善の公害
おそらく”北欧の何か”が出てくるだろうと、蛍斗は考えていた。
魔道を開いてやったのは、そこで育ったことのある自分だし、カナンがどれほど神話を把握しているのかは知らないが、目の前の敵から受ける思念に引きずられるだろうと。
だからそれが現れたとき、
「なんだ。大層な期待をさせておいて、無名なやつを召喚したのか」
と幾分ガッカリしてしまったぐらいだ。
身体は敵と同じほどもある小城級だが、姿かたちがまあ、何とも不細工なものだ。
「おーい。こいつを引き寄せたとき、念話で名前を聞いたか……」
そのスライムだか、
(げっ!)
はるか高みにある、頭頂部の口に死のにおいを感じて、凍りついてしまった。
「マスター!」
その時、胸のポケットで沈黙したままだったリィンの人形が、突然しゃべり始めた。
「あれはもしかして、ミズガルズの『世界蛇』では?」
ま、まさか……
「『
我を失ったように、蛍斗は少女に駆けよっていた。
おい!
額にダラダラと汗をかきながらふらついているカナンを、抱きとめて幾度か頬をたたき回す。
ひどい仕打ちだが、この少女の何でも許容する、広大すぎる善悪の概念は、もはや公害といえるレベルの越境を生むかもしれない。
「早くあいつを追い返せ! あれは北欧最強と言われた、雷神すら殺した毒持ちだぞ!?」
「……いけっ、ムンガ……!」
意味不明な呼び名で、少女はあえぎながら命令していた。
「マスター。ひょっとして、彼女の
そんな聞きたくもない見積もりはいらないんだよ!
……たしかに、本人の守護天使の降臨は、召喚最大の悲願の一つではある。
しかしここで問題なのは、もうほとんど従魔に喰わせる異能が、カナンに残っていないことだった。
ゴォアア!
その喚起魔族――『使役する剣』と呼ぶには、あまりに禍々しい中層ビルのような体躯が、さらに背を起こそうとしている。
「うおおお……!」
背中をちょんと押されれば、溶岩流に落とされてしまうような瀬戸際の気分で、蛍斗はよろめいていた。
こいつは、ここらの闇の勢力図が、書き換わるぞ――!
もはや、己の打算がどうこう言っていられる状況ではない。カナンを抱いたまま、青年は目を輝かせつづけている藤乃彬と後方に疾走していた。
「ム、ムンガが……」
それでも何の愛着を感じているのか、少女はうめくように破壊神に向かって手を伸ばしている。
「もうほっとけ! あんなものは、力を使い果たすまでどうにもならん!」
少なくとも自分が安全だと思える距離は、そこらの範囲にはない。
はあっ、はあっ、と、盛大に息をきらしながらも、蛍斗は駆け足で山を登っていった。
こんな
もう一方の敵である、《スコール》と進藤司祭は、この山の反対側あたりにいるはずだが……。
しばらくそのまま疾走し、誰の気配も届かないような場所にたどり着くと、やっと蛍斗はカナンを横にすることができたのだった。
「……いやー……」
しんと静まり返った尾根下で、誰に言うでもなく、彼はぼやいている。
「当然、このまま逃げるって選択も、ありだよねえ?」
ふっと希望をかけて藤乃に目をやれば、少年は相棒を診ながらも、やけに興奮したように下方をうかがっている。
「あれ、どっちが勝ちますかね?」
不毛な盛り上がりを胸に秘めているようだった。
知らないよ! と蛍斗は怒鳴ってしまいたいところだ。しかし、例えどのような惨状であろうとも、この地の責任を回収するのは、
「僕は出るぞ……! とにかく君は、その子の様子を見ていてくれ」
押さえつけていないと、それこそゾンビのように復活してくる彼女は、
敵味方から、いやいや押しつけられている立場にも、限度というものがある。
どんなにそこで力をつけても、コイツなら
腕を背中でひと振りすると、蛍斗の頭上が妖しくかがやき、
……ヨルムンガンドは――まだ上に身体を伸ばしているのか!?
