制服の墓標

瑞浪イオ

第1話

 初めて高校の制服に腕を通したとき、まだ足のなじまないローファーの踵を鳴らして駅まで走った。急いでいるわけでもなかったのに。

 それは、始まったばかりの儚い時間の終わりに早くも気がついていたからかもしれない。


「女子高生って、最強って感じがする」

 通学中バスで乗り合わせた女子大学生が私たちの後姿――まだ着慣れていない硬い布地に包まれた背中にそう言っていた、その言葉がまだ記憶に残っている。

 買ったばかりの合皮のスクールバック――油を塗ったように真っ黒い艶がかったやつ。

 は、膝上まで覆うニーハイソックスに、スカート丈を短くするのが流行っていた。

 

 今バスに乗ってきた女子高生は(日曜なのに、部活だろうか。)くるぶし丈の短い靴下に、ひざ丈のスカート。


 制服は相も変わらずずっとそこにあるようだけれど、冷たい時間は刻々と私を押し流している。


 ***


 目的があるわけでは無いけれど、就職に有利などと言って受験を決めたTOEICの試験会場は偶然にも通学路の途中にあった――毎朝二時間かけて通っていた母校の。

 特になにがあるわけでもない寂れた港町だから、何かが無ければ来ることも無い。その「何か」をずっと待っていたような気がしている。

 同時に、畏れてもいる。


 つまらないテストを終えて――午前のテストだったから、それは一週間で最も白い日曜の昼、このまま家に引き返すのも薄情な気がした。なんとなく、過去の自分に対して。

 せっかく会場が通学路の中間地点なのだから、懐かしい校舎でも拝もう。今帰りの駅まで戻ろうとすればバスも混むだろうし、などと言い訳をすることは最初から分っていた。


 駅とは逆方向のバスは倉庫に挟まれたまっすぐな道路を貫くように走る。窓の隙間から潮の香りと、過去にあった「いつも」の風景。海が近いから、刺すような太陽の光が余すことなく私の顔に照り付ける。

 当時は開けていた土地に、大型のショッピングモールが出来ている。私はそれを訝し気に見上げた、過ぎてしまって変わるものと変わらないものを見定めているかのように。


 高校生活は、思い返せばテストと部活と文化、体育祭の繰り返しと実らせるつもりもない恋でできていて、余すことなく生きていたのに、その必死さの延長では大学の入試に追われて懐かしむ間もなく、制服に別れを告げる間もなかった。

 いつのまにかスーツを着て大学の入学式を終え、今度は会社の入社式でスーツを‘いつの間にか’着ているのだろうか。

 そしていつのまにか結婚して--いや、しないにしても「いつのまにか」いつのまにかが続いて自分は終わっていくのだろうか。



  ***

 

 バスを降り、その足でコンビニでおにぎりと、チョコレート、あとコーヒー。校門まで行かずに、まず校舎の裏手の歩道に入って、海まで散歩することにした。

 まわりにはなにもないけれど――唯一あったスーパーも潰れていた――ロケーションは最高だった。少なくとも授業中の一瞬の静寂に船の汽笛が聞こえてくることを幸せに思える高校生にとっては。


 音楽室から見えた、日々色を変える海。船が白を波に刻む。汽笛の粋な計らい。


 11月の波は穏やかだけれど、ここの浜は遠浅どころか、浜からすぐ急こう配になっているらしいので、深さから来る轟々とした波の音をたてる。まるで地球が唸っているような。


 ふいに時間が私に押し寄せる。待っていたぞ、と言わんばかりに。


 あの頃の私は何処へ行った?

 何処かへ行ってしまった?

 なにかを追い求めていた熱量、何かになれると信じていた確信。


「私は変わった?」

 変わってしまったとしたら、それは何だろう。


 髪を撫でるくらいなら教えてよ、潮風。


 歳をとった私は醜くなった?

 それとも昔の何も知らない私は愚かだった? 


