第2話
一限の開始を告げるチャイムが鳴った。私には、その音がはるか遠くから流れてくるかのように聞こえた。視覚だけでなく、聴覚も鈍っているようだった。
ホームルームの時と同様に、教師の姿を探し出すのに時間を要した。自分の鞄から教室の前方に視線を戻すと、黒板にしがみつく巨大なサソリの姿が目に入った。これが先生であるようだった。サソリは鋏脚を器用に使って、文字やら図形やらを書き始めた。
私はそれに驚きもしなかった。というのは、そのサソリと黒板がまるで一枚の壁紙の上に印刷された写真のように見えて、自分の目の前で起きていることだという認識が希薄だったからだ。私を取り囲む、この奇妙な絵巻物への関心は、時間が経つごとにさらに薄くなっていった。
私の頭は、それを読み取ることをも拒否し始めたようだった。黒板の字の各辺が勝手気ままな方向へ動き出し、そのまま分解してしまいそうに見えたのだった。それでも淡々とサソリは字を書き続け、他の机についている虫たちはそれぞれ脚や鋏をうまく使ってノートに字を書いている。器用に使える手足らしき器官をもたないナメクジまでもが、ペンを口にくわえるという手段でノートに書き付けていた。
私は自分の手元の教科書とノートに目を落とした。そこに何が書かれているのか読み取れなかった。それまで読むことを意識するまでもなく、字に目をやると自ずとその意味が頭に入ってくるようだったのに、今やそれが字であることすら認識が難しくなっていた。私はノートを閉じて表紙を見ると、自分の名前が書いてあるはずの位置に、細くて黒いミミズのようなものがうねっているのを見つけた。これが私の名であるということは受け入れられなかった。
白い筋がのたうつ黒板を見ると、新しく大きな図形が追加されていた。それは三角形に補助線を加えたものだった。手元の教科書にも同じような図が載っていた。この三角形が今日の題目に違いない。なぜ三角形を講義しなければならないのか、という疑問が私の脳裏に浮かんだ。そして、今朝教室に入って最初に思ったこと、なぜこの教室にいるのかわからないということも思い出されてきた。
冷静に考えれば不思議なものだ。これほど多くの虫が、飛び回ったり這い回ったりする欲求を押し殺して、机に向かって椅子におとなしく座っている。そもそも、この虫たちは人間の姿をしていたはずだが、その時から静かに授業を聴く習慣があったのだ。人間もまた活発に動きたがる動物だ。ましてや生徒たちは体力の充実した十代の若者たちだ。生徒たちはなぜこれほどの苦痛に耐えるのだろう。その先に何か大きな利益でもあるのだろうか。
おぼろげながら、高校に通う目的の存在を思い出した。それは将来のため、という言い回しで表現されるものだった。それが私の頭の中に、さらなる疑問の嵐を呼んだ。将来など存在するのだろうか。現在のどこを探しても「将来」なるものは見つからない。それは未だに発生していない事象のことであるという言葉の定義から自明なことだ。ならばそれを現在の努力でどうしようというのか。さらに、その「将来」なるものが目の前の三角形とどのように関係しているのか、そもそも関係があるのかとの疑いが湧いてきた。
記憶を辿ると、この場所に来るまでの経緯がかすかに蘇ってきた。私は家を出て、駅で電車に乗って、別の駅で降りてここまで歩いてきた。そのはずだった。それ自体の記憶があるわけではない。何度もこの一連の作業を続けるうちに、記憶をとどめておく重要性が失われてしまった。この場所に来ることにしたのは、今では本当に不思議なことに、一年ほど前に私自身が決めたことだった。いや、それも何か外部の圧力で仕方なくやらされたことかもしれない。当時は自分の意思でやったと思っていたのだった。何か目標とでもいうべきものを立てていたか、立てさせられていたことも覚えている。それが今日、突然崩れ落ちて、無意味の中に紛れ込んでしまった。
気づけば、私は廊下をあてもなく歩いていた。そして私は学校を出ていった。
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