カーテン
ある夕暮れ、Oさんが一人暮らしをするマンションの一室に帰宅したときだった。玄関の明かりをつけてからハイヒールを脱いでいるとき、頭頂部のほうから、た、た、た、と子供が走り去っていくような音が聞こえた。驚いて顔を上げたが、リビングへと続くフローリングの床には誰もいない。だが、一瞬、リビングへと消えていく子供の背中を見たような気がした。
Oさんは、しばし呆然とした。気のせいにしては、はっきりとしすぎている。疲れのせいで幻聴でも聞いたのかと納得しかけたが、幻聴など、そう簡単に体験できるものではない。おまけに、子供の背中がリビングの闇に消えたように見えたのは幻覚というには無理があった。室内に誰かが潜んでいるような気がして、恐ろしい気持ちになった。
Oさんはいまいちど、廊下を見つめた。玄関の明かりのおかげで、朝陽が差し込むように優しく照らされているフローリングのベージュの床。見る限り、異変があるわけでもなかった。
Oさんはおそるおそる室内へと上がった。鼓動が高まるのを感じながら廊下を進んで、その奥にあるリビングへと辿りついた。ぱ、と照明をつける。見慣れたリビングには誰もおらず、ひとまずほっとして、Oさんは息を吐いた。
冷静になって考えてみるとおかしな話だった。Oさんには霊感はないのだから、幽霊を見ることはない。部屋は鍵がかかっていたのだから、幽霊でもなければ室内に侵入できない。気のせいだろうという当たり前の認識が脳内に染み込んでいった。気が抜けたまさにそのときだった。
視界の隅で、カーテンが揺れた。Oさんは驚いて、カーテンを見た。淡い水色のカーテンの揺れは収まっておらず、水紋のように後を引いていた。カーテンの内側に潜んでいる何者かがカーテンに触れたかのようなイメージが頭に浮かんで、Oさんはその場に動けなくなった。声も出せなかった。
ただ、視線だけをカーテンの揺れた場所に向けつづけた。ふたたび揺れるのではないかという予感が次第に増幅していった。それを待っているような気持ちにもなったが、そうなったらなったで、どう対処していいのか、わからない。
カーテンの揺れが収まると、Oさんは、後ろ髪を引かれるような気持ちを胸に残したままリビングを出た。そうするのがいちばんの解決策だと考えた。
その日以来、Oさんはリビングのカーテンを閉めたままにしている。ときどき、ふと思い出したかのように、カーテンが揺れるときがあるのだが、気のせいだろうと流すことに決めているという。
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