敵の中の味方
司祭との決着をつける前に、一つの用件があって、夜上蛍斗は病院をおとずれようとしていた。
『
(ここのところ、やけに寒いと思ってたら、まさか《大いなる冬》のプチバージョンとはね)
寒天の下にさらされ、身を固くしたような建物を見ていると、こちらまでジャケットの前を合わせたくなった。
――それは、かの“
北欧では極寒の気候変動がおこっていて、それが引き金となって神話の栄光に影が差したとも言われている。
「まあ当時と比べたら、こんなの春風みたいなもんだろうけど。……カナンには、ひどい役をやらせちゃったかなあ……」
上着のポケットに手を入れたまま、青年は歩き出していた。
――あの子は、娘は修道誓願を立てておりません――
そう書かれた母親からの書状を受け取ったとき、蛍斗は一瞬、現実を疑ってしまった。
あの
あの反射だけで聖餐のパンまで食べてしまいそうな子が、まだ神に身体を捧げていないのか!?
しばらく呆然としたのだが、もともと彼女の母は、『そんな思想は、信じる神ですら同じではない!』と原理主義者から追い立てられる、生粋の
他者の血を欲し、自分で生気や魔力を回復することのできない吸血鬼は、そのぶん人の生気の扱いも上手い。いまの心電図がかすかに振れるような微弱な生命反応のカナンを、どうにか自己回復できるレベルにまで戻してくれ、ということだろう。
(……だけど、それをやったら、
その、魔を簡単に超越した考え方は、本当に親としての判断だろうか。
魔族に身体を許したと、自分の娘が周囲に思われてもいいのか――
淡々とした文章で締めくくられた手紙には、世のすべての存在を肯定する教義のための、一つの証明にもなる、と書かれていた。
――預言者ってやつは、けっこうおめでたい考えなんだな。
そう蛍斗はうそぶくように、病院の長いアプローチを抜けていった。
ロビーに見えた藤乃彬は、どこか異国じみたライラック林の中にまで、出迎えにきてくれる。
「こんな町のはずれまで……。わざわざすみません」
ぎこちなく微笑んで、そのまま別棟へと案内してくれた。
いや、僻地といえば、もはや蛍斗の領地中が僻地なのだが……
どこか疲れたような雰囲気をたたえている少年は、蛍斗の後ろをちょっと確認して、うなずいていた。少女が倒れてから、まだ寝ていないのかもしれない。
「……」
カッポ、カッポ。
施設の廊下に入ると、二人の話し声のほかに、動物の
彬は気にしないようにふるまってくれたのだが、先に蛍斗の方がガマンできなくなってしまった。
「ブモォォ――」
「おい、
後ろをふり返ると、そこには気配を消した人面牛『
ハティと戦ったとき、助けてもらったカナンの見舞いに行くと聞いたら、どうしてもついてくると言い張ったのだ。
「魔物には、わりと義理堅い方が多いようです」
彬がそう言うと、『件』はちらりと
コイツは……。良い予言だけしてりゃあいいんだけど、ときどき天災まで呼ぶからな……
神もたびたび夢想する人間を裏切るが、魔族は《契約》を何よりも大切にしている。
「僕たちはむしろ、人間より約束を守るんだよ……」
やがて、つき当たりに個室が見えてきて、その扉の前で一度足を止められた。
これまでに少女の容態も聞いたのだが、そもそも蛍斗は、科学的な話など耳には入らない。
「うわっぷ!?」
手を医療器具や患者の搬送などでふさがれた職員用なのか、彬が片足を下方のセンサーにかざしてスライドドアを開けると、むっとした空気が流れ出てきた。
何やってんだ、これは?
「だから、体温がまったく上がらないんです」
少年が、表情を変えずにつぶやいていた。
加温した輸液と、暖房でどうにかしようと思ってるんですが、すべては一時的なものでしかありません。
言葉を聞いていた蛍斗は、放心したようにカナンを眺めている。点滴と重苦しい機材だけが、いまは横たわった少女の代わりに脈打っているようだった。
「……こりゃあ無理だよ」
青年はそう確信して言った。
「そんな外的処置でどうこうできるのなら、カナンは始めから意識を失っていない」
蛍斗は無防備なままの少女を、初めて観察することができたのだ。
そして、酷かもしれないが、これは伝えておかねばならない、と彬に目をやった。
――この子、あまり生きることに希望がないぞ?
「……!」
その彬の反応は、かすかなものだった。
しかし、その色をなくしたような瞳を見て、蛍斗は思いを強める。
「彼女は、恵まれすぎですからね」
平然とした口ぶりで、少年は話していた。
「父は娘を溺愛し、《
「けど、父親よりずっと尊敬しているはずの、母親――東雲礼子は、そうじゃなかったんだろ?」
青年は、乾いた笑みを向ける。
「預言者に、まともな人格を期待しちゃあダメですよ。特定の人間を愛するのは、ただの生物的
神の偉大な
そんな言葉を聞いても、蛍斗はしらじらしい顔のままだった。
「だから恵まれたカナンは、才能のエネルギーではなく、その大器が抱えた虚無にも、一人で向き合わねばならない」
「ええ。もっと切迫した不幸を抱えた子供は、いくらでもいます」
彬の返事は、辛辣なものだった。
蛍斗はうなずいて、部屋から『件』が出ていくように指示する。
少女の枕元で眠っていたヨルムンガンドも持ち上げて、そのおびえる牛の背中に乗せてやった。
「僕も、いない方がいいですね」
いつものように冷めた口調で少年は言うが、それを蛍斗は止めた。
「吸血鬼が、どんな行為に出るかも分からないだろう」
お目付け役までいなのでは、さすがに蛍斗も胸を張っていられない。
「十三歳の娘を
それを聞いた彬は笑ったが、彼女が恥ずかしがりますから、と退出していった。
……まったく。なんて保護者たちだよ。自分たちがドライだから、この子は戻って来ようとしないんじゃないか。
寝汗のためか、少し塩気のある、ミルクのような体臭の少女を起こして、蛍斗はその首筋を舐めた。
「ああ、そう言えば――」
――ぐっ!?
「カナンは、あなたに好意を持っていると思いますよ。出会ったときの喫茶店で、“吸血鬼って、みんなあんなにカッコいいの!?”とか言ってましたから」
ドアの向こうからの声に、蛍斗はのどを詰まらせたのだった。
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