五の解 ……志木宮 虚の場合

第20話 あわい 壱

「じゃあ、俺は行くよ」

 言って、化学室と廊下との境界線を渡ろうとしたその時だった。


 なにか、違和感があった。

 それがなんなのかよく分からなかったが、しかし、俺はなにか知っていると思えた。

 このまま、なにも気にせず前に進めば、俺は――確実にやられる。


 ばっ、と後ろを振り向く前に、横に数歩、ずれた。

 反復横跳びのように機敏に動き、俺はここまで動けたのかと、感心してしまうほどだった。

 動いてみるものだな、と心の中で呟き、俺は危険を感じなくなって、初めて後ろを振り向く。


 そこには。

 手を伸ばして固まっていて、けれど笑っている、淡の姿があった。



「……ここまでこれたのは、お前が初めてだ。一回目だよ、虚……」



「淡、お前は……」

 

 俺の頭に触れようとしていたのか。

 だとすれば、淡も逃亡者なのか……?


 確かに、あいつ自身が自分のことを『鬼だ』などと言ったわけではない。


 逆に、逃亡者とも言っていない。

 曖昧に、濁したままだった。……まんまと騙されていたのか。


「五万三千二百三十二回目だ」

 淡は気が遠くなるほどの数字を言って、

「これで、最後にしよう――」と俺を見つめる。


「ああ、最後にしよう。同じ繰り返しは、もううんざりだ」


 淡も同感だったのだろう、


「当然だ。当たり前の思考回路だよ、それは」


 言いながら、首をぐるぐると回す。

 あの行動はこれからなにかをする時の、準備運動的なものであって、それをしたということはこれからなにかが始まるということを意味している。

 話し合いなんかじゃなく、もちろん、鬼ごっこだ。


 鬼ごっこをしていたのだから鬼ごっこをするのは当然だろう。

 ここで違う遊びをするほど、俺たちは飽きっぽいわけじゃない。


 さて、始めようか。


 古典遊戯――鬼ごっこを始めようじゃないか。


 鬼が追いかけるだけでは終わらない。鬼は逃亡者になるし、逃亡者は鬼となる。

 同時に、追いかけ合い、逃げ合いの、戦い。


 なんて面白いのだろうか。

 なんて楽しいのだろうか。


 俺は心の底から楽しんでいた。

 繰り返しのループなんて忘れるほどに、俺は必死に淡を追いかけていた。


 そして、逃げていた。


 化学室の中での小さな戦い。

 逃げる、追いかける――、というよりは、手を伸ばす、避けるだけの攻防だった。


「埒が明かないな」

 呟き、素早く、淡が一気に距離を詰めてくる。

 俺は咄嗟には反応できず、淡の射程範囲の中へ、強制的に侵入させられた。


 淡が俺の頭にめがけて手を伸ばしてきて――いや違う。

 手の形がぐーなのは、絶対におかしい。


 俺は横へ転がるようにして避けた。

 ががんっ、と長方形の机に頭をぶつけ、痛みに、全ての神経を奪われるかと思ったが……そんなことはなく、俺の視界の先には、信じられないような光景が広がっていた。


 壁に作られた、小さな凹み……、ぱらぱら、と壁の破片が床へ落ちていく。


「嘘だろ……」

 思わず声が出た。おかしいだろう。凹み自体は小さなものだが、だからと言って、威力が小さいというわけじゃない。そもそも、凹む時点で威力に関して言えば、おかしいのだ。


 人に向けて良い力じゃない。

 人間が耐えられる威力じゃない。俺なんかに向けるものじゃないだろう。


「お前、正気かよ……」

 もしも俺が避けていなかったら、冗談では済まなかったところだ。

 ……、冗談なのだろうか。俺が見る限り、本気に見えた。

 なにか違和感だ。俺を殴った時と、今の淡では、決定的になにかが違う。


「ち、が――っ」

 邪念を払うように、ぶんぶんと首を左右に振る淡。

 様子がおかしいことは、誰の目にも、明らかだった。


「淡……?」


「来るんじゃない、来るな――やめろッッ」

 まるで、見えない敵から逃げているように、淡が暴れていた。


「どうしたんだよ、おい! 淡っ!」

 呼びかけるも、淡の調子は変わらず、気づけば、どんどん酷くなっていっている。


「どうなって」

 いるんだよ、と呟く前に、さっきまで姿を見せず、会話にも入ってこなかった謡が、俺の横にふわふわと浮いていた。


「――マズイね、これ」


「マズイって、どんな風に?」

 俺の問いに、謡が、


「こんなふーに」

 と両手を思いきり広げた。いや、分からないんだけど……。


「今の淡さんは、自分の強力な妖力ようりょくに、飲み込まれそうになっているんだよ」


「飲み込まれそうに?」

 俺の復唱。謡は頷いて、

「そうそう。聞くけど、妖怪が人間の信仰で生まれているってことは、知ってる?」


「いや、知らないな」

 今、初めて知ったくらいだった。


「むー、そうかそうか。どう説明すればいいかなー。むーん」

 謡が、人差し指を額に添えて、考えていた。


 俺も、全てを謡に任せる、というのは重荷を背負わせ過ぎだと思い、

 自分なりの考えをまとめてみる。


「……人が願えば、信じていれば、妖怪は生まれる。そういう解釈でいいのか?」

 不安だったが、これ以上に、俺の脳は解釈できなかった。


「そうそう。概ね、それで正解かな。というか、謡だって知らないし、興味ないし」

 おい。テキトー過ぎるだろ。


「いいんだよ、テキトーで。で、妖怪は人の願いで維持されている、と言ってもいいんだよ。

 それじゃあ、もう一つ。妖怪の性質は、基本、願いなんだよ」

 

 謡が言う。


「謡なんかとは違くて、人の願いによって生まれたから、人の願いを叶えることができるようになっているんだ。淡さんも四隅さんも静玉さんも変わらなくて、例外なんかじゃないんだよ」


 願いから生まれた存在。

 自分が生まれてこれたのは、人の願いによるものだから。

 だから今度は、こちらが願いを叶える番だとでも言うように、

 妖怪たちは、人間に願いを求める――それは、恩返し、なのか?


 だけどその恩返しの全てが、全て人間のためになっている、わけでもない。

 もしも人のためになっている可能性が多ければ、妖怪はもっともっと、良い奴だと世間に認知されているはずなのだ。

 それがないということは、失敗ばかりの欠陥製品、ということになるだろう。

 ひどい話だけど。人間とは、そういうものだ。


「そして、俺の願いを……」

 俺の止まった言葉を補うように、


「淡さんを始め、四隅さんと静玉さんが叶えた、わけだね」

 

 と、すらすらと謡が言った。


 一つの失敗から、戻りたいと願った俺の意思を、あいつらが叶えた。

 それは、感謝するべきなのだろう。恐らく、あのままなにもせずに進んでいたら、俺は間違いなく、壊れていた。既に、もう壊れてはいるが、さらに壊れていただろう。

 修復不可能なくらいには。自分でもそれが分かる。


 しかし、今度は叶えた側である淡たちが、壊れてしまいそうになっていた。

 もしもこのまま淡が壊れたとしたら、俺はまた願って、そして、同じようなことを繰り返してしまうだろうな……繰り返しの、繰り返し。抜け出すことは、さらに困難になっていく。


「……こんなもん、どうすれば……」

 

