第3話

 それから二週間、私は寝込み続けた。


 ようやく外出できる気力と体力を取り戻した頃には、周囲の人間全てが虫に見えるようになっていた。


 母に連れられて精神科医院に行こうとしたある日、私は数週間ぶりに身繕いをした。まさか自分まで虫になっていはしまいかと、かすかな懸念を抱いて洗面台の鏡の前に立った。案の定、鏡の中の私はゴキブリになっていた。


 よりによって私自身が、私が最も嫌う生き物になっていたのだ。猛烈な嫌悪感を催し、私は鏡から目を離した。洗面台の方を見ないようにして、私はしばらく髪を梳っていたが、ふと直接自分の一部が目に入った。それは私の手だった。ブラシを持った右手は、ベージュ色の皮と筋肉と内骨格でできた、5本の指を備えたもので、まさしく人間のものだった。指の長さ、動き、皮膚の様子。それらのどこにも、私の記憶に残されたものと変わりは無かったのだった。


 この発見によって、私は正気を取り戻したのではないかと淡い期待、自信のようなものを抱いた。鏡の中の自分の姿に衝撃を受けて3分ほども待たず、私は再び鏡を見る勇気を取り戻した。いざ、鏡をのぞいてみると、そこには鈍い光沢のある焦茶色のクチクラで覆われ、節だらけの脚と腹を持つ昆虫がいた。反射像には、あるはずもない触角と3対目の脚までついていた。鏡の中に変化が起きていないことが示されたが、自分の形状そのものが変わったわけではないことを理解し、この誤った反射像に多少冷静に向き合えるようになっていた。私が動くと、ゴキブリもそれにしたがって動く。右手を上げると、相対する昆虫は私から見て右側の前脚を上げる。私が左脚を動かすと、鏡の中の左側の後脚が動く。ゴキブリの触角と中脚の動きは、私の動きとは無関係のようだった。


 母に急かされて私は洗面台から離れた。実際に急かすような言葉を聞いたわけではないが、そう解釈するほかなかった。無論、母も虫になってしまった。ショウリョウバッタらしき昆虫で、よくキチキチという音を出す。私は言葉のない会話に慣れた。ただし、それは家の中だけで言えることだった。この家庭内で交わされる会話の内容など、高々100通りといったところだろう。文脈が理解できれば、言葉の意味を一字一句の単位で理解できなくとも会話は成立する。親が呼びかけ、私が何か反応をよこせば、相手はうまい具合に理解してくれるようだ。それゆえ、家庭内での言語は年月を経るごとに退化してゆく。老夫婦などを見てわかる通り、この傾向は一般的なものだ。


 母が先に玄関を出て、私はそれについて行った。 


 街中には節足動物、環形動物、その他名前もよくわからない分類群の虫達が闊歩していた。家から4分歩き、駅前の目抜き通りに出た時、私は立ち止まった。学校でも家でも感じたことのない恐怖感に襲われたのだ。虫の川に飛び込めば、私は溺れ死んでしまう。そのような表現が最も端的かつ的を得ているだろう。学校での体験とは対照的に、周囲の世界が私に突き刺さっているかのように、知覚が極めて鋭敏になっていた。私の視野に通行中の虫が1匹入るだけで、血管の中に熱した油を流し込まれたように疼痛と嘔吐を感じた。途切れることのなく現れる虫達の波に飲まれ、私の視覚は歪み、めまいを生じさせた。


 立ちすくむ私の姿を見て、母バッタは羽ばたいて音を立てた。その意図はよくわからない。私は、それを一応励ましと解釈することにした。それはありがたくない言葉がけ、いや、羽音がけだった。これ以上歩を進めることはできない、と体が判断しているので、それに反して脳が行動を起こすことはできない。ましてや、数週間寝込んでいて精神科に連れていかれる身だ。冷静な判断力で脳の覇権を取り戻すことなど不可能だった。


 不快な症状の最大の解決策は時間だった。私は一旦歩道にしゃがみ込み、それから10分ほどすると、体の火照りが治ってきた。まだ動悸と息切れがおさまっていなかったが、目眩を悪化させないようゆっくりと立ち上がると、母と目を合わせた。母は歩き出し、私はとぼとぼと後に続いた。


 なんとか駅にこぎつけ、私と母は電車に乗ることができた。


 私は車窓の外を眺めることで感覚過敏をしのいだ。電車が長い橋梁に差し掛かると、河川敷の風景が目に入った。巨大な堤防の内側に、綺麗に刈られた芝と土の図形が配置され、その上に点々と虫が這っている。球体が空に打ち上がると何匹かの虫がそれを追いかける。堤防の間のうち、半分だけが川の本体だった。川の中にも2、3の虫がいたが、道具を使って浮かんでいるようだった。それはゲンゴロウに見えた。なぜ自力で泳がないのか、と私は思った。世界は、窓一枚隔てて見るくらいでちょうど良いのかもしれない。


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