囲いの中に

 Dさんには霊感がないが、ひとつ、奇妙な体験をしたことがある。


 学生の当時、親しかった同学年の彼とふたりだけで動物園に出かけたときのことだ。正午前、ゾウのいる囲いの前で足を止めて、Dさんは、はっとした。なぜか、囲いの内側――囲いから三メートル以上離れたところ――に幼児くらいの女の子が背中を向けて佇んでいる。


 棒人間のように細い身体に、ふわふわのスカートと赤い靴を身に着けていた。髪の毛はポニーテールにしている。ゾウのいるほうへおへそを向けた姿勢で少しも動かない。後頭部をこちらに向けていたため、どのような表情をしているのか、それはわからなかった。


 どう考えても、危険だった。Dさんは、心臓が握られたような気分になり、「なにしてるの」と声を飛ばした。一緒にいた彼も同じような言葉を投げたが、女の子はぴくりともせず、マネキン人形のように佇むばかりだった。


 気味が悪い、とDさんは思った。その、心がないかのような女の子に不審を感じただけでなく、状況からしても不自然だった。見たところ、囲いの高さは五メートル以上あり、その上部には有刺鉄線もある。侵入できるわけがない。


 そのときは、事態を重く考えた彼が係員を呼びに走っていったので、Dさんがそこに取り残された。近くに観光客はなかった。


 女の子は立ったままで死んでいるのではないか、と真剣に考えたくらいに無機質な静けさに包まれていた。


 そのうち、奥でのんびりとしていたゾウが、のそのそと動きだした。女の子に気づいたのだろう、一直線に女の子の佇んでいるところに向けて進んでくるのだった。Dさんは、悲惨な想像が頭をよぎり、女の子に逃げるように声を飛ばした。


 しかし、女の子は動かない。ゾウが近づいてくる。このままだと踏みつぶされてしまう――というときになって、Dさんは思いきり目を瞑った。心臓がばくばくと動いていた。ゾウの歩みが目の前でとまる気配がした。瞼のむこうに赤い景色があるのだと思った。


 数分を置いて、Dさんがおそるおそる目を開いたときには、しかし、想像とは違う景色がひろがっていた。ゾウはもとの位置に戻っていて、目の前にいた女の子はいなくなっていた。どこを見ても、いない。係員を連れて戻ってきた彼が「女の子は?」と訊くので、Dさんは、「消えた」と答えた。


 消えた。


 それ以外に、説明のしようがなかったDさんである。

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