四の解 ……楠木 淡の場合
第15話 うつろ 壱
「…………」
沈黙してしまった俺に気が付き、淡が声をかけてきた。
「なにをそんなに真剣に悩んでいるんだよ。
どうせ三つだ。どこに行こうがそんなに変わらないだろ」
「まあ、な」
そうなんだろう、そうなのだろう。淡が言うのだから、正しくて、間違っていなくて……。
だけど、なんなんだこの胸騒ぎは。心臓がうるさく騒ぐ。
暴れるように叫び、血液が回るのが高速に感じる。
「じゃあ」と俺は腕を上げる。
けど、宙を漂う腕と指は、自分が向かうべき方向を示してくれない。
右に曲がるか、階段を上るか、下るか。その選択肢しかないのだが、なぜだろう?
どこを選んでも、全て面白くない展開に進みそうで選べない。
「おい、虚」
不審に思ったのか、声をかけてくる淡。
もし淡にこの感情を言えば、淡は助けてくれるのだろうか。
助けてくれる気もするし、
「あはは、んなわけないだろうが、さっさと進め、バカ」
と笑って背中を押してくれそうな気がする。
どっちでもいい。俺は、どうにかしてこの不安で固められた心を溶かしてくれる、きっかけというものが欲しかった――。
「なぁ、淡、実は――」
「お前は、なにか知っているのか?」
え? ――という言葉は、口から発することができなかった。
口が開いていないのだ。淡のセリフが予想外過ぎて、しかも俺の不安をさらに手助けするように、上乗せするように、増してきやがった。
「いや、なんでもない」
いや、なんでもないわけないだろう。
「どういうことだよ。お前こそ、なにか知っているのか?」
俺の切羽詰まった様子に、「う」と一言だけ漏らした淡。
「知ってるんだな? 教えろよ、教えろ――淡」
「落ち着け。この様子じゃ、説明しても頭に入ることはないだろ」
淡はそう言って、壁に背中を預ける。
ふぅ、と一息入れ、
「またか」と呟いた。
意味が全く分からない。
また? ということは、以前にも俺は、同じことを言ったみたいな言い方じゃないか。
「お前がなにかの異変に気付いたのは、二万五千四百八十二回目以来、だな」
と、一瞬ではまったく理解できない言葉を発した。
「その前の、一万九千五百九十九回目も気づいていたが、結局失敗に終わったしな」
「なにを、言って……」
「お前がこの鬼ごっこをした、回数だよ」
淡が告げる。……駆け抜ける衝撃。それが俺の体を裂くようにして、走り抜ける。
「今のお前で、三万二千百四十二回目。そろそろ、私の精神もおかしくなりそうだ」
見た目からして、そうには見えないが、淡のことなど、淡にしか分からない。
だから淡が自分自身を分析して言っているのならば、そうなのだろう。
「どういうことだ……?」
「それを聞くのも、そして答えを教えるのも、もう何回目だろうか。数えていないわけじゃない、数えるのなんて、無駄だろうと思ってるが、やはり退屈で考えてしまうんだよ。
ここまでの謎に踏み込んだのは、九千九百八十三回だ。一万に届いていないんだよ。
お前も鈍い鈍い。鈍器かよ」
それはよく分からなかったが。しかしそこまで何回も繰り返しているのか?
俺はそれに気づいていない、いや、覚えてない、いや、忘れているのか?
