低温のぬくもり

一人の女性が、悲しげな目で、表情を失った少女のひたいをなでていた。


 ここは、聖ラヴィエル病院――兵庫県N市のはずれ、わびしい流れの川沿いに建てられた、天使の名を冠せられた施設である。

 病棟の個室の窓からはのどかな田園が広がり、その女性がどこかうつろな様子で顔を動かしたのは、娘の東雲カナンが不幸におちいったからではない。


「……私は……とても母親にはなれない性分なのかもしれませんね」

 ほそい息をこぼして、病室の椅子にすわったまま、両手を膝のうえで重ねたのだった。


 目の前に眠っているのは、たしかに自分がお腹を痛めて産んだ子供のはずだ。しかし、彼女にはどうしても、日々心の救いを求めてやってくる子供や、ほかの女性たちと分けて考えられないところがあるのだ。


「あなたは過ちを犯したのよ、カナン……」

 この娘なら、意識はないながらもそれなりに言葉が届くかもしれない。

 人の口から発された音が、肌にも重ねられていくことは、祈りや聖句を扱う彼女たちには切り離せない現実なのだから。

(……)

『キュウッ』

 しばらくして、どこか滑稽さのある、リボンのような模様を頭につけたミニ蛇が、少女のお腹で威嚇をはじめた。


 ――主を、叱責から守ろうとでも言うのだろうか。

「ふふっ」

 その小さな牙に躊躇ちゅうちょなく指をさし出し、東雲礼子は娘の守護者に、やわらかく噛みつかせてやる。

 ヘンな子は、やっぱり変な動物とわかり合うのかしら。


「司教」

 背後から声がかかったのは、思わぬ他者からの娘への愛に、時間を忘れてしまったからだろう。

 藤乃彬は、いつもより凛とした姿勢で、戸口に控えていた。

「そろそろ発ちませんと、支館での大会に間に合いません。……このたびは、本部から使者が来られるということなので……」


同教理フル=コミュニオン関係の修復ですか……」

 彼女にとっては些細な違いなのだが、本部との間にはとてつもなく大きな溝を作ってしまった。

――始めから、一人の道を歩み、神の声の範囲で周囲に応えていくだけの人生だ。


「行ってはならないという親の厳命を無視し、かつこの子は、己だけに害を受けました。せめて私が責任を負えるのならよかったのですが……」

 ぺこりと少年が頭を下げ、東雲の思いを理解しようとする。

「カナンは、いつも言ってますよ。母の行く道に、いつだって手をわずらわせる辛苦なきようと」


「……この子はまだ、教会の施設に入れられたことを……義父と折り合いがつかなかった私に、捨てられたんだと感じているのでしょうね」

 彬の言葉にうなずきながら、彼女は自分の未熟さを受け入れていた。

 いつか、最も愛を欲しがるものに、必要なときに与えなかったツケは、己の孤独で払いたい。


 生死も把握しづらい娘の頬に、別れにふっと頬をつけて誓った。病室の出口に足を向けると、開けられたドアからひとりで出てゆく。

「そういえば、マスター夜上は、いまどこにいらっしゃるのですか?」

 ぴくりと少年は反応したが、司教は唐突な問いと共に、ほほ笑みを浮かべていた。

「さあ。今朝はえらい剣幕で、この地区の教会に行くとか言っておられましたが……」

 不謹慎だが、東雲は楽しそうに口元を隠して続ける。

「彼、《爆縮》を使えるらしいのですが……アキラは知っていましたか?」

「は!?」

 また意表をつかれたように、彼は戸惑っていた。


「前の主が死んでからその力は確認されていませんが、夜上蛍斗は、間違いなく“橘かすみ”が来るまではこの国の№2だったということです」

 小柄な背を見せて去っていった女性を、藤乃は放心したように眺めていた。


(……爆縮、だって?)

 冗談ではない。

少年が聞いた話では、かつて《眷族王》とまで呼ばれていた相野一也が、同族上位の軍勢と単体でやり合って退かなかったという、反則技だったはずだ。


「まったく!」

 あの領主は、いったい何のポジションをやっているんだと、少年は一人で邪推することになってしまった。






  

「いいぞ……もうすぐ、もうすぐだ」

 その、影のある精悍な顔つきの男は、連日のように龍脈の余剰エネルギーが集まる地に姿を現していた。


 現代の町を歩いてもさほど違和感のない、日本用の司祭平服キャソックに身を包み、進堂宗太はしずかに思いを馳せている。

魔狼の話が神話のとおりならば、スコールがかの『神々の黄昏ラグナロク』の引き金をひくまでには、いくつかの段階がある。


 太陽を呑みこむというその力は、主神オーディンの息子である、光のバルドルが悪神ロキによって謀殺され、《大いなる冬》が訪れた後に発揮されるのだ。 

「……とは言っても、何かあればすぐに注目される“亜龍穴”があるこの山で、『烈冬フィンブルヴェト』まで起こすわけにはいかないしな」

 今回の自分の敵は、本来スコールが追いかけ、呑み込むはずの太陽などという大それたものではなく、ただの吸血鬼、夜上蛍斗なのだ。


「民を神の道へと導くなか、“彼女”に淫らな思いをもたらしていた罪は、償ってもらうぞ」

 そうささやき、青年は十字を切っていた。


 この世は、あまりに無知に満ちている。

 魔の存在だけではない。

人も、いまのおのれの行為が未来に何をもたらすか、自分が本当は何を求めているのか、時間をかけて考えもせずに、安易な金銭目的で提示された目の前の快楽に、飛びついてゆく。文字通り、血で血を洗うような戦いのすえ、長い時をかけて築かれてきた文化の足場を理解もしないまま、その上で好き勝手に飛び跳ね、転げ落ちて後悔する者があとを絶たないのだ。

 それに……。


 進堂は、さらに表情に影をつくる。

 “世に支障がなければ、奴らの存在をゆるせ”だと……?

 清らかな女性の笑みが、身近にあって、他の男の淫らな想像を誘うような色香に染められていくのを、ほうっておけるものか。


 ――彼は、正しいと信じていた。

 進堂の生命は、清純なものを愛している。ただ、その清純さは、多くの者が正しい道を教わらず、そこから外れて苦の連鎖に生きている中で、あまりにも優先して汚されてしまうものなのだ。


「スコール……」

 ただれた者には、落日をあたえよう。

お前は、かつて世界に新しい神をもたらした、灰色の虹なのだ。


 いま、青年は、季節はずれの風花かざばなの中、己の両腕に力を確信していた。 

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