第4話

 その後の目的地までの道のりでは、私は自分を御することに成功し、不快感は消滅していた。


 11時ちょうどに予約を入れ、現在10時50分。待合室の様子からは、予定通りに診察が進んでいるようには考えられなかった。あと1時間で午前の診療が終わるというのに、20匹ほどの虫がそこに詰め込まれていた。その大半が精算待ちということもなさそうだ。


 結局、予定を20分過ぎて私たちは診察に呼ばれた。


 医師はジョロウグモの形をしていた。8個の単眼は患者を調べ上げるのに最適だ、と思った。母は羽音を立ててクモ医師に反応していたが、私にはクモとコミュニケーションをとる手段がなかった。クモは鳴き声を出すこともなく、私と母を診察室から出した。


 これからどうするのか、私には見当もつかなかった。母は静かに待合室の椅子に変な姿勢で腰掛けていた。それに倣って私も座り続けた。予測できない状況で待つのは辛いものだ。待ち時間が読めないこと自体腹立たしいが、今の私はそもそも次のイベントについて知らされていない。時間を感じないように思考に蓋をするしか、この受難を乗り切る方法がなかった。


 10分くらい待っただろうか。いや、主観的な時間はあてにできないので、具体的な数字にも意味はないのだが、とにかく待ち続けた挙句動きがあった。青いシーボルトミミズが母に近づいてきて、母が私の方を向いて羽音を出した。私は立ち上がり、母とミミズに続いて部屋に入った。


 その部屋は診察室とは異なり、道具や本がほとんどなかった。机が2つと椅子が4つ置かれ、1匹のキリギリスが椅子と机を1つずつ占有していた。私と母は隣り合って2つ目の机につかされた。私が起こすべき行動を示唆する物体が無いことで、初め動揺したが、カウンセリングルームではないかという予想がついた。


 キリギリスは、触覚を左右に振ったのち、「ギーッ、チョン」と鳴いた。1分ほどの沈黙ののち、次に母が翅を鳴らした。


 5分ほど、私は口を開かなかった。3回目の「ギー、チョン」が聞こえた時、私は自分に求められていることを理解した。このキリギリスは私に発言を求めているらしい。しかし、それが仮に正しいとして、何を発言するべきかわからなかった。15秒ほど考えて、わからないことこそ発言するべきことだと悟った。私はついに口を開いた。「何を話していいかわかりません」


「ギーッ、チョン。ギーッ、チョン」


「何と言っているか聞き取れません」


「キチキチ、キチキチ」


「え、何。わからないんだって」


 私の発言に対し、キリギリスはそれまでより音量を抑えて「ギーッ」と鳴いた。その虫は自分の机に置かれていた数少ない道具の一つであるノートを長い前脚で取り出し、口にくわえたペンで文字を書き始めた。書き終えると、口でノートをくわえて見せた。

 

 言舌、カ、、、門?耳耳又…


 文字が分解されてあちらこちらに這いずり回るようで、読むのに苦労した。目をパチクリさせたり、近づいたり離れたりして、ようやく『話が聞き取れませんか?』と書かれていることを突き止めた。私はすぐに反応した。「はい、聞き取れません、『ギー』とか『チョン』に聞こえます」


 キリギリスは体全体を揺すった。どうやら、私の状況を理解しかねているらしい。


 禾ムの戸カ`”…


 解読の要領を得て、一つ目の文章より早く読めた。『私の声がそんな風に聞こえるのですか』


「はい。虫の声に聞こえます。先生も虫に見えます」


『どんな虫に見えますか』


「キリギリス…かな」


 母の特大のキチキチ音が沈黙を破った。それに応えるようにギッチョンが鳴った。母が前脚を私の肩に乗せてきた。どういうつもりなのか。


 カウンセラーは体勢を変え、斜めにした。長い触覚をムチのように動かしたのち、再びペンをとって何かを書き始めた。


『いつからそうなりました?』キリギリスはノートを掲げた。


「先月、学校から飛び出した日…あれ、いつだっけ」私は母の方を向いた。母は音を出して補足した。


 カウンセラーは、続いて『他の人もそう見えるのですか』とか『思い当たるきっかけはあるのですか』と尋ねてきた。前者にはそうだと答え、後者にはすぐに思いつく答えがなかった。


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