「勘違いしてほしくないのは、これは私たちが望んだわけでも仕組んだことでもない。
最初は一つの失敗だったんだ――」
失敗。失敗なんて当たり前のように転がっている。
人間、それにたまたま躓いてしまうだけなのだ。
そこから這い上がるのか、這い上がらないのかは、そいつ次第。
起き上がる奴はすぐにでも起き上がるし、起き上がらない奴はいつまでも這いつくばったまま――過去に、そんな言葉を本で読んだことがある。その通りだと俺は同意したのだ。
「たった一つの失敗をしたのはお前だ」
淡は俺を指差した。
「お前は、起き上がることができなかった」
「……否定はしない。俺は躓いた時、起き上がれないタイプの人間だからな」
いや、と淡は首を左右に振った。
「確かに起き上がれないタイプだが、しかし、お前は起き上がろうとしたよ。
だけど、お前は普通の人とは違う思考回路を持っていた。
……普通、失敗をしたら、お前は起き上がり、どこへ向かう?」
「? ……前、か?」
不安だったが、どうやら合っていたようだ。
小さく口笛を吹き、「ぴんぽーん」と淡が言う。
「だろうな。普通はそうだし、お前でさえ前に進むと、失敗をしていない時点ではそう言った。しかしだなあ、しかしなんだよ、虚っち」
……シリアス場面では突っ込まない。
「そんなお前でもだ。やはり失敗というものは、恐いと感じたんだろう……、冷めている、欠落しているお前でも、失敗をすれば、どこかが壊れてしまったらしいな――」
最初から壊れていると自覚しているのだが、淡からすればこの、『壊れている』よりも俺は『壊れて』しまったのだろうか。
「スクラップよりもスクラップ。ジャンクよりもジャンクに。お前の頭は新機軸に突入したようだよ。お前は失敗をして、そこから這い上がり、前に進むのではなく」
淡は一旦、そこで切った。
そして俺の瞳を見つめて、
「後ろを向いた」
「後ろ……過去、か」
「そうだ」
淡の透き通るような声が、俺の耳に入ってくる。鼓膜が絡め取られそうになって、ぶるりと身を震わせる……、蛇の舌かと思ったぞ。
「未来に進むよりも、過去をやり直すと言った。
私たちも妖怪だ。それくらい、できないこともない――」
簡単そうに言うが、簡単なはず、ないだろう。
人間である俺でも分かる。……難しいとかそういうレベルではないはずだ。
「条件はあるが、過去をやり直すということはできるんだ」
「条件ってのは?」
それが一番、気になるところだ。
「記憶を継続させない」
と淡。
「だからか」
俺が三万回も同じことを繰り返しているのは、失敗を受け継げないから同じ失敗をするのか。
「そしてお前は、自分自身でハッピーエンドと言えるエンディングを設定した。
それを達成するまでは――」
「俺は、永遠にこの繰り返しに囚われ続けるってわけか」
俺の解釈に、
「そういうことになる。この説明も九千――」
と、長ったらしい数字を並べようとしていたので、
「いい、いい面倒くせえ」と止めておく。
数字を聞くだけで、それほど俺は失敗しているのか、と落ち込みたくなる。
「お前らは、ずっとずっとずぅっっ、と、見てきたのか。俺の敗戦記録を」
「ずっとずっとずぅっっっと、見てきた。嫌になるほど。
でも次こそはやってくれる。どうにかしてくれる。そんな期待もあった。
逆に、もう二度と終わらないんじゃないか、という不安もあった」
どうして淡は、付き合ってくれているのだろうか。
淡の言葉からして、四隅だって、静玉だって、謡だって、俺に協力してくれているはずだ。
そして、みんな、俺の失敗を見てきたはずだ。
いつやめたっていいはずなのに、いつこのループを切ったって、いいはずなのに。
「お前を信じているからだよ」
恥ずかしくて俺にはとても言えないような答えが返ってきた。
淡も言ってから後悔したらしく、「うわぁ……」と顔を伏せた。
「私としたことが、痛いぞこれは」
まあ、一理はあるが。
しかし残り部分は、格好良いと思ってしまった。
「期待に応えられなくて、悪いな」
「まったくだ」
その返しは予想していなかった。
「でも、理由はそれだけじゃないんだよ。私たちの力でやめることなんてできないんだ。
お前が成功して抜け出すまで、このループが終わることなんてない――」
それも予想外だった。
「それじゃあ、俺が成功するまで、お前らまで一緒に苦しむことになるじゃないか……っ」
「いいんだよ」
淡は、なぜか微笑みながら言った。
「お前は私のお気に入りなのだから」
それは、その言葉は、俺の不安だった心を包み込んでくれるくらいには優しかった。
俺は、人の甘さや優しさなど、信用のできないものにすがることを良しとしなかった。
そういう人間で、そういう人格なのは、生まれた時からだったから、疑問を抱くことはなかったし、今までそうやって過ごしてきた。普通だと思っていた。
だけど今、すがりたいと思ってしまった俺は、弱いのか。
意志を曲げる、脆い人間なのだろうか。
「違うだろ」
淡の声。
「それは成長だ。弱い人間なんかじゃなく、強い人間としてお前は成長したんだ。
それのどこが、悪いと言うんだ?」
妖怪が人間に向かって言う。
「妖怪はこれ以上、成長しない。あとは退化していくものだろう。
確証はないがな。だから信じろとは言えないが、まあ、それはどうでもいい。
お前だって興味もないだろう?」
俺は黙って淡の言葉を聞く。
「妖怪は退化するのみ。けど、お前は、人間は違うだろ?
