた。

 

 女生徒が無事だったのでなによりだったが、どうして腹部に刺し傷があったのかは判然としていない。女生徒はいくら聞かれても「急にお腹が痛くなって、気づいたら血があふれ出していた」としか語らなかった。


 誰かに刺された記憶はない、と女生徒は言うのだが、Wさんは、それが不思議でならない。突然、湧いて出たかのように刺し傷が現れることなど、あるはずもなければ、あると思いたくもない。

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