燃えて消えた男

 Gさんは、木造住宅が燃えるのを見たことがある。会社帰り、通りかかった平屋の小さな窓から黒煙が噴き出していた。すでに野次馬が数人いた。誰もが瞠目して家を見上げ、中には声を上げている人もいた。異変に気づいた人たちが続々と路上に出てくるので、みるみるうちに騒ぎが大きくなっていった。


 窓からもくもくと噴き出す黒い煙の下から、ちらちらとオレンジの炎が顔を出した。すぐに窓ガラスはばちんを路上に吹き飛ばされ、蛇のようにするりとした身のこなしで炎が住宅の壁を這い上がっていった。消防車が駆けつけるまでに、内側からも外側からも激しく燃え上がった。


 Gさんは、ただ茫然と見つめるしかなかった。妻のためにコンビニで購入したケーキを右手に抱えたまま、そのケーキが熱で融けていくのも気にせずに、立ちすくんでいた。日常生活に溶け込んでいる火がこれほどに猛威を振るうのかという驚きと慄きに、全身が震える思いがした。


 だから、Gさんは、誰かが叫んでいることに、すぐには気づかなかった。その叫びが徐々に大きくなるのを意識が捉えていたが、Gさんの思考は目前に迫った非日常を処理するのに徹していた。やがて無視できないほどの声量で「声がするぞ」と叫んだ男の声が、Gさんの思考に割り込んできた。


 その叫びによって路上は静まり返り、野次馬たちは一斉に耳を澄ました。Gさんも耳を澄ましたところ、たしかに燃え上がる家から誰かの声がした。激しい痛みに抗おうと声を殺しながら呻いているような男の声だった。危うく聞き逃してしまうような声量だ。


 熱風を放つその平屋に誰かいるのではないか。その認識が暗黙のうちにその場にいた人の間で共有され、誰もが言葉を失った。その沈黙は、もう無理だ、という全員の絶望を物語っていた。そのときには、もう、その平屋は炎のドレスを身に着けたかのように燃え上がっていた。


 Gさんは、目の前で消え去ろうとしている命を恐れた。目が釘付けになって離せない。しかし、さらに恐ろしかったのは、不意に、玄関ドアが内側から弾き飛ばされて、火だるまの人間が路上に躍り出したことだった。心臓に水のシャワーを浴びたような気分になった。


 野次馬がどよめいて、遠ざかった。火だるまの人間は呻くような声を上げながらぐねぐねと身をよじり、路上に膝からくずおれた。野次馬の中から、泣き叫びの声が上がった。先刻から聞こえていた消防車のサイレンが大きくなり、その場に到着したのはそのときだ。


 消防隊員は真っ先に、火だるまの人間にむけて消火活動を開始し、人間から上がる炎を封じとめた。祈るような気持ちでGさんは燃えていた人間を見つめたのだが、なぜか、路上には誰もいなかった。消えていた。


 ぱちぱちと巨大な焚き火をするような音と、炎の明かりと、騒然とした空気だけが残った。炎に炙りだされた野次馬の顔はどれも、魂が抜けたように誰もいない路上を見つめていた。


 あの火だるまはなんだったのか、Gさんにもわからない。

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