名斧へ……

そのころ、蛍斗の従者であるリィン=アシュウォーは、山の頂上付近から逃走していた。


(失敗したわね……)

 恐れていたことだが、やはり“敵”に発見されてしまったのだ。

 まあ、今は魔力がダダ漏れになってるんだから、仕方ない――

 そんなつぶやきと共に、後を追いかけてくる何匹かの子狼から、彼女は距離をとろうとしていた。


 あちらの本命である《スコール》と司祭は、追ってきてはいない。

どうやら、この山にとどまっていたい様子なのだが、少女は他にも、釈然としない思いを抱えていた。

「……教会本部が、本当にこの地で、『禁術』を行う許可を出したのかしら……」

 もしそうだとしたら、それを看過してしまった自分の過ちは、どれほどになるだろう。


 ……敬愛する夜上マスターが治めるこの土地は、《純神道》――儒教や仏教、国家神道の国学色を排した《古道》――において、重要な位置を占めている。

国境を認識する人間の、日本列島の重心としての亜龍穴が存在し、そこに集まる龍脈の余剰エネルギーを悪用する危険のない、草食(ぶっちゃけ軟弱)エリートたる蛍斗だけが、その管理をまかされているのだ。


雷槍ジルン!」

 ふいに、リィンは薄暗い森の中に、己の手をはしらせていた。

 

 ジッ!


 闇に閃光が通りぬけ、その軌道上にあった灰色の動物が、体の一部を失う。

 たしかな感触を指に残して、また少女は疾走の速度をあげていた。


(……まさか、漏れ出ている魔力で私の強さを判断して……吸血鬼ヴァンパイアをなめてるのかしら)

 思いながら急角度に折れ跳び、横に回り込んできた別の狼に、強爪を喰らわそうとする。

「!」

(大きい!?)


 それは、およそ実物のオオカミよりも二回り上、というサイズだろうか。しかし、異形の相手ならば気にもしないが、見知った動物が異様なでかさだと、一瞬ギョッとしてしまう。

「あっ」

 ためらいがちに振り下ろされた爪は、敵に深手を負わせるも、他の一匹には隙をあたえてしまった。


 ガアッ!


 指先に熱い息がかかったと思うと、痛みより火傷のような衝撃に襲われ、少女はたまらずバランスを崩していた。


(――こんな所で、またミスを!)

 傷の再生には、攻撃よりもはるかに魔力が必要になる。

 敵の口からのぞく二本の指は、まるで自分のもののようには見えず、リィンはただ悪態をついていた。

 ……力を出し惜しみなんかして……。けっきょく大損する、浅はかな戦闘パターンじゃないか!


 怒りまかせに身を縮めると、拳にうなりと雨の蒸発をみなぎらせてゆく。

 オオッ――

 地面を薙いで、まるで闇に真昼をもたらす絨毯のような巨斧を、力いっぱい投げ飛ばしていた。

 

 雷剛斧ジルコン


 リィンはその時、もう後のことを考えてはいなかった。

「……っ」

やがて、眼前に広がっていたはずの森の木々がさっぱりと消え失せてから、少女はその場に立ち尽くすことになったのである。

「――ああ、そう……。そうね、マスターのところへ行かなくちゃ……」

 しばらく経ってから、どこか虚ろな表情のまま、彼女は両肩を下げていたのだった。


 ……お前はさ、視野が狭くてすぐにキレるから、仕事が雑になるんだよ。

 なぜか、そこで同僚のような立場である、オリオン=グラフの声が頭にこだましていた。

“きっと自分の幸福にしか興味がないから、そんな風に、自己満足で誰かを残念な気持ちにさせてることにも気づけないんだろうな……”

 自分は何もしないくせに、嫌なところだけはずけずけと突いてくる彼は、どうせ正しいことを言っているのだろう。


(あんたの言葉になんか、こっちは興味ないんだ)

 自分にとって一生懸命やっているレベルが、他人に鼻で嘲われる苦しみが、お前にわかるものか。

 少女は、悲しくうつむき、また歩き出していた。

 先ほどから胸にある不吉な予感は、まだ止まらずに膨らみつづけている。


あるじのいる方角は、まさにその中心で、自分より大切な人がそこにいる怖さは、足を遠ざける理性を失わせていた。

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