記憶

一也がその、彼女の変化に気づいたのは、教室に入ってすぐのことだったろうか。

いや、廊下でおかしなざわめきを感じたから、もっと早かったかもしれない。

水上紗良は、とにかくいつも以上に注目をあびていた。


「・・・紗良サラ? ねえ、どうしたの?」

教室の入り口に立っている少女は、まるで無防備な芳香を放っているように、ぼんやりとした目をしていた。

さらにまずかったのは、誰かを、何かを求めているような呼吸で、通りがかった他人すべてが水上をふり返っていくことだ。


(一体、どうしてーー?)

そのときの一也は、それを受け入れたくなかったのだろう。

無理にほかの理由ばかりを考え、動き出すまでに時間がかかってしまった。

「ちっ!」

周囲にまで聞こえるような舌打ちをして、彼は立ち上がった。

机についたあと、のぼせたように瞳孔をゆるめている少女の手をとり、そのまま周りに朱いを走らせる。


ーーそれは、異様な光景だった。

ぐらっ、と一瞬空気がかしいだようになり、その場にいたクラスメイト達は、まるでだるさや重さに耐えかねたように、自分の体から力を失っていた。

倒れはしなかったが、とつぜん無気力になったような友人たちの間をぬけて、一也と水上は教室を出ていく。


・・・彼女を見つけてからは、慎重すぎるほど警戒して、何からも目立つことのないよう、息を潜めてきたのに・・・。

また、この少女をあやまった出来事に巻きこむのか、と彼はにがい思いを噛みしめていた。






チャイムが鳴りはじめ、今いる三階の空き部屋にも聞こえていた、校内の喧騒はなくなった。

一也は乱雑に並んだ机をよけ、あまりいたんでいない予備のカーテンが置いてあったので、それを水上の下に敷いて寝かせる。

(昨日か・・・それとも今日の朝か)

どのタイミングで襲われたのか分からないが、自分の使い魔が出し抜かれた。

・・・深夜、コンビニに出たときか。

そして、後遺症が時間を置いてもゆるやかに続いているところを見ると、予想以上にうまいやり口らしかった。


「下手くそな”魅了”なら、波は激しいけどすっぱり途切れてたろうに・・・。なんでこんな状態で学校に来たんだよ・・・」

まともに答えられるわけもないのに、一也は非難するように告げている。

もし彼女が出てきていなかったら、こちらはさらに後手に回っていたのだろうが・・・。

「・・・相野くんがさ」

にじんだような目で、少女は笑っていた。

「なんか、昨日から妙に気になってたんだよ。それで」トントン、と鎖骨のあたりを指でさし、「あたしが夢で、キミのここを襲ってたみたいなの」とかすれたような声を出した。

ふふふ、という感じで体がゆれる。


一也は凍ったように、彼女を見つめていた。

ーー前世の記憶って、残るものなのか?

たしか催眠療法とかで、古代遺跡なんかを克明に証言した女性がいたけど、ああいうのだって別の理屈が ーー

「!」

異変をまた腕に感じて、一也は正気に戻った。

「水上さん・・・?」

吸血などによって、初めて自分が知る以上の快楽をもたらされた女性は、回復までのとうげが長い。

教室にバッグを残し、このまま校内で姿を消していれば探されるし、人前に出しても、普通を装える程度には戻ってもらわないと・・・。


「ーー ごめんな」

彼はそう言って水上の上体を起こした。

・・・このままじゃ、いつになるか分からない。

瞳をのぞいて、その底にやわらかないんを漂わせると、彼女と他人との境界をあいまいにしていった。


短い髪をなでられた少女は、うっとりと少年に誰かを重ねているような表情になる。

それが目の前の当人に似ていると把握する前に、

「ーー あっ」

うすく日に焼けた首筋をさらされ、二度目の激しい悪夢を感じさせられていた。

首元から送られてくる、異常なまでの快楽の熱に合わせ、こらえきれず吐息をもらしていると、膝がふるえてゆく。


「ふっ」

くぐもった悲鳴をあげながら、無意識にも抵抗することができず、翻弄されるように少女は屈した。

快感におびえ、歯も食いしばっていたが、反応は止められない。

一也はそのまま、泣きだすような水上にしがみつかせていた。


(大丈夫・・・。すぐに忘れることだよ)

一度過ぎてしまえば、回復にはそれほどかからない。

あとは本当に、悪夢として魔眼を重ねてしまうだけなのだ。


しばらくは硬直も解けなかったが、やがて指の力が抜けると、波が引くように彼女は脱力していった。

(・・・もう、俺たちヴァンパイアには関わらせないって、誓ったのにな・・・)

一也は、どこか失ったものを見るような目で、腕の中の少女を横たえていった。


ーー 荒く上下したままのその胸が、彼の罪に痛みをもたらしている。

水上が静かに、寝息をたてるようになるまで、少年は怒りを抑えつづけていた。

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