第17話 うつろ 参
静玉に捕まった時のことは、よく覚えていない。
確か、三階の部屋に入った時――、しかし、そこからの記憶が曖昧だった。
足や手が地面に沈み込んだ、のか? 自分で言って、信じられない。
だけど、記憶の片隅にあるのだから、一度、いやたぶん、何千回と体験しているからこそ、俺はこうして記憶の片隅から事実を引っ張り出してこれたのだろう。
ないものはどれだけ探してもない。
しかし、あるものは探せばあるものだ。
「沈んで、それから俺は気絶していた、ってことになるのか」
だとしたら、一番怪しいと言えば、三階の下、二階の部屋だろう。
沈めば下に向かう。
少なくとも上に向かうことはないのだから。
いや、しかし妖怪ならば、人間の常識以上、理解できないことでも起こせるのかもしれないが――まあ、とりあえずは二階に行ってみるか。
行かなければ始まらない。始まらなければ、終わりがない。
事態を終わらせるためには、始めるしかない。
二段飛びで階段を駆け下り、数秒で、俺は二階へ辿り着く。
二階はやけに静かだった。当たり前と言えば当たり前だが。
だが、人がいない静かさじゃない。ここから先に、なにかが待っているような、得体の知れない静けさだった。
「……静玉の奴、威嚇でもしてるのかよ」
俺が罠に引っ掛からないことに、怒っているのだろうか。だとしたら身勝手な奴だ。
自分の思い通りにいく事なんて、そうそうないんだから。
だからイライラしてても仕方ないと思うがね。
たん、たん、と自分の足音が耳に届く。
ゆっくりと歩いているというのに、なぜか嫌に響くものだ。緊張でもしているのか。
足が変に震える……恐い? 怖い? 静玉のことが? まさか。
でも、自信を持って違う、とは、言えなかった。
「……ここの、はず」
俺は一つの部屋を見つけ、近づき、扉に手をかける。
「うわ」
驚いて、慌てて手を離してしまった。
その判断は正解だと言えるだろう。
この扉――、五秒でも触っていたら、俺の手が凍る。
「ここまでやるのかよ、静玉」
まるで、誰も自分には近寄らせない、とでも言っているかのようだった。
いや、もしかしたらそう言っていて、それを示しているのかもしれない。
だったら俺は、無理やりにでもこの部屋に入るしかない。
俺が繰り返してきたこの世界を、静玉は見てきて、その過程で――、
「精神が壊れた、か」
別におかしいことでも変なことでもない。そうなるのが普通。
なにも感じていないような淡が異常なだけだ。四隅に変化はないが、しかし気にしていないとは言えない。
四隅は表に出すことがなかった。俺が失敗しているがゆえに溜まる不満やストレス、やめたいという欲求。四隅はそれを抑え込むのが上手くて、静玉は上手くなかった。
それだけだったのだろう。
静玉は俺に、不満やストレスをぶつけたかった。俺はそれを、拒否する気はなかった。
だから思いきり跳んで、扉にドロップキック。
扉は、ぎしッ! と嫌な音を立て、部屋の中へ吹き飛んでいく。
俺は力が強い方ではないけど、扉一つを破壊できるほどの威力はあったようで安心した。
「よお、傷心中か、静玉」
「うつ、か」
広い部屋の真ん中で、椅子に座っている雪女が一人……。
「そうそう。そういうお前は、
ギロリと睨む静玉。睨まれる俺。
それにしても、寒い。部屋の中がまるで南極かと思ってしまうほど寒く、いや、実際に行ったことはないけど、たぶんこんな感じなんだろうとテキトーに思って言ってみただけだ。
俺の体が小刻みに震えているのは、寒さのせいなのか、それとも、ギロリと睨まれたせいなのか、いまいち分からなかった。
静玉は、俺の方など見ずに、ずっと俯いたまま。
口だけが、動く。
「何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回何回――」
呪文のように呟く静玉。
「――何回失敗しているのよ、あんたは!!」
「難解なんだよ。この解は」
溜息混じりに俺が言うと、
「ふざけるなッッ!」
静玉の怒りのボルテージが、一気に上がったらしい。
彼女が立ち上がり、俺に向けて手をかざした。まるで、狙いを定めるように――まるで、ここから逃がさないとでも言うかのように。
いいよ、別に。逃げる気なんて、さらさらないし、受ける気は当然、あったから。
「不満なら全部、受け取ってやる。俺のせいだから当たり前だろ?」
「覚悟はあるのね?」
もちろん。お前の氷で凍らされても、別に怒るつもりもない。
俺の自業自得。納得は、簡単にできるのだから。
「じゃあ、ここでわたしがうつになにをしても、あんたはどうもしないと?
