ストーカーの男
二十代半ばのDさんには霊感がない。幽霊の存在を信じていなかった。典型的な現実主義者だったが、ある一件以来、少しだけ揺らいでいる。
数か月前、会社帰りにいつも、誰かにつけられているような気がしていた。夜道を振りかえっても誰もいないのだが、そこに誰かがいるような気がしてならない。
その感覚は一人暮らしをしていた都内のアパートの一室でもしていた。ベッドに横になっていると、なんとなく、リビングのソファとかガラステーブルの上とかに誰かがいるような気がする。目を向けても、やはり、誰もいないのだが。
そんな妄想にも似た精神状態に陥ったのは、あの電話のせいだろうとDさんは考えている。そのちょっと前のこと、Dさんのスマホに見知らぬ番号から電話が入った。出ると、馴染みのない男の声が「かわいいですね、かわいいですね」と繰りかえした。気味が悪いので切ったが、それ以来、毎日のように同じ番号から電話が入るようになった。
Dさんはその電話を無視していたが、やはり気味が悪く、誰かに監視されているような感覚が拭えなくなっていった。いままで以上に施錠を心がけるようになり、万一のためにと防犯ブザーも購入した。
なんとか誤魔化しながら生活を続けていたが、さすがにこのままでは気持ちが悪くて、なんらかの決着をつけたいという思いが膨らんだ。電話番号を変えるのもひとつの方法だったが、仕事先への根回しを考えると気が重くなった。
Dさんは、その生活を一か月以上も続けた末に、意を決して、その電話にもういちど出ることを決めた。夏の夜だった。リビングで一日の疲れを癒していたとき、スマホが震えた。いつもの番号であるのを確認し、Dさんは「もしもし」と出た。なぜか、自分の声にはエコーがかかっていた。
開口一番、男の声が「かわいいですね」と言った。男の声にもエコーがかかっていた。Dさんは肌寒くなるのを覚えながらも、「やめてもらえませんか」と切り出した。男は答えた。
「それはできません。あなたはかわいいので、ずっと見ていたいんです」
背筋がぞくりとした。Dさんが少しばかり震える声で「どういう意味ですか」と問うと、男は「ずっと見ているんです」と荒い息遣いとともに答えた。それが現在進行形の言葉であるのに気づいたDさんは戦慄した。
そのとき、Dさんのいたリビングにちゃらちゃらと明るい音楽が流れてきて「お風呂が沸きました」と女性の声が告げたのだが、それを受けてDさんは激しい恐怖に駆られた。というのも、あろうことか、まったく同じタイミングで、まったく同じアナウンスがスマホからも聞こえた。エコーの原因はこれかと気づいた。
Dさんが勇を鼓してリビングを見回すと、玄関へと続く廊下の薄闇にひとり、背の高い男が影に沈んでいた。その男の影は「かわいいですね」と耳朶に響く声で告げ、水蒸気のようにふんわりと消えた。
確実にそこにいた、とDさんはいう。
その一件のあと、Dさんは、すぐに電話番号を変えて引っ越した。目に見えてなにかが起こることはなくなったが、Dさんはいまだに、なにかにつけられているような気がしている。
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