このまま進化するだけだろ?
衰えだって、退化だって、お前にとってはまだまだ先のことだろうよ」
「そうだ、よ……」
俺の声は、自分が思うよりも震えていた。
「お前が、どれだけクズだろうが、ゴミだろうが、気色が悪かろうが」
そこまで言うか。
「ふん、どれだけマイナスだろうがなあ、これから先、プラスにならないとは言えないんだよ。
成長しない? そんなもん、生きていないのと同義じゃないか。
成長を望めない人生に意味なんかあるのか? ねえだろうが」
まだ、続く。
「成長しない奴なんかいない。成長しないなんて言ってる奴は、自覚がないだけだ。
成長を認識できていないだけだ。できていないだけで、実際にはしているんだ。
誰だって、お前だって――。どれだけ欠けていようがな……。だから」
だから、だから、だから。
俺の心の中の復唱を待っているかのように溜めて、
「お前はこのループから抜け出せる。私は、お前を信じて待つことができる。
たとえ億を越えて、兆を越えようが、いくらでも待ってやる。苦痛? はっ、笑えるな。
妖怪に待てるか? なんて、聞くだけ無駄だよ」
何百年、生きていると思っている。
俺は自分のことを何度も何度も不幸だと言っていた。言い続けていた。
幸せなんて二度とこないと。まず一回目がきていないから、どんなものか分からない――しかし、これまで欲しいとは思わなかった。
幸せだからなんなのだろうか。今の不自由ない生活が変わるのだろうか。だとしたら幸せなんていらないだろう。そう思っていた。
不幸になりたくもなく、幸せになりたくもなく、現状を維持していればいい。
俺は幸せが分からなかったのだ。だけど、俺の今の気持ちを言い表すとしたら、これしかない。やはり、幸せなのだろう。……なのだろうか――なのだろうな。
「幸せなんて、人それぞれか」
呟く。
「俺は、幸せ者だよ。ここまでされて、ここまでしてくれて。これ以上、待たせるなんて、できねぇ、よなあ……」
覚悟を決める時がきたのだろう。
覚悟――なにそれ? と今まで色々と理由をつけながら避けていたものだ。
暑苦しいイメージがあって、俺は積極的に避けていたのだ。
しかし、俺もそれを体験する時がきたようだった。ああ、分かってる――分かってる。
死ぬ覚悟じゃ、ないよな。死んでも生き残るという、生存への覚悟だよな。
三万回と失敗して、一度も成功していない。
全て、バッドエンドを迎えてきた。
ハッピーエンドなんてなく、全て後味悪く。全てをリセットして、元に戻ってきて。
やり直して、また失敗して。そろそろ、いいんじゃないだろうか。
神様、そろそろ俺にも、チャンスをくれてもいいんじゃないだろうか。
「俺に聞くなよ」
そんな声が聞こえた気がしたが、俺の頭がおかしくなったのかもしれない。勘弁してくれ。
「さて」
呼吸を整える。後ろばかりを見てきたこの世界と人生に、終止符を。
「さよなら自分。ようこそ自分。前を向いて、歩いてみようか」
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