なにもしないと? たとえ死んだとしても? そう言うの?」
「そう言うよ」
変更はしない。
男に二言はない、というセリフが好きなわけではないが、
今だけはこの言葉を借りるとしよう。
「男に二言はない。俺はお前に殺されたって、文句はない。自業自得だからね」
「そう」
静かな声で、静玉が俺に向けて声を発した。
消えそうな声で、俺はギリギリ、耳で拾うことができた。
静玉は俺の意見に納得したらしい。だとしたら、ああ、俺は殺されるのか。
殺されないにしても、仮死状態にはなるのかもしれない。
ま、当然の結果だ。あれだけこの繰り返しを止めると意気込んでいたが、まさかこんな形で終わるとは――、思っていなかったわけではないが、少し後悔が残るかな。
俺にしては珍しく、本当に珍しく、このまま終わりたくないと思っていた。
まだまだいけると、まだまだ動けると、でも、どうしようもない。
「俺の力を越えるようなことは、できないんだよ」
呟いてから、
「じゃあ、越えないことなら頼んでもいいの?」
静玉が、言った。
「……なんだ、なにもしないのかよ。俺、結構本気で、覚悟を決めてたのに」
膝が崩れ落ちそうだったが、なんとか踏ん張った。
静玉は俺の目の前で、この部屋に入った時と変わらない体勢で、椅子に座っていた。
目の色は正常で、さっきのような死んだ魚のような目ではなかった。
「うん。うつが頑張ってるのに、当たってもしょうがないって、分かったから」
それに気づくのは、もっと早くても良かったのではないか。
そんな無責任なこと、口に出さない。言うのは卑怯だ。
「そっか。俺のせいなのにな」
「そうかもね。そうかもしれないけど、そう思っているのなら、どうにかしてよね。
止められるのがうつだけなら、それをするのがうつの役目でしょ?」
そう言ってくれるのはありがたかった。人を慰めるだけでなく、きちんと責めてもくれる。
それは加害者側からすれば、ありがたいことなのだ。
優しいよりも、よっぽど優しい。厳しいくらいが、優しいんだ。
「待ってくれるのか?」
「待てないと言っても、現実が変わるわけじゃない。
無駄なことを喋るくらいなら、待ってるよ、いつまでも」
いつまでも。いつまでもって、いつまでだ? いつまでもか――ずっと、か。
「分かった」
そう宣言してから、俺は静玉の腕に触れた。タッチをした。捕まえたという、証拠になった。
すると、
「はぁあわ。……眠くなった。寝る、じゃあね」
そう言って、静玉が床に寝転がった。床に直接――ではないか。
凍らせたのか。床の上に水色の膜が張ってあるから、汚くはないのだろう。
さすがは雪女。もっと別のことにその力を使えよ、と思うが。
「眠って起きた頃には、全部を終わらせておくよ、静玉」
気持ち良さそうに眠る静玉にそう告げて、俺は寒い部屋を出る。
外は暑そうだが、急な温度変化で体調を崩しそうだったが、気にしていられない。
四隅を捕まえ、静玉を捕まえ、そしてあと一人、残っているのだ。
最終決戦としてはどうも締まらないが、油断はできない。
油断などしない、そう心に言い聞かせ、俺は彼女が待つ、化学室へ向かった。
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