いったい何をやる気だと、青年は木の枝をよけて直上へ飛びあがって行った。
(はああっ……!)
いま、雲に届きそうなほど細く立ち上がったナメクジが、音もなくぴたりと中空に静止している。
……その天頂――不格好なまでに口を開けた魔物が、まさに呼び名どおりの『
まさか――あのまま倒れるのか!?
『ファー!』
まるでゴルフの危険飛球のように、蛍斗は警戒の叫びをあげていた。
やがて、どう見てもバランスがおかしいとしか思えない頭部が折れ、烈風をまとってハティへと急降下していく!
ゴォォォン!
それは、狼を閉じこめた結界の割れた衝撃だったのか。
……それとも、悲鳴ともつかない敵の遠吠えだったのか。
世界蛇の下敷きになったハティは、どこから降ってきたのか分からないような
ああ……ハティ……。あんなに白く気高そうな姿が、保健所に運ばれていく野良犬みたいな目にあって……。
「ゴボッ」
嫌な音を立てながら、さらにムンガは追い打ちのためか、緑の液体をこぼしていた。
それは体毛から肉、そしてやがては臓器の表面まで
「――っ!」
聞くに耐えない悲鳴と
「こりゃあ、とどめを刺してやらないと可哀相になってくるな……」
すぐにでも死ぬかと青年は思っていたが、魔狼は敵にのし掛かられながらも、歯をくいしばって立つことをあきらめていない。
もう、反撃する力も残ってないだろうに……
「ごめんなあ。お前たちは、人の美しい自然幻想から生まれて、ただの現実の流行思想なんかに、殺されていくんだよな」
その強い潮流を作ったような教会のやつらには、二度と従わなくていいから。
蛍斗は、両脇に下げたままの手にぐっと力を込めると、魔力塊を作っていった。狙いはかなり難しかったが、ハティの首が不規則にたれた瞬間、指をピンポイントで眉間へと運ぶ。
「
ゴッ! と白い顎が持ちあがり、そのまましなやかな四肢が一度、動きを止めたのだった。
重い音をたてて頭部が堕ちていくと、蛇の巨体も、大地に吸われるように消滅する敵をつぶしながら、着地してゆく。
「……うん? こいつは……」
蛍斗もこれからどうするか迷っていたが、どうやら
毒を吐ききった迷惑さは置いておくとして、すでに周囲の森と一緒に死んでいくように、それはぐったりと転がっていた。
(向こうにはスコールがまだ残ってるんだけど……ああ。こいつは、このまま消えてくれた方がいいよな)
最後はかわいらしくアオンと鳴いて、名残惜しそうに眠るため丸まってしまった。
「――
今日は何度つっこみやらせるんだと、青年は空から落ちそうになっていた。
(……)
――じっ。
それでも、しばらく蛇とにらみ合っていると、すぴっ、すぴっと鼻息が耳に届いてきて、体躯が徐々に小さくなっていくのが分かる。
やれやれ……。
必要のない疲れまで感じて、蛍斗は地面に
ムンガの方は、どうやら
ま、お前のご主人様のところまで、一緒に行くか。
いちおう今日のMVP、その土台は、彼女で間違いはないだろう。青年はこりこりと肩を回すと、オスカー代わりの怪物をやさしく拾ってやったのだった。
(進堂司祭のことは……また明日でもいいよな)
このまま向かえば、こっちがガタガタになるかもしれないし、一度退いておくべきだろう。
「……ふん。ふん」
それでも、少女を
情けないことだが、何しろあんな大物を仕留めたことは、彼の戦歴の中には一つもなかったのだ。
……だから、そこには賞賛しかないはずである。
この戦いで生まれてしまった過失は、魔に属する彼には何の責任もないことであり、それどころか、さらに上位の立場の、人間の
蛍斗が、その才能、存在価値として、別格だと思っていた少女は、もう自力で意識を取り戻すことはなかったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます