第21話 あわい 完
淡の様子は未だ変わらず、目はしょぼしょぼと、足元はふらふらと、全身はぐらぐらと。
淡も内側で、必死に戦っているのだろう。
支配されないように、飲まれないように。
だったら、少しだけ手伝おうじゃないか。俺ではなく、謡が。
「かっこいいこと言ってるけど、結局、全部わたし任せなんだね」
呆れて、人を見下すように謡が言う。
否定できない。する気はないけどな。
「俺はなにもできないし、力がないから。だから、謡に任せた!」
「別に悪い気分じゃないからいいんだけどね!」
そう叫んで、謡が一直線に、淡の元へ突っ走って行く。
淡は揺れる視線を謡に定め、だらんと垂れていた腕を謡に向けて伸ばした。
しかし、彼女を捉えることはできず、触れることもできない。
それは狙いをはずしたというわけではなく、謡の体が、透けていたということ。
すかっと――、透ける。
気持ちの良い空振りをして、淡がバランスを崩す。
驚いたような顔をしている……、つまり、もう既に、淡の中に以前までの淡はいない、ということなのか……?
人格が塗り潰された、という可能性はあるが、そうではないだろう。
確信があるのには理由がある。たまにだが、淡ではない人格の中にも、淡らしさが存在していた。それは淡が、中で必死に戦っている証拠である。
淡の人格が、しっかりと残っているのだ。
だったらまだ、隙はあるはずだ。
謡が、すぅっと、淡の肉体に触れて、内面世界へ片足を突っ込んだ。
ここから先は、俺の仕事だ。謡が淡に憑依したとしても、動きを止める時間はそう多くない。
少ないと思っていた方がいいだろう。
実際、どうなのか予想がつかないが、
ピタリと淡の動きが止まった時に、すぐにでも走れるように準備をしておくべきだ。
少しずつ、時間が経っていき――、
「が、う、うああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
淡いの叫びが化学室に響き渡った。
「――うつろんろんっ!」
分かってる!
言われなくても、俺はもう既に走り出している!!
「耐えられても数十秒! だから急いで!!」
数十秒。なら、全然、間に合う。
歩いてでも間に合うじゃないか――と油断をした。
自分では分かっていたつもりだが、やはり人間。
大丈夫だと思うと、自然と力を緩めてしまうらしい。
俺も同じく。全速力で走っていた足が、だんだんと全力を出し切ることをサボっていく。
しかし、後少し。
後少しで、淡に触れることができる。
触れる、タッチできる――これで、終われる……、
しかし――。
「え?」
疑問。そして驚愕。
「死ね」
淡の声で、姿で、しかし、淡じゃないなにかに、そう言われた。
速過ぎてついていけず、俺は今どこで、なにをしているのか理解できない――ただ、振り下ろされる拳――、否、まるでナイフのように鋭く尖った、黒色をした手刀を、ただただ見ていた。
あ、終わる。終わって、始まる。
またあの繰り返しをするのだろう。
死ぬのではないのだから、それはそれでいいのかもしれない。
死んで生き返って同じことを繰り返すのであれば、死んだままよりは、全然、良いのではないか……、でも、だけど、俺はそれでいいけど……。
淡は、静玉は、四隅は、謡は。
またチャンスがくるまで、耐えなければならない。
今で、五万回もおこなっている。
じゃあ、次はいつだ? 六万か? 十万か? 百万回、かかるかもしれない。
それまでずっと、堪えていろ、とでも?
偉そうに言える立場か、俺は。
そんなこと、言えない。そんなこと、言いたくない。
堪えさせたくないし、そんなこと、もうしなくていいと、言いたい。
そのためには、俺はこんなところで、死ぬわけにはいかない。
眼前に迫る手刀を、ただただ見ているだけなんて――諦めていいはずがない。
「――ああああああああッッ!」
叫びと共に、俺は自分の腕を、顔の前に盾として構える。
ぐさりと、ナイフが腕に刺さった音。
ぐちゃり、と腕の中身が潰れたような感覚……、感覚は死に、腕の制御が破壊された。
だけど俺はまだ諦めずに、進む手刀を止める。
自分の叫びだけが、正気を保てる唯一の支えだった。
「あああああああああああああああああッッ!」
手刀を取る。握った手が傷ついた。だけど、そんなこと、構うことなく、俺は手刀――、
淡の腕を、思い切り自分に引き寄せた。
とん、と淡の体と俺の体が、くっついた。
俺は、淡を抱き寄せて、言う――、
「捕まえた」
そして、淡もまた、言う。
「捕まった」
繰り返しはない。
時は戻ることなく、正常に前へ進む。
俺たちの長い長い繰り返し物語は、これで終わった。
いつだったか、『出会いは悲しく、別れは嬉しく』と俺は言っていた。
しかし、今の俺がそれを言ったところで、
説得力など、まったくと言っていいほどないだろう。
もし本当に、この言葉を本気で言っているのならば、俺はあんなに必死になって、みんなを助ようとはしなかった。自分のことだけを考えていれば、繰り返しを認めて、その生活を受け入れていたはずだ。
だが、俺は解決を望んだ。
みんなを助けることを望んだ。
それは俺がみんなを、友達を、仲間を、大切にしているからだろう。
自分で言っていて信じられないけど、俺は行動で示してしまっているのだから。
否定できない。しようとも思わない。
俺は変わったのだろうか。
変わったのだろう。そういう疑問が生まれてくる時点で、俺は変わったのだ。
だったら、言葉も変えようか――訂正をしようか。
そして言おうか。
俺がテキトーに、二秒で作った薄い言葉を、もう一度。
「出会いは嬉しく、別れは悲しい――だけど、悲しいだけとは限らない」
たぶん、そう言える。
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