 「あの無敵なスカートが恋しい」

 

 ***


 浜辺でひとり食べるおにぎりは愚直に美味しかった。

 どこからか桜耳の猫がやってきた。こういう時のためにいつも持ち歩いているモンプチが役にたつ。

 お互い食べ終わると、斜めに差し掛かる檸檬を絞ったような昼過ぎの太陽にしばし微睡む。

 あの頃は一生縁がないと思っていた食後のコーヒーが今は欠かせない。

 苦みが無理にでも現実と結び付けていてくれる気がするから。そんなことが少し後ろめたい。


 ふと我に返ったように砂を払って、駅へ向かうバス停を目指す。猫はまだ寝ていた。

 帰り際は校門前を通った。門に刻まれた母校の名を指でなぞってみたけれど、それはそこに在るだけで、誰もいない校舎の玄関に植えられた蘇鉄だけが妙に青く生き生きしていた。

 見下ろす錆びた時計が私を歓迎してくれるわけでもない、懐かしい先生はきっととっくに皆他校になじんでいるだろう。夢を語り合った旧友だって、みんなもうこの街に居ない。


『一体何をしに来たの。お前の場所は、もう無いよ』。

「煩いな。分かってるよそんなこと」

 一人、骸拾いにでも来たような気分だ。ずっと帰りの、あるいは未来行きバスを待ち続けている哀れな自分の躯を。


「過ぎ去ったことは美しく見えるのよ」なんて自分に言い聞かせてみるのはいいが。

「鬱、奇しくも」――そっちの方が私には合っている。



 ***

 帰りのバス停前にあったコンビニは灰色になっていて、その向かいにあった銀行も取り壊されていた。

 母校の制服を着た女子高校生が一人居た。

「私も、その制服、着ていたんだよ」

 そう話しかけてみたい。できないけれど。それがなんだというんだ、ときっと彼女は訝しがって、私が不審者かどうか見定めるだろう。

 

 その堆積したけぶりのせいで、衝動的に

『学生諸君、今を謳え!』

 そう叫びたくなった。

『今だけだよ若くていいね部活がんばんなね勉強も恋も文化祭も体育祭もあるんだよ』

 そんなことをわざわざ私が言わなくても、彼らは駆けるだろう。今という儚い夢を、青く、脆い不明瞭な方向へ向かって。

 不自由さも、涙だって武器にして。


 

 髪を一つにまとめた彼女は、スマホから顔をふと上げた。頼りなさげなあどけない横顔。それでいて事象を留めようとする澄んだ瞳を並ぶ倉庫から覗く港の方へ向けた。


 彼女は明日へ向かうバスを待っている。


 私は彼女からしたらずっと大人で、なにもかも知っているはずなのに、未だになにも成し遂げていない。

 ずっと不格好で、転んで傷ついて、失敗作の粘土人形だ。

 一体なにが私の人生を形作っていくのか見当もつかない。

 でも何に向かっているのかなんて、分からないし知りたくもない。


 ただあの気だるかった宿題や、小さな箱の中に居た記憶が苦しいくらい懐かしいだけ。



 それでも、

 来るんだろう、明日よ。

 忌々しい、明日。


 だからせめて『今しかないぞ』と脅すような大人には私はならない。


 起こったことに意味はないとしても、私の言葉に意味と重さを持たせてくれる、きっと「これ」は悲しいだけじゃない「真実」。

 ただ見つめて、生きていくだけ。



 だから、たまには帰って来てもいいだろうか、潮風。

 教室に私の席がもう無くても、浜辺に私の尻を置く隙間くらいはきっとあるだろうから。



 今度来るときには、まだ帰りのバスを待っている制服を着たままの私を迎えに行こう。

 悲観に暮れる必要なんて全く無い、絶望に与える時間さえ惜しい。

「大丈夫、未来も悪くはないよ」

 と言ってあげられるように。

 

 きっと、言える。

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制服の墓標 瑞浪イオ @io-mizunami

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