 情けない声が出る。繰り返しから抜け出すためには、鬼ごっこで俺が勝つ、という方法での解答で前に進めばいいのだが、そのためには、淡を捕まえなければいけない。

 あの淡をだ。


 自分の力に喰われている、あの淡を捕まえる。

 簡単なことだと、口では何とでも言える。

 しかし俺のような人間が、真正面から攻めなかったとしても、攻めたとしても、結果は変わらないだろう。


 自我のない暴走状態の淡に殺される。物理的に、間接的に、具体的に、抽象的に。

 真っ赤に染まって始点に戻る。そして繰り返す。

 本当の終わりへの道を辿るには、一つの解答しかなく、

 それに辿りつけなければ、また繰り返される。


 記憶を引き継げないまま、リセットされた状態で。


 こんなのものはコンティニューなんかじゃない、ニューゲームだ。


 続きからではなく、始めからだ。


 ちら、と淡を見れば、


「くそっ、なんだよ、これは……、こんなのが……こんなのがッッ」


 自分の頭を抱え、頬を掻き、肩を震わせ、抱き寄せて――呪文のように呟いていた。


「くそ、くそッ! 痛い、痛いッ、なんで、なんでよぉ……ッッ」


「――っ、淡!」


 俺はがまんできずに淡に駆け寄る。

 走り出した時に、背後から謡の引き止める声が聞こえたが、そんなものに従うつもりはない。

 だから無視を決め込んだ。

 今は、一刻も早く淡の傍にいて、楽をさせてやりたかった。


 たとえ、俺自身が危険な目に遭ったとしても。


 ぐんっ、と俺の胸倉を掴んだ淡が、思い切り真上へ腕を上げて、そして放す。

 されるがままの俺は、天井に衝突して、一瞬の間の後、そのまま真下に落下した。

 

 落ちた時の衝撃で、自然と地面に頭突きをするような形になってしまう。

 痛いが、無視する。痛みを感じていれば、動きは鈍る。

 だから、俺は全てを無視して、どうでもいいと吐き捨てる。


「痛っ、くそぉ!!」


 勢い良くバックステップ。俺が今、寝転んでいた場所、そこには大きく振り上げた、淡の足が深く、強く、めり込んでいた。

 バキバキと音を立てて、地面から足を引っこ抜く淡の表情は、いつもとは比べものにならないくらいに悲しそうで、目は、俺を完全に敵と判断していた。


「いきなり突っ込むなんて、なにをしてるのっ、うつろんろんは!」


 駆け寄ってくる謡に、


「うるせ、いいだろ別に、俺の勝手じゃないか」


「勝手だけど、そうだけどこっちの身にもなれってんだよー!」


 腕をぐるんぐるんと回して、ぽかぽかと殴ってくる謡。

 さっき説明していた時のような、達観していた雰囲気はなく、年相応というか、中学生らしいというか、いつもの謡だった。


「分かったって、ごめんって。だからもう殴るのはやめろよ」


「あ、そう。うん」

 謡が殴るのをやめてくれた。

 これでゆっくりと考える余裕ができた……けど。


 考えることと言っても、ぱっとは出てこない。

 が、ちょうどいいのが、目の前にいた。


 そう言えば、と気づいたが、謡は、淡たちとは少し状況が違う、ということになるのだろう。

 それは妖怪と幽霊の違いだ。


 有から生まれたものと、無から生まれたもの。対極とも言える存在。


 この事件に関して言えば、淡も四隅も静玉も、俺になにかを隠しているような、そんな匂わせたような言動を取ることがあった。

 だけど謡にはそれがなく、さっきだって、淡に指示をされて俺を攻撃したのだの、なんだの、隠す気が皆無だった。


 ということはだ。

 謡はこのゲームに、深く関わっていない……、ということになるのか。

 だとすれば、霊的な力で、干渉ができるのではないか。


「謡は、俺の願いが届いて力を使ったわけじゃないんだよな?」


「うん、そうだね。うつろんろんの願いなんて聞いても叶えないし」


 よし、気になる言葉があったけど、今は深く追及しない。

 疑うわけではないので、謡の言葉を信じるとしよう。


 俺は謡と淡を交互に見て、


「謡、お前、淡に憑依できるか?」

 聞いた。できないのならばm別にいい、また違った案を出せばいい。

 ようは、淡の動きを数秒でいいから、止めてくれればいいのだ。


 止めてくれれば、後は俺が、淡をタッチする。

 たとえ淡が、淡自身の力に飲まれていたとしても、ただタッチをするだけなら、俺の手だって届くはずだ。

 戦うわけじゃない。倒すわけじゃない。

 触れる、という一つの事に全神経を注げば、できないこともない。


「できるかは分からないよ?」


 謡の弱々しい声。だけど、


「やれるだけ、やってみる」


 その声は、力強かった。


「ふう」と俺は一息吐き、覚悟を決めて――、


「行くぞ、淡。

 チームプレイというものを、見せてやる」


 基本、苦労するのは謡、ただ一人なのだが。


 決め台詞っぽく、俺は淡にそう言ってやった。

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