Sリッパーの一撃
御所内崇弘
第1話 恐怖
ぱんっ、と乾いた音が響く。
薄暗い部屋の中、男と女が小声で話し合う。
「殺したの?」
女の問いかけに男は物憂げに息をついた。
「あぁ……。もう死んでいる」
「そう……」
「何だ、あまり嬉しそうじゃないな。うっとうしかったんだろう?」
「えぇ……。でも……」
「気にするなよ。こうしなければ、君はずっとこいつにつきまとわれていたろうからな」
「そうね……」
困惑気味の女の横で、男は得物に付着したどす黒い体液をタオルで拭う。よく見ると、男の服にはいくつか小さな汚れが着いていた。
「どうするの? そいつ」
「袋に入れて生ゴミにでも出せばいいんじゃないか?」
「生ゴミですって? 見つかったらどうするの?」
「これだけバラけているんだ。誰もわかりゃしないさ」
「においはどうするのよ」
「消臭剤でも突っ込んでおきゃいい」
ハァ、と女が深いため息をつく。
「そんなものでどうにかなるわけないでしょう。ふざけてるの?」
「俺には君の考えのほうがわからないよ。そもそも誰に見つかるって言うんだ」
「やつらよ」
「やつら?」
「仲間が殺されたと知ったら、必ず復讐に来るわ」
「面白いじゃないか。全員返り討ちにしてやるよ」
「誰もかれもあなたと同じ戦闘狂だと思わないで。あなたはそれでよくても、私は耐えられない」
女は涙混じりに続ける。
「私は……、いつだって苦しめられてきた……。子供のころから、ずっと!」
男と女はしばらくにらみ合っていたが、先に目線をそらしたのは男だ。
「わかった……。俺が悪かったよ」
その謝罪を受けて、女が弱く頷く。
汚れた床を見下ろして男が言う。
「なら、トイレに流そうか」
「なっ……。嫌よ! そんなの流しちゃったら、その……、できなくなるじゃない!」
「あとできれいに洗えばいいさ」
「嫌。無理」
「神経質なやつだな」
「あなたが無神経すぎるのよ!」
男のため息。
「わかった、わかった。じゃあどうする? 海にでも捨てに行くか?」
「こんな時間から?」
「仕方ないだろう」
「全部終わるころには朝になってるんじゃない?」
「かもな」
時計を見る二人。
「まだ何か問題が?」
「…………」
男の問いに、女は納得がいっていない様子で顔をしかめる。
「とにかく袋に詰めよう。どこにある?」
「待って。考えてるから」
男はうんざりだと言わんばかりに両手を広げる。
「コーヒーでも淹れてくる。いいアイデアが浮かんだら呼んでくれ」
「何それ。命一つ奪っておいて、よくもまぁそんな呑気にしていられるわね」
とげのある声だった。
男はわずかに眉を寄せて、しかしすぐに笑みをつくる。
「君も飲むかい? 砂糖は?」
肯定の言葉が返ってくるはずもない。
女の答えをわかっていながら男はわざと聞いている。
「うるさい。黙ってて」
「夜中に人を呼びつけておいてそんな言い方はないだろう。あいつを何とかしてくれと頼んできたのは君だぞ……」
「しっ!」
女が人差し指を立てる。そのままキョロキョロと目を走らせる。
何事かと、男も周囲を警戒する。
しばらくの静寂。
先に口を開いたのは男だ。その声は小さい。
「どうしたんだ?」
「音がしたわ」
「どんな?」
「足音。おそらくは」
「外か?」
「わからない」
「組織の連中ってわけはないだろうが……」
男はカーテンの隙間から外の様子をうかがう。
「ひいっ」
両手で口もとを押さえて女は悲鳴をこらえた。
足音だ。
それは男の耳にも届いていた。
「下がっていろ」
男の指示に、女は部屋のすみへと逃げる。
音はしない。
聞こえるのは女の荒い息づかいばかりだ。その表情に恐怖以外の色はない。
男はごく小さく息を吸う。
敵を殺す。頭にあるのはそれだけだ。
仕事がら、命の危機を感じる場面は幾度となく経験してきている。
何ら特別なことはない。普段どおり、ただ抹殺する。そこに感情はない。
音がしたのは二人掛けのソファの近くだ。
カサカサッ、と音がする。
ソファの陰から小さな黒い塊が飛び出した。
男は手にしていたスリッパを振り下ろす。
ぱんっ。
男がゆっくりとスリッパを持ち上げると、そこには潰されて体液をぶちまけた虫の死骸があった。
「殺した?」
女の問いに答える。
「あぁ。潰した」
「ありがとう……」
女の安堵した声。
男は先ほどと同様に、汚れたスリッパの底をタオルで拭いて履きなおす。
「それにしても、一晩のうちに二匹とは……、多すぎやしないか?」
「そうね……。生ゴミの処理、ちゃんとしてるのに……」
「それだけじゃだめだ。さっき見たが、飲み終わった缶ビールをそのままにしてるだろ?」
「待ってよ。ちゃんと袋に入れてるわ」
「缶の中、水洗いしたか?」
「それは……、してないけど……」
「こいつらはにおいに敏感だ。空き缶、ペットボトルは必ず洗って捨てること、アルコールや発酵臭にはとくに気をつけろ。こいつらにとってはキッチン回りの油汚れや、ほこり、抜けた髪の毛さえも食料になりうる、掃除を徹底するのはもちろんだが、ほかにも野菜を常温保存しているのも危険だ。短期間で使い切れない場合は冷蔵庫に入れておいたほうがいい」
男はそこで言葉を止めた。
女のつまらなそうな態度をいぶかしむ。
「おい。聞いているのか?」
「聞いてもどうせ無意味」
「なぜ? 対策しなけりゃ、また出るぞ」
「わかってるけど……」
「ならやるしかないだろ」
「だって、面倒くさい」
女の答えに、男は肩を落とす。
「あのなぁ……」
「私がズボラなの知ってるでしょ?」
「それ、直そうと思わないのか?」
「だって……」
「仕方ないな……。それなら、俺の家に来るか?」
「いいの?」
「また夜中に呼び出されるのはごめんだからな」
「ありがとう。でもこの家、二匹も出ちゃったし……、引っ越し考えたほうがいいかな?」
「引っ越したところで、また同じことになりそうだが?」
「大丈夫。次は頑張るから」
「本当に?」
「うっ……。追い詰めないでよ……」
「ずっと俺の家にいたらどうだ? 君さえよければ、だが」
「えっ。それって、つまり……」
「ん……。まぁ、そういうことだよ。シャレたこと言ってやれなくて、悪いけどな……」
「ううん。嬉しい。ありがとうね」
二人は抱き合うと、そっと口づけを交わす。
部屋の中にもう脅威はない。
いや、そんなんええから先に潰したゴキブリ処理せえや。
Sリッパーの一撃 御所内崇弘 @gosyouchi_takahiro
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